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深い安堵

旧家から戻ったのは、夕暮れがすっかり落ちたころだった。


大きな屋敷の玄関には、相馬をはじめ数人の使用人たちが整列して待っていた。

主人夫妻の帰宅を迎えるためだ。

いつもと変わらぬ光景のはずなのに、その場の空気はどこか張りつめている。


妻が旧家へ行ってからどうなったのか。

少しでも良い変化があったのか。

使用人たちもまた、それを気にしていたのだろう。


車が止まり、夫が先に降りる。

続いて妻が姿を見せた。


その瞬間、相馬の目がわずかに見開かれた。


妻は相変わらず静かなままだ。

言葉を次々話すわけではない。

だがその顔には、以前のような凍りついた無表情ではなく、たしかに穏やかなやわらぎがあった。


険しさも、空虚さも薄れている。

何より、そこに“今ここにいる”人の気配が戻っていた。


相馬だけではない。

他の使用人たちも、思わず息を詰めたように見えた。


妻はクマのぬいぐるみを抱いたまま、静かに立っている。

そして、出迎えた使用人たちに向かって、そっと会釈をした。


言葉はない。

それでも、その仕草だけで十分だった。


相馬は深く頭を下げる。


「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」


その声には、抑えきれぬ安堵が滲んでいた。


妻は相馬の方を見て、やはり言葉はなく、けれど穏やかな顔でほんの少しだけ頷いた。


夫はその様子を横で見ながら、胸の奥に静かなものが満ちるのを感じていた。

旧家へ行ったことが、たしかに妻の中で何かを動かしたのだと、今こうして使用人たちの前に立つ姿が教えてくれていた。


その夜。


帰宅後、夫は最低限の仕事だけを書斎で片づけていた。

旧家へ行く前に相馬へ命じたとおり、案件はかなり絞られている。

以前の自分なら夜更けまで書類に埋もれていたはずだが、今はそこまで机に向かう気にもならない。


ひと段落ついたところで、夫はペンを置いた。


そろそろ寝室へ行こうと思う。


もっとも、妻はもう休んでいるだろうと考えていた。

旧家での一日、街への散策、帰宅の疲れ。

今夜は無理に起こさず、明日の朝に様子を見ればいい。

そう思っていた。


夫が書斎の灯りを落としかけた、そのときだった。


扉の外に小さな気配がある。


「奥様、もうお休みになった方が――」


若いメイドの困ったような声が聞こえた。


夫が眉を寄せて扉の方を見る。

次いで、静かに扉が開いた。


そこにいたのは、クマのぬいぐるみを抱えた妻だった。


夫は一瞬、動きを止める。


寝間着の上に羽織を重ね、髪はほどかれたまま、眠る前の姿だった。

それでもその腕には、街で買ったクマのぬいぐるみがしっかりと抱えられている。


後ろには付き添いのメイドがいて、困惑しながら妻へ声をかけていた。


「奥様、お部屋へお戻りになりませんと……」


だが妻は、メイドの言葉に従って引き返そうとはしない。

静かに、まっすぐ、夫の方へ来ていた。


夫は立ち上がり、書斎机の脇から一歩前へ出る。


「……どうした」


声音は低かったが、以前のような詰問ではない。

ただ純粋に理由を知りたい、そんな響きだった。


妻は夫の前で足を止める。

クマのぬいぐるみを胸に抱えたまま、少しだけ夫を見上げる。


その表情は穏やかだった。

昼間、帰宅したときと同じように。


そして妻は、小さく言った。


「……一緒が、いい」


夫は息を止めた。


あまりにもまっすぐで、あまりにも静かな願いだった。


一緒がいい。


言葉の意味が胸へ落ちるまでに、一瞬かかった。

妻が、自分から。

自分の希望を、こんなふうにはっきりと口にした。


夫は目を離せないまま、慎重に尋ねる。


「……一緒に寝たいのか」


妻はクマのぬいぐるみを抱えたまま、静かに頷いた。


夫の胸の奥が熱くなり、同時にひどくやわらかくほどけていく。

旧家へ行ってから、妻の言葉も、表情も、反応も少しずつ戻ってきていた。

けれど今のこのひと言は、そのどれよりも夫に深く届いた。


一緒がいい。


それは、ただの依存でも、恐れからの縋りでもないように思えた。

少なくとも今夜、妻は自分の意思で、夫のそばを選んでいる。


夫は背後のメイドへ視線を向けた。


「下がっていい」


「かしこまりました」


メイドは安堵したように一礼し、静かに扉を閉めて去っていく。


書斎には、夫と妻だけが残された。


夫は改めて妻の方を向き、声をやわらげた。


「……一緒に寝よう」


その言葉に、妻はもう一度、穏やかに頷いた。


クマのぬいぐるみを抱いたままのその姿が、あまりにも痛々しく、同時に愛おしくて、夫は思わず妻へ手を伸ばす。

だが抱き寄せる前に、今はまず歩調を合わせようと思い直し、そっとその手を取った。


妻はその手を、静かに握り返した。


書斎の灯りがまだあたたかく残る中、二人は並んで寝室へ向かう。


今夜、妻は一人ではない。

そして夫もまた、そのことに深い安堵を覚えていた。

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