離さない
その夜、旧家の寝室はひどく静かだった。
暖炉の火はすでに弱まり、部屋には寝台脇の灯りだけが残されている。
窓の外には、少し前まで二人で見上げていた星空がまだ広がっているはずだった。
けれど今、夫の胸の内は穏やかではなかった。
妻は寝支度を整え、寝台の端に静かに腰を下ろしていた。
表情は昼間よりやわらいで見える気もする。
それでも、まだ壊れやすいものに変わりはない。
旧家へ来て、庭を歩き、星を見て、微笑み、愛していますとまで言った。
その一つひとつが奇跡のようであるぶん、夫はかえって怖かった。
今夜、同じベッドで眠るべきか。
夫はしばらく寝室の入口近くで立ち止まっていた。
昔なら迷いもしなかっただろう。
自分の妻なのだから当然だと、そう考えたはずだ。
だが今は違う。
あまりに多くを壊してしまったあとで、同じ寝台へ入ることさえ、妻にとっては重荷かもしれないと思う。
無理をさせたくはない。
怯えさせたくもない。
けれど、今夜この旧家で、また一人で寝かせることにも強い躊躇いがあった。
地下室の夜。
うわ言のように零れた、ひとりは怖い、という言葉。
それがどうしても胸に残っていた。
夫はゆっくりと妻の方へ歩み寄り、低く言った。
「……無理なら、俺は別で休む」
妻は顔を上げない。
けれど拒むような気配もない。
夫はそれを見て、ようやく寝台の反対側へ回った。
動きはひどく慎重だった。
乱暴に軋みを立てないように、妻を驚かせないように、そっと端へ腰を下ろす。
それでも妻は何も言わない。
夫は少し間を置いてから、寝台へ身を横たえた。
距離を取りすぎぬように、かといって近づきすぎぬように。
自分でも情けないほど、妻の呼吸や気配ばかりを気にしていた。
薄い灯りの中、妻はまだ目を閉じていなかった。
横になりながら、静かに天井の方を見ている。
夫はしばらくその横顔を見つめ、それから、ごくゆっくり手を伸ばした。
「……眠るまで、こうしていてもいいか」
返事はない。
だが妻は離れもしなかった。
夫はそっと妻を抱き寄せる。
強くではなく、ただ安心できるように。
腕の中へ引き込むというより、寄り添える場所を作るように。
妻の肩へ静かに腕を回し、その体温を確かめる。
まだ少し細い。
けれど、あの熱に焼かれていた夜よりは、ずっと穏やかな温もりだった。
夫は低く囁く。
「ゆっくり休もう」
その声には命令の響きはなく、ただ願うようなやわらかさだけがあった。
すると、その瞬間。
妻の目元から、ふいに涙が零れた。
夫は息を呑む。
抱き寄せたその腕の中で、音もなくこぼれた涙。
「……どうした」
思わず声が揺れる。
妻はすぐには答えない。
ただ涙だけが静かに頬を伝う。
夫は戸惑った。
何がいけなかったのか。
同じ寝台に入ったことか。
抱き寄せたことか。
それとも、今になって押し寄せた何か別の感情なのか。
「嫌なら、離れる」
そう言いかけたときだった。
妻の手が、夫の寝間着をぎゅっと掴んだ。
弱いけれど、はっきりとした力だった。
逃がさぬように、縋るように、胸元の布を握り寄せる。
そして掠れた声で、妻は言った。
「……ひとりは、怖い」
夫の胸が強く痛んだ。
その言葉は、地下室の夜のうわ言と同じだった。
けれど今は、夢の中ではない。
こうして意識のある妻が、自分の胸に顔を寄せながら、はっきりと口にしている。
ひとりは怖い。
どれほどの孤独が、そのひと言の中に残っているのか。
どれほどの夜が、そのひと言の奥に積もっているのか。
思うだけで、夫は喉が詰まった。
妻は夫の服を掴んだまま、そっと寄り添ってくる。
その仕草は幼いほど無防備で、胸を刺すほど切実だった。
夫はもう迷わなかった。
そのまま妻をしっかりと抱きしめる。
今度は壊れ物に触れるだけではない。
怖がっている相手を、ちゃんと包み込むための抱擁だった。
「離さない」
低い声が、自分でも驚くほどはっきりと出た。
夫は妻の髪へ頬を寄せるようにして、続ける。
「ひとりにしない」
妻の肩が、ごくわずかに震える。
泣いているのだとわかった。
夫はその震えごと抱きしめる。
もう遅いかもしれない。
地下室で過ごした七日間は消えない。
孤独も、恐怖も、簡単には癒えない。
それでも今夜だけは、少なくともこの旧家の寝室でだけは、二度と一人にしたくなかった。
「もう大丈夫だ」
それが本当に大丈夫かどうか、自分にも断言はできない。
けれど言わずにはいられなかった。
「俺がいる」
妻は何も返さない。
ただ夫の服を掴んだまま、胸元に顔を寄せている。
その手の力だけが、どれほど怯えていたのかを物語っていた。
夫はその手にそっと自分の手を重ねる。
「怖くないように、ずっとこうしている」
その言葉に対しても、妻は黙っていた。
だが少しだけ、身体の強張りがほどけた気がした。
寝室の灯りは静かに揺れている。
外には冬の星がまだ残り、旧家の夜はひどく深い。
その静けさの中で、夫は妻を抱いたまま動かなかった。
眠るまで。
いや、眠ったあとも。
今夜はこのままでいようと思った。
一人は怖い。
そのひと言を、二度と妻に言わせたくない。
そう思いながら、夫は腕の中の温もりを確かめ続けた。
やがて妻の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
服を掴んでいた指も、まだ離れはしないが、先ほどよりわずかに力がやわらいでいく。
夫はその小さな変化に胸を詰まらせながら、もう一度だけ囁いた。
「……離さない」
それは誓いでもあり、懺悔でもあった。
旧家の寝室で、ようやく寄り添うことを覚え始めた二人は、その夜、初めて同じ不安を分け合うように眠りへ向かっていった。




