表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/53

流れ星

夜の旧家は、昼間よりいっそう静かだった。


暖炉の火が小さくはぜる音だけが、居間の空気をかすかに揺らしている。

夕食を終えてからも、妻は相変わらず多くを語らなかった。

けれど昼間のように手は離さず、夫のそばで静かに時間を過ごしていた。


外はすっかり暗くなっていた。

冬の夜気は冷えるはずなのに、旧家の中にいると、その寒ささえどこか懐かしいものに思える。


妻は暖炉の光の届くあたりに座っていた。

無表情のまま、じっと窓の方を見ている。


夫はその横顔を見守っていた。


すると、不意に妻の唇がわずかに動く。


「……星」


夫は顔を上げた。


声は小さかった。

けれどはっきり聞こえた。


星。


そのひと言だけで、夫には妻が何を求めているのかわかった。

この家の庭で、昔、二人で見上げた冬の星空。

あの夜の記憶が、妻の中にもまだ残っているのだと思うと、胸の奥が熱くなる。


夫は静かに立ち上がった。


「見に行くか」


返事はない。

だが、今はもうそれで十分だった。


夫は上着を持ってきて、妻の肩にそっと掛ける。

首元が冷えぬよう整え、手を差し出す。

妻はその手を受け入れた。


二人は静かに外へ出た。


旧家の庭は、夜になると昼間とはまるで違う顔を見せる。

雪の名残が白く地面に残り、空気は冴え渡っている。

そのぶん、空は信じられないほど澄んでいた。


見上げれば、満天の星だった。


黒い夜空いっぱいに、無数の光が散っている。

都会の灯りに隠されることのない、小さく鋭い星々。

息を呑むほど静かで、美しかった。


妻は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げる。


その横顔を見た瞬間、夫は三年前の夜を思い出す。

まだ小さな屋敷で、妻がメイドだった頃。

同じように星空を見上げた、あの冬の夜。


夫は妻の隣に立ち、同じ空を見上げた。


そして、あの時と同じように、静かに言う。


「……綺麗だな」


それは星空に向けた言葉であり、同時に、隣にいる妻へ向けた言葉でもあった。


夜気の中で、その声はやわらかく響いた。


ちょうどそのときだった。


ひとすじ、流れ星が夜空を横切った。


一瞬だった。

けれどはっきりと見えるほど明るく、長く尾を引いて消えていく。


夫は思わず目を細める。

隣の妻も、じっとそれを見つめていた。


願い事をするには短すぎる時間。

それでも、その一瞬が二人の間に落としたものは大きかった。


夫は流れ星の消えた空を見上げたまま、ほとんど独り言のように呟く。


「……これからも、ずっと一緒だ」


誰に聞かせるためでもない。

誓いというにはあまりに静かで、けれど本心そのものの声だった。


それから夫は、ゆっくりと妻を見る。


妻もまた、夫を見ていた。


真正面から、静かに。


無表情だと思っていたその顔に、ほんのわずかな変化があった。


唇の端が、ごくかすかにやわらぐ。


微笑みだった。


昔のように明るく笑うわけではない。

本当に小さく、壊れそうなほどかすかなものだった。

けれど確かに、それは微笑みだった。


夫の胸が強く震える。


その一瞬を逃したくなくて、夫はそっと妻を抱きしめた。


腕の中の妻は冷たい夜気をまとっているのに、確かな温もりがあった。

離したくないと思う。

今度こそ、本当に。


妻は夫の胸に抱かれたまま、静かに目を閉じるように睫毛を伏せた。


そして、低く、やわらかな声で言った。


「……愛しています」


夫は息を呑んだ。


その言葉を、今、こうして正気の中で聞く日が来るとは思っていなかった。

熱にうなされるうわ言ではなく。

傷ついた沈黙の合間に漏れるひと言でもなく。

はっきりと、自分へ向けて。


愛しています。


たったそれだけで、これまでのすべてが胸へ押し寄せる。

失わせかけたもの。

壊したもの。

それでもなお残っていてくれたもの。


夫は妻を抱く腕に、震えぬよう気をつけながら力を込めた。


星空は相変わらず、二人の上で静かに輝いている。

冬の夜の冷たさも、今は少しも苦ではなかった。


旧家の庭で、かつてと同じ星を見上げながら、二人はようやく同じ場所へ戻り始めていた。

失われたものがすべて元どおりになるわけではない。

傷も、後悔も、消えはしない。


それでも。


綺麗だな、と言える夜がまた来た。

これからもずっと一緒だ、と言えるようになった。

そして妻は、かすかに微笑み、愛していますと告げた。


その事実だけで、夫には十分すぎるほどだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