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あしたへ贈る歌  作者: こいも
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愛人の微笑み

「樋口さん!」

 雪春が一花に追いついたのは、一花が学校を出てしばらくしてからだった。

 しかし追いかけてくるのが雪春だとわかると、彼女はそのまま立ち止まらずに先へ進んだ。

「待ってください。」

 自転車で前へ回り込む。

 一花は仕方なしに立ち止まると、ぎろりと睨みつけた。

「何かご用ですか」

 この嫌われよう。息を切らして追いかけてきたのが悲しくなってくる。

「さっき、見てたから。」

 息を整えながら話し出す。

「…先生が落としたんじゃないんですか。」

 やはりあの睨みはそういう意味だったのか。

 雪春はため息をつきたいのを我慢して弁解した。

「音楽準備室は向かいの校舎です。落とせません。」

「投げつければいけるかもしれないじゃないですか。」

「そんっ」

「冗談です」

 冗談でも言っていいことと悪いことがある。

 雪春は止まりかけた息をゆっくりと吐き出した。

 一花はうつむいて鞄を握り締める。

「……きっとただの事故です。」

 弱々しい断定だった。

 事故。本当にそうだろうか。

 あんな手紙があったばっかりに、どうしても考えが嫌な方向にいってしまう。


 ―誰かが一花を恨んでいる―


 一花が否定しきれないのも、同じことを考えているからだろう。

 切りつけるような悪意に、たかだか16年生きた女の子が耐えられるわけがない。

「家まで送ります。」

 しかし一花は嫌がった。

「結構です」

「でも」

 一花は遮るように道路に向かって手をあげる。タクシーが一台脇に止まった。

 簡単にタクシーを選ぶあたり、やはり裕福な家庭だ。

 そんなところに雪春との差を感じた。

「―――まで」

 地名を言って乗り込む。

 閉まる前に、扉を手で押さえた。

「今日は外を歩き回ったりは」

「しません」

 にべもない。

 頑なな横顔はどこまでも雪春を拒んでいた。


 “どうしてあんなことしているの”


 喉元まで出た言葉は、結局息と変わった。

 去っていくタクシーを無言で見送る。

「事故…だよな。」

 幸太郎が否定の言葉をすがるように言った。

 雪春は答えられなかった。

 






「あら一花、帰ったの?」

 リビング脇の廊下を通ると、母親の夏子が声をかけて来た。

 向かいには外国製のスーツに身を包んだ一人の男性が座っている。

 鼻筋の通った日本人離れの顔立ち。クォーターだと聞いている。

 きっと両親のいいところだけを受け継いだのだろう。

 30歳半ばらしいが肌も体型も若々しく、溢れ出る色気がなければ20代にしかみえない。

 狭そうに組んでいた長い脚を外して、ソファから立ち上がった。

「では、そろそろ失礼します。」

「あら、まだもう少しいても…」

「いえ、まだ仕事がありますので。」

 だったらなぜこんなところにいる。

 一花は胸の中で毒付いたが、夏子は色気を含んだ笑みにうっとりとしていた。

(お兄ちゃんが死んでまだ一ヶ月しか経ってないのに)

 幸太郎のことを悼む様子もなく、一花が夜出歩いても塾だと信じて疑わず。

 父の上司だか何だか知らないが、幸太郎が死んでから時折訪れるこの男に、媚びるような態度。

 男に女の顔を見せる夏子に、一花は嫌悪感を抱いていた。

 こんな昼間に連れ込んで、いったい何をしていたのやら。

 こちらの思いには気づかず、男は玄関に出て靴を履く。

 その動作もスマートで洗練されており、一花はますます腹が立った。

「一花」

 艶のある声で呼ばれる。世の女性は耳元で囁かれたら腰が砕けるかもしれないが、一花にはカンに障った。

 外国帰りだかなんだか知らないが、馴れ馴れしく名前で呼ぶな。

「音楽の授業は楽しいか?」

 しかしそこで思いもよらない言葉が出てきて戸惑った。

 音楽?

 不意に先ほど別れたばかりの教師の顔が浮かんだ。

 きっちり着込んだスーツに、化粧っけのない顔。そしていつも無表情。

 子供みたいな小柄な体型に、はじめは同じ学生かと思った。

 笑えない冗談を言って、兄の死を馬鹿にするようなことをした教師。

(でも…)

 校長室ではかばってくれた。心配して追いかけてきてくれた。

 本当は雪春が犯人ではないことはわかっている。

 だが素直に認められない自分がいた。

「…それなりには。」

 当たり障りのない答えを返しておく。

「へぇ」

 男が場違いなほど凄艶な笑みを浮かべた。



今日も二話投稿の予定です。

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