リップサービス①
おまけです。
「すみませーん、生もう一つ!」
喉を鳴らして空になったジョッキを力強くカウンターテーブルに置く。まだ中ジョッキで三杯目のはずだが、今日は酔いの周りが早い気がした。
「満稀さんペース早すぎじゃないですか?」
バイトのお兄さんが注文したビールを持ってきて、小言と一緒にテーブルへ置いてくる。客入りの少ない、一見すると普通の民家のような居酒屋に常連として足を運ぶ私は、最近入ったバイト君にまで名前を覚えられていた。
「いいの、今日は退職祝いだから」
「退職って祝うものでしたっけ?」
バイト君は空のジョッキと空いた皿を回収して厨房の方へと行ってしまう。少しくらい話し相手になってくれてもいいだろうに、愛想というものを感じない。私、そんなに面倒くさい?
ヤケを起こしたように縁まで注がれたビールを半分くらいまで一気に飲み、口についた泡を舌で舐め取る。
ふいに、くそ上司、いや元クソ上司のセクハラが頭を過った。
「江口君さ、そんなんじゃ新規案件獲得できないでしょ。
接待とかも積極的にして、相手をおだてるなりしないと、業績に繋がらないよ。
熱量はいいんだけどね。本音じゃないって言ったって、ただのリップサービスだよ。
減るもんじゃあるまいし。
というか女なら、口までならしてあげるとか、やりようはいくらでもあるでしょ。
これが本当のリップサービスってね。まあそのくらいのやる気概みせないと」
何が本当のリップサービスだ。ただの売春じゃねーか。バカ。ハゲ。デブ。お前なんか会社の金を横領とかして捕まればいいんだ。さらに不倫でもして、奥さんにバレて、娘の親権を奪われたあげく離婚されればいいんだ。二度と社会復帰なんてせず、一生を塀の中か、生活保護で家の中に閉じ込められてしまえ。
……いや、あんなのに私の血税を使われるのは癪だから、いっそのこと死んでしまえ。
気が付いたら四杯目の中ジョッキも空になっていた。
むしゃくしゃしていた。やり場のない怒りが溜まり続け、それをなんとか解消しようと、脳内でその感情が別の要素へと変換されていく。有り体に言えば、私はムラムラしていた。
スマホを開いて、マッチングアプリを起動する。これで彼氏ができたことはない。それどころか、直接会った回数も片手の指で数えるくらいだ。何に使っているのかといえば、取り留めのない私の愚痴をぶつけているだけである。
だけど、今日の私は少し、積極的だった。
誰かに会いたい。誰でもいい。いや、できればイケメンがいい。そんでもって、抱かれたい。そんな気分だった。
新規でマッチングした相手にしよう。
早い者勝ちだ。
適当な人にハートを送っていく。
ずいぶんとご無沙汰なので、できれば慣れている人にリードしてもらいたい。でも、今日の下着はまったく可愛くないし上下不揃いなので、そこに気が回らない不慣れな人も捨てがたい。
さっそくマッチングした。
プロフィールを見ると、三十代前半の会社員、最大課金すると手に入る認証バッチあり。身長は百八十センチメートルで、年収は一千万以上、写真は柔和な感じ。イケメンというわけではないが、ステータスを総合すると、十分妥協できるラインだった。
『今日、このあとすぐに会えませんか』
定型文のあとにメッセージを送ってみた。相手からは返事がない。
『基本はリップサービス、本番は5万からです』
さらに攻めた内容を送ってみた。これでダメなら他の男を探そう。
とういか、自分で送っておいてなんだが、リップサービスで伝わるだろうか。もう少し安直な表現にしておいた方がよかったかもしれない。
そんなことを思っていると、メッセージが返ってきた。
『いいですよ。待ち合わせは二十一時に○○駅でいいですか?』
よっしゃ、今日の私はツイている。待ち合わせの駅も最寄りから二駅で近いし、この感じなら値段交渉も上手くいきそうだ。まあ、遠目で見てヤバそうだったら逃げよう。
『大丈夫です。会えるの楽しみにしてます!』
「店長お会計!」
