満月の夜に、君をいただく①
また長くなっちゃった。
「はあはあはあ」
街灯に伸びた影が俺を追い越し、次の街灯にまた、影が後退してを繰り返す。
「追え! 逃がすな!」
後ろを振り返っている暇はなかった。
深夜の住宅街にもう何度目かの乾いた銃声が鳴り響く。
銃弾は俺の太股を掠めて石畳の地面を跳ね、民家の壁に傷をつけた。
先ほどまでは頭を狙っていたはずだが、どうやら優先順位を足止めに変更したらしい。
少しずつ遠のいていく複数人の足音に混じって、「バカ! 生け捕りだ」と聞こえてきたので、頭を狙っていたのは相手側のミスだったようだ。
細い路地裏を見つけて飛び込んだ。
一時的な雲に覆われた満月と星々の明かりは届かない。
街灯の立つ余裕もないその道はほとんど真っ暗だった。
逃亡者の意図を図ったように、路地は入り組んでいる。
もう自分がどこを走っていて、街のどの辺りにいるのかさえ見当もつかない。
建物に反響する足音がわずかに鼓膜を震わせるばかりで他の音を拾えない。
自慢の鼻も、ゴミ溜まりの路地裏では細かく判別することが難しい。
辛うじて分かるのは、まだ完全に追っ手を撒くことはできていないということだけである。
足から流れ出た血の跡は暗くて見え難いとはいえ、どこかで治療しなければいずれ追いつかれてしまう。
そうは言っても、今はまだ立ち止まるわけにはいかない。
角を曲がると通りの明かりが目に飛び込んできた。
もう少し路地を行きたかったが他に道もない。
ひとまず顔だけ出して様子を窺った。
追っ手、は見えない。
この通りを真っ直ぐ行けば、街の外に出る近道になるかもしれない。
だが、追っ手に見つかるリスクも高くなる。
街の外で待ち伏せをされている可能性だってある。
さて、どうしたものか。
こうして考えている間にも、敵は背後に迫っているはずだ。
「あの」
不意に後ろから声がした。
心臓がドキリと跳ね上がり、反射的に腕を振るっていた。
しかし、俺の振るった鋭い爪は空を切っていて、目線の先には誰もいない。
「い、いきなり何するの!」
また声がした。今度は下からだった。
声のした方を見ると、黒いフードを目深にかぶった背の低い人間が立っていた。
……いや、本当に人間か?
気配もなく、音も立てずに俺の背後を取れる人間がはたしているだろうか。
いくら考え事をしていたからといって、声を掛けられるまで気が付かないなんて、信じられなかった。
それに、獣のそれとも人間のそれとも、匂いが明らかに違うのだ。
——美味そう。
口腔によだれが湧き出てきて、思わず唾を飲み込んだ。
「ちょっと聞いてるの私の話」
「あ、ああ悪い。それで、俺に何か用か?」
「あなた、覚醒者でしょう」
こいつも敵か。
俺は呼吸を整え、体から余計な力を抜いて次の動作に備える。
空気がピンと糸を張ったように緊張した。
「待って待って落ち着いて。あなたをどうこうしようってわけじゃないの」
俺の変化に気が付いたらしく、目の前のそいつは両手を前に出して一歩、二歩と後退り、距離を取った。
「ただ、追われてるみたいだったから、力になれるかもしれないと思って」
「……お前が?」
一見して強そうな感じはしない。
とてもじゃないが、銃武装をしている追っ手を倒せるようには見えない。
コネや人脈があるのか。それとも権力者か。あるいは他に仲間がいるとか。
訝しむ俺にそいつは続けた。
「この辺に私の隠れ家があるの。ほとぼりが冷めるまで匿ってあげられる。どう、悪い話じゃないでしょ」
「対価は」
「いらない」
「信じられないな」
「私の知ったことではないわ」
「目的はなんだ。お前にどんな得がある」
「だからないってば。まあ、強いて言うなら、同族のよしみかな」
「同族?」
