朝の目覚め
朝の寝室には、やわらかな光が差し込んでいた。
旧家の窓から入る冬の朝日は、今の大きな屋敷のものよりどこか近く、淡く、静かだった。
昨夜の灯りはもう消されていて、部屋の中には暖炉の残り香と、穏やかな温もりだけが残っている。
妻はまだ眠っていた。
夫の腕の中で眠りについたあとも、夜の途中で怯えて目を覚ますことはなかった。
服を掴んでいた指は、眠りが深くなるにつれて少しずつ緩んでいったが、それでもどこか安心しきったような寝息を立てていた。
そんな妻の寝顔を、夫は目を覚ましてからずっと見ていた。
よく眠っている。
それだけのことが、胸に沁みるほど嬉しかった。
地下室の夜以来、こんなふうに穏やかに眠る姿を見たことがなかったからだ。
夫は妻を起こさぬよう、できるだけ静かに身じろぎした。
その横顔は、起きているときの無表情よりずっとやわらかい。
閉じた瞼も、少しだけ色の戻った頬も、ようやく人らしい安らぎを取り戻したように見えた。
夫はためらいながら手を伸ばし、指先でそっと妻の頬を撫でた。
起こさないように。
ただそこにいることを確かめるように。
ひどく慎重な、やさしい触れ方だった。
そのときだった。
妻の睫毛が、かすかに震えた。
夫ははっとして手を止める。
けれどもう遅かったのか、妻はゆっくりと目を開けた。
朝の光を受けた瞳が、ぼんやりと夫を映す。
そして次の瞬間、その目に、ごく自然な安堵の色が浮かんだ。
「……旦那様」
夫の呼吸が止まりそうになる。
その呼びかけは、昨夜のように絞り出したものではなかった。
目を覚ましたとき、そこに夫がいた。
そのことに安心したような、ひどく素直でやわらかな声だった。
しかも、その顔には、ほんのわずかに表情があった。
大きく笑うわけではない。
けれど、無表情ではない。
緊張も怯えもなく、ただほっとしたように柔らかくほどけている。
夫は胸の奥が一気に熱くなるのを感じた。
動揺しているのが自分でもわかる。
それでも何とか声を整え、掠れながら言う。
「……おはよう」
昔なら、そんなありふれたひと言にこんなにも心を揺らすことはなかっただろう。
けれど今は違う。
この朝、この寝室で、その言葉を返せること自体が奇跡のようだった。
すると妻は、少しだけ目を瞬かせてから、静かに返した。
「……おはよう」
夫は息を呑んだ。
返事があった。
ごく普通の、短い挨拶。
けれどそれがどれほど遠いものだったか、夫には痛いほどわかっている。
旦那様。
おはよう。
たったそれだけのやり取りで、胸の内にどうしようもない喜びが溢れた。
泣きたいほどだった。
だがそんな顔を見せまいとして、夫はただ妻を見つめることしかできない。
妻はまだ少し眠たげに、けれど穏やかな顔で夫を見ていた。
その表情があるだけで、今朝の光までも昨日までとは違って見える。
それ以上、会話は続かなかった。
妻の唇は再び静かに閉じ、夫もまた何を言えばいいのかわからなくなった。
余計な言葉を重ねれば、このやわらかな朝の空気を壊してしまいそうで怖かった。
だから夫は、ただもう一度だけ、そっと妻の頬に触れた。
今度はためらいよりも、確かな喜びを込めて。
返事がある。
夫がいることに安心したように、妻が名前を呼ぶ。
それだけで幸せだった。
旧家の朝は静かに明るくなっていく。
その光の中で、二人はそれ以上言葉を交わさず、けれど確かに昨日までとは違う場所にいた。




