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いろは②


 彩葉(いろは)は大学を卒業して、


 日本一の自動車メーカーに就職が決まった。


 さすがだと思ったし、当然だとも思ったんだ。


 元々理数系が得意だったし、


 機械系を専攻した大学でも成績がよくて、


 就職活動も人一倍、いや二倍、三倍努力してたから。


 内定がたくさんあって迷っていたけど、


 先生とも相談して、彩葉は一番いい環境を選んだんだ。


 勤務先の関係でさ、東京から引っ越すことになったよね。


 引っ越し準備をしている時にさ、


 実を言えば、今度こそ、さよならだと思った。


 彩葉はそんな僕を少しの躊躇いもなく連れて行ってくれた。


 新居に着いて、荷物から僕を出して、


「これからもよろしくね」って。


 就職した彩葉の毎日は、


 目まぐるしい早さで過ぎていったね。


 1年、2年って時を経るにつれて、


 朝は早くなっていったし、


 夜は遅くなっていった。


 なんなら、帰ってきてからも仕事をしていた。


 ご飯を食べる時間も惜しむように、


 休日も休む暇もなく勉強して、


 まさしく死に物狂いって、鬼気迫る感じだった。


 疲れ切って泥のように眠る彩葉を見てさ、


「お疲れさま」


「ゆっくり休んでね」


 そんな言葉を掛けるしかできない僕は、


 彩葉の助けになれないことが歯がゆかったな。




 あれは27歳くらいだったかな。


 仕事にも慣れてきて、余裕が出てきて、


「最近楽しいんだ」


 って笑顔が増えてきた頃だったと思う。


 彩葉に恋人ができて、家に連れてきたんだ。


 同期入社で同い年の翔太(しょうた)君。


 初めて彼を見た時さ、こう思ったよ。


「ああ、この人なら大丈夫だ」って。


 なんて言うかさ、太陽みたいな人なんだ。


 明るくて、エネルギーに満ちていて、


 他人を思いやれる温かみのある人。


 彩葉が惚れるのも納得だよ。


 僕は「いい人見つけたなー」って感心したね。




 そうしてさ、あれよあれよという間に、


 彩葉が29歳の時、二人は入籍したんだ。


 間違いなく、これまでの人生で一番幸せな顔してたよ。


 嬉しかったなぁ。


 彩葉が嬉しいと僕も嬉しいんだよ。


 彩葉が幸せであることが、僕の幸せなんだ。


 結婚式も終えて、引っ越した新居で、


 僕の隣には二人のウェディング写真を置いてくれたよね。


 僕はさ、これからは彩葉だけじゃなくて、


 彩葉の家族を丸ごと見守ろうって思った。


 家族の時を刻もうって、そう思ったんだ。




 結婚から1年経ったくらいかな。


 彩葉のお腹の中に新しい命が宿ったよね。


 子どもが欲しいってずっと言ってたから、


 二人とも、めちゃくちゃ喜んでいたね。


 家に帰ってきた翔太君に彩葉が、


「赤ちゃんできたみたい」


 って言ってさ、


「ま、マジで?」


 翔太君は膝から崩れ落ちて、


 恐る恐る、彩葉のお腹に両手と耳を当ててた。


「気が早いよ」


 って彩葉は笑ったけど、


「やっっったーーーー!」


 なんて、翔太君と一緒に僕も叫んだよ。




 それから一ヶ月後だったかな。


 彩葉が泣きながら帰ってきたんだ。


 翔太君は仕事から帰ってきていなかったし、


「どうしたんだろう」


 って僕は心配になった。


 彩葉はさ、泣きながら、翔太君に電話をして、


「ごめん」


 開口一番に謝ったんだ。


「さっきね、病院に行ったらね、


 流産だった。


 赤ちゃん、ダメだった」


 言葉にしたら、(せき)を切ったみたいに、


 涙がどんどんあふれていってさ、


 彩葉は何度も「ごめんね」って言って電話を切った。


 謝らなくていいんだ。


 彩葉は悪くない。


 誰も、悪くないんだ。


 それでも彩葉は見たこともないくらい泣いてて、


 僕も泣いてた。


 何か、なんとかしないとって思うのにさ、


 何もできない自分が悔しかったよ。


 これまでの人生で間違いなく一番の絶望の中にいる彩葉を、


 ただただ見ていることしかできない。


 彩葉はいつかにしていたみたいに、


 僕を抱えて、ゼンマイを空回しさせたんだ。


 そうだよ。


 どうしようもなくなって、


 動かなくなったなら、


 ゼンマイを回して動力を蓄えればいい。


 僕が、彩葉の動力になる。


 彩葉の時間は僕が動かすからさ。


 だから。


 どうか、生きることを諦めないで。


 僕の思いが伝わったのかな。


 泣き疲れたのかそのまま眠って、


 目を腫らして起きた彩葉は僕を見てさ、


「ありがと」


 って、精一杯の笑顔でそう言ったんだ。




 あれからまた1年くらいかな。


 彩葉のお腹に、再び命が宿ったんだ。


 今度こそは!