俺が疑問を口にするのと、そいつがフードを取ったのはほとんど同時だった。
偶然にも雲が晴れ、月光がスポットライトのようにそいつを照らす。
白い肌に白い髪、そして赤い瞳。
頭部にぴょんと跳ねる縦に長いウサギ耳。
少女のように幼い顔つきはしかし、どこか神秘的でもあった。
ただただ、キレイだ。そう思って、目を奪われていた。
そうして俺はようやく、目の前の人間が自分と同じ覚醒者なのだと理解した。
「近いわね」
彼女の長い耳がわずかに動いて言った。
俺の耳にも微かに追っ手と思しき足音が聞こえてくる。
「どうする? 私と来る?」
このままここにいたら追っ手に捕まる。
かと言って、通りに出ても逃げ切れる保障はない。
こいつを信用することもできないが、いざとなったら囮くらいには使えるかもしれない。
わずかな逡巡をして、
「案内してくれ」
俺は彼女について行くことを決めた。
月はまた雲に隠れて、路地は再び深い闇に包まれた。
連れて来られたのは廃墟としか見えない荒れた民家の一つだった。
ただし、普通の民家にあるドアや窓は一切なく、路地にある大きなゴミ箱を退け、猫や犬などのペット用みたいに開閉する小さなドアを這い這いで潜らねば入ることができない。
ドアから手を伸ばしてゴミ箱の位置を戻し、内側から何か重たいものをドアの前に置いてしまえば、見つけることも侵入することも容易ではないような造りである。
「こんなとこよく見つけたな」
部屋の中は埃っぽいし、壊れた家具が散乱していたり、破れたカーペットが広がっているけれど、身を隠すだけなら文句はなかった。
「驚くのはまだ早いわよ」
彼女はそう言うと、破れたカーペットをめくり、埋まった取っ手を持ち上げた。
ふわっと埃が舞い、地下へと続く階段が表れた。
まさかの二段構えである。
「マジか」
驚いていると、彼女は「さ、中に入って」と地下へと促した。
「早く早く」
変にワクワクしながら、背中を押されて暗い階段を一歩ずつ下っていく。
ずん、と小さく揺れて、地上への入り口が閉められた。
階段を下りた先、木製のドアを開けると、お伽噺の魔法使いが住んでいそうな部屋が広がっていた。
俺が入り口で呆けていると、脇を抜けて前に出た彼女が、
「ようこそ私の隠れ家へ」
朗らかに笑ってみせた。何かそれだけで、救われた気にさえなった。
彼女は水を入れたコップを二つ用意し、木製のテーブルに置いて椅子に腰かけた。
「あなたも座りなさい」
とでも言うような目で見られ、促されるまま彼女の対面へと座る。
コップの水を一口、彼女は飲んで見せた。
「じゃ、改めて自己紹介しましょ。私はイスカ。見ての通りウサギの覚醒者よ」
彼女のウサギ耳がピコピコと動いた。
たしかな灯りの下で見る彼女はやはり美しい。月が隠れていてくれてよかったと心から思う。
覚醒者と言っても完全な変態へと至っているわけではなく、その顔や手足は人間のそれである。特に毛深いという感じもしないし、尻尾……ってウサギにあったっけ。まあとにかく、耳以外は普通の人間と変わりはなさそうだった。
「なにじっと見て。次はあなたの番ね」
「あ、ああすまん。そうだな、ライカンとでも呼んでくれ」
「なにそれジョークか何か?」
「そう思うならせめて笑ってくれ」
イスカは口元を隠して「ふふっ」と小さく笑う。
俺もコップの水を一口飲んだ。
「それで、ライカンも覚醒者よね?」
「もちろん。そうじゃなければ、俺の母は狼と交わったことになる」
覚醒者。それは後天的に獣の姿形と特性を獲得する、覚醒遺伝というある種の病気を発症した人間のことを指す。
イスカのように症状が軽い者もいれば、俺のように顔がすっかり狼のそれへと変貌し、まるで物語に出てくる狼男になってしまった者もいる。
