一緒に帰ろう
旧家へ戻る道は、行きよりも少しだけ穏やかに感じられた。
妻は買ってもらったクマのぬいぐるみを抱いていた。
抱え方は大事なものを守るようにやさしく、けれどしっかりとしている。
その腕の中の小さなぬいぐるみが、今の妻の心を映すようで、夫は何度も横目で見てしまった。
旧家へ着き、玄関をくぐると、家の中には昼間と変わらぬ静かな温もりがあった。
暖炉の火もまだ生きていて、外の冷えた空気とは違う柔らかさが迎えてくれる。
夫は妻の外套を脱がせ、冷えた手がつらくないようにそっと確かめる。
妻は無理なく歩いていたが、それでも今日一日は、思っていたより長く外で過ごした。
旧家へ来てからの変化がうれしい一方で、身体に負担をかけすぎていないかという心配は消えない。
しばらく居間で休ませてから、夫は静かに妻へ声をかけた。
「……もう一日、ここに泊まるか」
問いながら、返事は期待していなかった。
あるいは、頷きがあればそれで十分だと思っていた。
今日一日だけでも、妻は驚くほどたくさんのものを返してくれたのだ。
それ以上を求めるのは欲張りだと、自分に言い聞かせていた。
けれど。
妻は抱いていたクマのぬいぐるみへ一度だけ目を落とし、それから夫を見た。
その目はもう、以前のような空虚さではなかった。
穏やかで、静かで、まだ繊細ではあるが、確かに夫を映していた。
そして、小さく言った。
「……帰りましょう」
夫は目を見開いた。
思わず息が止まる。
まさか言葉で返ってくるとは思っていなかった。
帰りましょう。
それは旧家を否定する言葉ではない。
むしろ、ここに来て得た安心を持ったまま、次は一緒に今の家へ戻ろうという響きに聞こえた。
夫が何か言おうとする。
だが声になる前に、妻はもう一度、今度は少しだけはっきりと言った。
「……一緒に帰りましょう」
そのひと言に、夫の胸の奥が熱く満たされる。
一緒に。
ただ帰るのではない。
一緒に帰るのだと、妻が言った。
今の屋敷へ。
痛みも孤独もあったあの場所へ。
それでも、自分と共に帰ると。
夫はようやく口元をやわらげた。
「……ああ」
そして、今ではもう隠さずに、穏やかに微笑んだ。
「一緒に帰ろう」
その声には、安堵と、喜びと、信じたい気持ちのすべてが滲んでいた。
妻はクマのぬいぐるみを抱いたまま、静かに夫を見ている。
表情は大きくは変わらない。
けれどその目は柔らかかった。
夫は続けて言った。
「また来よう」
今度は逃げ場としてではなく。
壊したものを悔いるためだけでもなく。
二人の思い出をこれからも重ねていく場所として、またここへ来ればいい。
「いつでも来ればいい」
妻はその言葉を聞いて、ぬいぐるみを抱く腕にほんの少し力を込めた。
そして、穏やかに頷いた。
その頷きは、以前のように珍しくて壊れそうなものではなく、もう少し自然に見えた。
夫はその姿を見て、胸の内で静かに思う。
旧家は過去の場所だった。
けれど今日からは、過去に縋るだけの場所ではなくなる。
これからまた来ることのできる場所になる。
二人で帰ってこられる場所になる。
その事実が、夫には何よりもうれしかった。
冬の夕暮れが、旧家の窓の外を静かに染めていく。
暖炉の火の前で、妻はクマのぬいぐるみを抱え、穏やかに頷いている。
その姿を見つめながら、夫はもう一度だけ、心の中で繰り返した。
一緒に帰ろう。
そして、また来よう。
今度は失わぬように。
今度は本当に、共に。