 なんて、僕は手に汗を握った。手、ないんだけどね。


「何がなんでも生まれてきてくれ。


 彩葉に、お母さんに悲しい思いをさせないでくれ。


 頼むから、無事に生まれてきてくれ!」


 僕は、誰かに買ってもらいたいって願っていたあの頃以上に、


 神様にお祈りをしていた。


 それでみんなの願いが通じたのかな。


 ちゃんと生まれてきてくれたんだ。


 彩葉と翔太君の子ども。


 二人の名前の一文字ずつを取って、


 彩翔(あやと)って名付けられた君が。


 彩葉が退院して、彩翔が初めて家に来た時、


 僕は、彩翔と目が合った気がしたんだ。


 太陽が三つになったって思ったね。


 初めての育児で、彩葉は仕事をしていた時より大変そうだったけど、


 それでもさ、毎日がいっそう幸せそうだった。


 赤ちゃんっていうか、子どもってすごいんだね。


 ついこの前まで寝返りを打っていたかと思えば、


 ハイハイするようになって、


 つかまり立ちをして。


 ママ、パパ、チッチとか言うようになって。


 歩くようになって、走るようになって、


 たくさんお話をするようになった。


 彩翔もさ、僕がお気に入りみたいでさ、


 僕のゼンマイを回す係はすっかり彩翔になったよね。


 夜眠るときはいつも一緒だった。


 さすがにまだ重いから、持ったり抱えたりはできないけど、


 彩翔の寝顔を見守れるだけで、それだけで十分だった。




 それから4歳になった今日。


 僕はいつもの棚の定位置にいた。


 棚に手が届くくらい成長した彩翔は、


 僕を取ろうと手を伸ばしてさ。


 彩翔は悪くないんだ。


 強いて言うなら、僕が重かったんだ。


 僕を両手に持った彩翔は、落としちゃったんだ。


 すごい音がしてね。


 彩葉はすぐに彩翔の下に駆け寄ってきて、


「大丈夫? 怪我はない?」


 って確認して、抱きしめた。


 どうやら怪我はなかったみたいで、


 僕はほっと胸を撫でおろしたよ。


 もし足に当たってたら、骨折とかしてたかもしれないから。


 よかった。


 本当によかった。


 でも、彩翔は泣いていたんだ。


 大きな音がしてびっくりしたっていうのもあるんだろうけどさ、


 僕を見て泣いていたんだ。


 僕の体から、部品がバラバラに飛び散っていたんだ。


 ガラスとかさ、プラスチックとかの保護がないもんで、


 中身が、動いている様子が見える構造になっていたから、


 こればっかりは仕方がなかった。


 彩翔は散らばった歯車の一つを取ってさ、


「こわれちゃった」


 って、ぼろぼろと涙を流した。


 彩葉もさ、僕を拾い上げて、泣いてくれた。


 それを見た彩翔はもっと悲しい顔をして、


「ごめんなさい」


 震えながら謝ったんだ。


 僕は言ったよ。


「彩翔のせいじゃない。


 泣かなくていい。


 謝らなくていいんだよ」


 彩翔。


 僕はね、彩葉が、君のママが中学生の頃から、


 高校生になって、大学生になって、


 翔太君に出会い、結婚して、君が生まれて、


 今日までの全部、ぜんぶ、見守ることができたんだ。


 彩葉の時を刻むことができたんだ。


 まあ、勝手に誓って、勝手に守ってきたつもりだった。


 でも、大丈夫。


 もう、大丈夫なんだよ。


 彩翔、君がいる。


 これからはね、僕がいなくても、


 彩翔がママのことを守るんだ。


 彩翔がママの時を刻むんだ。


 一緒に笑って、


 一緒に泣いて、


 一緒に怒って、


 また、一緒に笑って。


 だから、頼んだよ。


 僕の代わりに、ママの隣にいるんだ。


 それから。


 彩葉。


 泣かないで。


 君には笑っていて欲しいんだ。


 だってさ、僕は幸せだったんだもの。


 あの日、雑貨屋で僕を見つけてくれた。


 僕を買って、隣に置いてくれた。


 君の幸せを僕の幸せにしてくれた。


 こうして、満足して逝けるのは彩葉のおかげなんだ。


 だから、ありがとう。


 いっぱい、いっぱい、ありがとう。


 ずっと、ずっと、愛してるよ。




 それじゃあ、またね。

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