舞台から降りて
槍が投げられた。芝生に刺さって、判定は白。距離は五十五メートルだった。
選手は一瞬、悔しそうな表情を作ったが、その感情をギュッと固めて蓄え、次の投擲のエネルギーへと変換するように平静さを取り戻す。
五十五メートルという距離はすごいが、それを悔しがれる選手はもっとすごいし、それを糧にすぐさま次を見据えられるのはもっともっとすごい。俺は二つ目を得ることがどうしたってできなかった人間であり、次はもうない。
反対側のフィールドでは女子の走高跳が行われていた。まだ予選なので見所なんてどこにもない。軽々と決勝に残る選手は、たった一回か二回、他の選手には跳べない高さを跳んで抜けてしまうのだ。
ホームストレート側のトラックから、ハードルが片付けられていった。
次はいよいよ、男子百メートルの決勝だった。
本当なら俺も今頃は、招集場所から移動して、トラックの外の待機場所でスパイクを履き、最後の調整をしていたはずなのに、こうして観客席から見ていることしかできない。
俺は準決勝で敗れてしまった。組み合わせの妙があったので、他の組で出場していたなら、タイム的には決勝に出れていたが、上位争いに参加できるほどの実力は持ち合わせていない。つまり、運に恵まれていたとしても、結果は準決勝敗退とあまり変わらなかったと思う。
高校の三年間、いや中学の三年間と小学校高学年の二年間も合わせれば、合計で八年間を陸上競技に捧げてきた結果がこれだ。
きっかけは小学生の頃の徒競走だった。いつも最後の組で、六年間一位を独占した。俺には短距離走の才能があるんだと思っていた。
中学生になって、当然のように陸上部へと入部した。初めての出場した大会で自分より速い選手がいることを知り、そして負けた。でも、練習をしたら秋の大会では余裕で勝てた。やはり自分には突出した才能があるんだと思い込みは強くなった。
高校生になると県大会にすら出場できなくなっていた。練習していれば速くなるということもなく、成長はまるで感じられない。周りはどんどん速くなって、その背が遠のいていく。立ち止まっているどころか、後退している気分にさえなった。
そうして悟ったのだ。俺は他より体の成長が早かっただけなのだと。急激に背が伸び、比例するように筋力がついて、体格がよくなっていっただけだった。それを才能や努力と勘違いしていたわけだ。
実際は、才能も努力も、まして情熱や熱量も何もかもが足りていなかった。
その証拠に思い出されるのは、中学の頃に選ばれた県の指定強化選手で、合宿に参加した時のことである。
いつもと違う環境、選手、コーチ、そして経験したことのない練習量に、俺はただただついていくだけで精一杯だった。
ようやく練習が終わってストレッチをしているところに、同じ短距離の選手が言った。
「もう一セットいくけど、誰かやる?」
いくわけないだろ。馬鹿なのか。吐きそうなくらいしんどいのに。頭の中ではそう考えながら、「俺もいかなきゃ」と心が分離していた。結局、俺は動けなかったし、追加でもう一セットやったのは十数人いる中で三人だけだった。
あそこで妥協した自分の弱さが、今でも胸に残っている。
その時、その瞬間から、俺は彼らに負けていたのだ。
しかもその三人は、この決勝の舞台で、今まさに優勝争いを繰り広げている。
たった十数秒の攻防が幕を閉じた。
走り終えた選手たちはトラックから出て一礼し、腰ゼッケンを外してスタッフに渡している。
スパイクを脱いで、選手同士、健闘を讃え合っている様子が見えた。
なんで俺はそこにいないのだろう。
四×百メートルリレーもマイルリレーも予選落ちしているので、本当の本当に、俺の部活動はここで終了である。
「終わりかぁ」
言葉にしてみると、案外なんでもないようでいて、胸にはぽっかり穴が空いている。
「ミーティングするから戻ってこいってさ。って、なんで泣いてんだよ」
「泣いてねーよ」
目元を拭って鼻をすする。席を立つと、椅子が勝手に折り畳まれて、俺の席はもうどこにもないと言われたみたいだった。
「で、なんで泣いてたん?」
「泣いてねーって」
「いやいや無理あるでしょ」
「……まあ、もうちょっと頑張ればよかったなって」
「あれ以上って、多分死ぬんじゃね?」
「いや、なんかこう、色々と工夫できたと思う」
「ストイックすぎ」
「ま、もう終わったことだけどな」
そう。もう終わったことだ。
これからは選手ではない。まして、観客席にすら戻れない。
舞台から一足先に降りてしまったのだから、後悔も置いていってしまおう。
——あ、そうか。悔しいのか。
俺はようやく大事なものに気付けた気がした。
もっと早くに気付けていれば、何かが変わっていたかもしれない。
立ち止まっていた足が、一歩、前に進んだ感覚があった。
今からでも追いつけるだろうか。追い越せるだろうか。
そんな思いも、舞台の上に置いたまま。