俺は手や足などは人間のままだが、それも満月を見てしまうと理性と共に人の形を忘れてしまうのだ。
「あれ、今日って満月じゃなかった?」
「雲で隠れていたからな。見えてなければ抑え込める」
「でも私と会った時、一瞬だけ見えたよね」
「一瞬なら問題ない」
「なるほどね。じゃあ最後の質問」
イスカは俺の目を真っ直ぐ見据えた。
嘘や誤魔化しなどは通じない、とでも言わんばかりの赤い瞳に俺が映る。
「なんで警官に追われてたの」
尋ねられないわけがないか、と安心さえ覚えた。
覚醒遺伝はたしかに奇妙な病気である。忌避する者や差別をする者も少なくないし、『覚醒者狩り』などという、昔で言うところの魔女狩りのようなことがあるのは事実だ。
しかし、国はその存在を認め、他の国民同様の権利を有する人間であると公表している。それも昨日今日の話ではなく、もう十年以上前のことだ。
つまり、覚醒者であるからといって、警官に追われるわけではない。
警官に追われるのはいつだって、罪を犯した犯罪者である。
イスカはそれを理解したうえで、俺を助けたのだ。
それならば俺も誠実であるべきだろう。
「人を殺した。妻と息子、近所の住人、警官を喰ったんだ」
イスカの沈黙はより重く、粘度を増して、「それで?」と挑発でもするみたいであった。
全て吐き出すまで逃がさないと、言外にそう言っている。そんな気がしてならなかった。
それはひと月前の満月の夜のことだった。
家族で夕食を囲んでいる時、窓の外にある月を見た。
体の内部が爆発したような感覚に襲われ、俺は意識を失っていた。
気が付いた時には朝になっていた。
家の中は銃撃戦でもしたのかと思うほどに荒れ、またいくつもの血だまりが床を濡らしていた。
人の指、長い髪の毛、千切れた腸、そして片目のない息子の生首。
息子の表情は、恐怖に歪んで固まっていた。
その他にも、見覚えのある近所の住人や警官の服を着た死体が転がっていた。
もちろん、どこかしら体を齧られた跡があった。
あまりの惨状に、俺は呆然としながら洗面台に行って鏡を見ると、そこには狼の顔をして返り血に濡れた男が映っていた。
口の中で、わずかに甘美な血の味がした。
——俺が、喰ったのか。
外から微かに人の声が聞こえてくる。
いっそ捕まってしまおうかとも思ったが、怖くなって逃げ出した。
恐ろしいのは俺自身だと言うのに、いったい何から逃げるのか。
そう問う暇もないまま、俺は逃亡生活に身を窶したのだ。
俺の知っていることを話すと、イスカは「なるほどね」と言って何か考え込み、
「そりゃ武装が物騒な警官に追われるわけだ」
数秒の沈黙ののち、顔が徐々に赤くなっていった。
「今のはジョークか?」
「そう思うなら笑ってよ」
「すまん。というか、その、それだけか?」
「そうね、あなたが人殺しでも私の知ったことじゃないわ。それともなに、あなたってば最悪ねって罵られれば満足でもするの。あなたが殺した人が生き返って、あなたの罪が無くなって、元の人間に戻れるわけ? 夢なら寝てから見なさいよ」
イスカは眉間にしわを寄せ、怒ったように捲し立てて言った。
「すまん」
「ライカンってばそればっかり。疲れてるのね。それならもう寝なさい。ベッド、あっちにあるから」
「いや、床でいい」
「人の好意は素直に受け入れた方が身のためよ」
「それじゃお前が眠れないだろ」
「イスカ。次お前って言ったら通報するわよ」
「悪かったイスカ。……それと、ベッド、ありがたく使わせてもらうよ」
「よろしい。ゆっくりお休み」
イスカの言葉に押し切られ、俺は久しぶりのベッドに潜り込んだ。
ひと月ぶりのまともな寝床と、気の休まらない逃亡生活からの一時的な解放は、俺を即座に深い眠りへと誘った。




