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妻の欲しいもの

朝食を終えたあと、夫は旧家の居間で妻の様子を見ていた。


今朝の妻は、昨夜までとはまた少し違って見えた。

無理に笑っているのではない。

けれど、目が合ったときのやわらかさや、呼びかけに対する小さな反応が、確かに戻り始めている。


旧家に来てからだった。


言葉が零れるようになった。

表情も、まだかすかではあるが動くようになった。

問いかければ、頷きや視線で返してくれることも増えた。

その変化はほんの少しずつで、壊れやすいものだったが、それでも夫は満たされていた。


もちろん後悔は消えない。

壊してしまったことも、地下室の七日間も、消えるはずがない。

それでも今、こうして妻が少しずつ反応を返してくれることが、夫には何よりの救いだった。


しばらくして、夫は静かに言った。


「今日は、近くの街まで歩いてみるか」


妻は椅子に座ったまま、夫を見る。

昔なら、ごく当たり前に交わされていたはずのこうした誘いが、今はまだ慎重に差し出されるものだった。


少しの間を置いて、妻は頷いた。


それだけで、夫の胸の奥があたたかくなる。


「無理はしない。疲れたらすぐ戻る」


そう言い添えながら、夫は立ち上がった。


支度を整え、二人は旧家を出る。


街までは歩いて行ける距離だった。

昔も、用があればこの道を通った。

今の大きな屋敷の周辺とは違って、旧家の近くの街は、どこか人の暮らしが手に取るように近かった。


冬の空気はまだ少し冷たい。

けれど陽は明るく、道端には雪解けの名残が小さくきらめいている。

夫は妻の手を取った。


すると妻も、しっかりと握り返した。


その握り方にもうためらいはなく、ただ静かに、確かな意思があった。

夫はその温度を感じながら、ゆっくり歩く。


街へ入ると、店先には冬の品々が並び、人々の行き交う音がやわらかく耳に届いた。

パン屋からは焼きたての香りが漂い、花屋にはまだ少ないながら季節の花が飾られている。

小さな店々の並びは素朴で、今の屋敷の暮らしとは違う穏やかさがあった。


夫は妻の歩調に合わせながら言う。


「気になるものがあれば、言え」


少し間を置き、柔らかく続ける。


「何でもいい」


昔の妻は、何かを欲しいと言わなかった。

いや、言えなかったのだろう。

必要なものさえ、自分から望むことを控え、与えられる範囲の中だけで静かに生きていた。

そのことを、今の夫はようやく知っていた。


だからこそ、今は言ってほしかった。

小さなことでもいい。

見たいもの、欲しいもの、立ち止まりたい場所。

それを妻の口から聞きたいと思った。


妻は返事をしない。

けれど夫の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなったように感じた。


二人は店先を見ながらゆっくり歩く。


そのとき、妻の足がふと止まった。


夫もすぐに立ち止まる。


妻が見ている先には、小さなおもちゃ屋のショーウィンドウがあった。

木馬や兵隊人形、小さなドールハウス、色とりどりの玩具が並ぶ中に、ひとつ、柔らかな茶色のクマのぬいぐるみが置かれている。


妻はその前でじっと立っていた。


無表情ではある。

けれどその目は、確かにそこへ向いていた。

気になっているのだと、夫にはわかった。


「……欲しいのか」


夫が静かに尋ねる。


妻はショーウィンドウを見たまま、ほんのわずかに唇を開いた。


「……欲しい」


夫は動きを止めた。


そのひと言が、思っていた以上に深く胸へ落ちる。


欲しい。


妻が、自分から。

欲しいものを口にした。


それは夫にとって、想像以上のことだった。

これまでの妻は、何かをねだることがなかった。

衣装も、装飾品も、外出すら、自分から望まなかった。

いや、望むことを許されていないと思っていたのだろう。


そんな妻が、今、目の前のぬいぐるみを見て、欲しい、と言った。


夫は胸の奥が強く満たされるのを感じながら、静かに頷いた。


「ああ」


それ以上は何も言わず、店へ入る。


店主は丁寧に頭を下げ、夫婦を迎えた。

夫はショーウィンドウのクマを指し示す。


「あれを」


包みはどうするかと問われたが、夫は短く首を振った。


そのまま受け取りたいと思った。

今すぐに妻の手へ渡したかった。


店を出ると、夫はクマのぬいぐるみを妻へ差し出した。


「ほら」


妻はそのぬいぐるみを見る。

そして、両手で静かに受け取った。


小さなクマを抱きしめるように胸元へ寄せた、その次の瞬間だった。


「……ありがとう」


夫は息を呑む。


ありがとう。

そのひと言も嬉しかった。

だがそれ以上に、そのあと妻の顔に浮かんだものに、夫は目を離せなくなった。


微笑んだのだ。


ほんのかすかではなく、今までよりずっとわかる形で。

クマのぬいぐるみを抱きしめながら、やわらかな微笑みが妻の顔に宿っていた。


無理に作った笑みではない。

機嫌をうかがうためのものでもない。

欲しいと思ったものを手にして、素直に嬉しいと感じた、そのままの微笑みだった。


夫の胸の奥が熱くなる。


旧家に来てから、妻は少しずつ変わっていた。

言葉が戻る。

反応が返る。

表情が動く。

そして今、自分から欲しいと口にし、受け取って微笑んだ。


そのひとつひとつが、夫にとっては奇跡のようだった。


「……よかった」


思わずそう零れる。


妻はぬいぐるみを抱いたまま、夫の方を見る。

その表情はまだ穏やかで、壊れそうに繊細だ。

けれど確かに、昔の妻へ続く道の途中にいる顔だった。


夫はそっと妻の手に触れる。

今は片手がクマを抱いているぶん、もう片方だけだ。

それでも妻は、その手を静かに重ねてくる。


街のざわめきの中、二人はしばらくそのまま立っていた。


夫は胸の内で思う。


これまで、自分は何も知らなかったのだと。

妻が何を欲しがるのか。

何を見れば足を止めるのか。

何を抱けば微笑むのか。


何ひとつ、まともに知ろうとしてこなかった。


けれど今、遅すぎるかもしれなくても、こうしてひとつずつ知っていきたいと思う。

その願いを、妻の微笑みが静かに肯定してくれるようだった。


冬の街は冷たくも穏やかで、小さなおもちゃ屋の前で、妻はクマのぬいぐるみを抱きしめていた。

その腕の中の温もりのように、旧家へ来てからの時間は、少しずつ二人の間の凍りついたものをほどき始めていた。

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