返信とお会計を済ませた私は、ルンルンでお店から出ていった。
待ち合わせの駅に着くまでの間に数回、やりとりを重ねた。
名前は片桐さん。服装は暗めの紺色のスーツで、大きなリュックを背負っている。私より先に到着しているらしく、改札を出てすぐにのところにいるらしい。
私も駅に到着した。階段を下って改札を覗くと、それっぽい人を発見した。写真の顔と少し違う印象を受けたけど、帰るほどではない。私だって加工した写真をプロフィール画像に使っているのだし、みんなそんなものだろう。
「片桐さんですか?」
「はい。ってことは満稀さん?」
「そうです、よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃ、行きましょうか」
簡単な顔合わせが済むと、片桐さんに手を握られた。低めで落ち着いたトーンの声に、ちょっぴり強引な感じが、より期待を加速させる。実はちょっともう濡れている。先にシャワーを浴びさせてもらおう。
「満稀さんはこういうことよくやるんですか」
「いえ、そんなぜんぜん。ほとんど初めてみたいな感じです」
「へぇ、やっぱり」
「……やっぱり慣れている人の方がいいんですか」
「そりゃもちろん。素人って面倒じゃないですか」
「まあ、そうかもですけど」
「でも本当にいいんですか?」
「何がですか?」
「いや、本番で5万って」
「高いですか?」
「逆ですよ、安すぎる。失礼ですが、何か裏があるんじゃないかって警戒しましたし」
「えぇ……、最近の相場ってそんな高いんですか」
「いや、そんなことは……って、着きましたね」
駅から歩いて数分、そういうお店が集まる場所の路地の一つに入った奥にたどり着いた。店名には『R.I.P.』と書かれている。こんなところにもリップとは、なんだかつくづく縁のある言葉に思えた。
「予約していた片桐です」
お店に入ると、片桐さんはカウンターにそう告げた。最近はパネルから選ぶのではなく、予約制が主流なのだろうか。というか、事前に予約を済ませているとか、手際のよさと私が求められていることにキュンキュンしてくる。
受け付けの人から鍵を受け取った片桐さんが迷いなく歩いていく。何度も来たことがあるのだろうか、私はその背を追った。
一〇九と書かれた部屋の前で立ち止まり、鍵を回して、中へと入る。
室内はなんら変哲のない普通のラブホテルのそれだった。予約と聞いてちょっと色々、期待していたけれど、まあ仕方がないか。
「風呂場見てきて」
ジャケットを脱いでネクタイを緩める片桐さんに言われて、私は浴室のドアを開け、
「キャッ!」
悲鳴を上げた。
「どうした?」
すぐに片桐さんがやってきた。
「あ、あの、あれ」
私は水の張った浴槽に浮かぶおじさんを指差した。
「ただの死体じゃん。びっくりさせんなよ」
片桐さんはなんでもないことのように言い放った。
——ただの死体。 え、ただの死体? なに、私がおかしいの?
困惑して棒立ちの私に、車両整備の人が着るような上下が繋がった作業着に着替えた片桐さんは、盛大なため息を吐いた。
「これだから素人は。どいてろ」
私を押しのけた片桐さんは、背負っていたリュックの中から色々な道具やらを取り出し並べた。
浴室から出た私はもうパニックで、ひとまず警察に連絡をしようとスマホを開いた。
「なんで」
スマホは圏外になっていた。
ますます加速するパニックの私の目の前に、赤黒い汚れを付着させた片桐さんが立っていた。
パン! と音が響き、私はベッドの上に転がった。
遅れて、左の頬に痛みが走り、ビンタされたのだと気が付いた。
「何してんの」
私のスマホは片桐さんの手の中に収まっていた。
痛みと恐怖で声が出ない。
片桐さんの目には明確な殺意があった。
言葉で「殺してやる」と言われるよりもずっとずっと、重みのある目をしていた。
「大人しくしてろ。次何かしようとしたら、分かってるよな」
私は涙を浮かべて、小さく、こくりと頷くことしかできなかった。




