音楽と音が苦
今日は二話続けて更新しています。
最新話で来られた方は前の話しからお読みください。
放課後。授業を終えて準備室で一息ついていると、音楽教師の竹内裕三が入ってきた。
ソファに座り込んでいる雪春を見て微笑み「お疲れ」と声をかける。
渋いバスの声。たっぷりとしたあごヒゲに、ワックスがけでもしたのかというほど見事な輝きを放つ頭皮。定年間近だが、立ち振る舞いに老いは全く感じさせない。
音楽を教え諭すその堂々たる姿は、「魔笛」のザラストロさながらであった。
「授業には慣れましたか?」
「はい。なんとか」
嘘である。いくら準備しても不安は後を絶たない。
竹内もわかっているのか、深くは聞いてこなかった。
「音楽を生徒と一緒に楽しんでください。それが一番です」
雪春の倍以上も生きてきた色がにじみ出ている深い言葉に、つい昔のことを思い出した。
大学の声楽の試験前、歌がうたえなくて悩んでいた時期があった。
高音がでない。音がつながらない。歌詞が不明瞭になる。
考えすぎて、今までどう歌っていたかもわからなった。
試験まで日にちがない。伴奏合わせもしなくてはいけないのに。
そうやって密かに焦っていた雪春を見かねて、友人が呆れた声をだした。
“あんた、音楽が「音が苦」になってない?”
はっとした。
そうだ。自分はいつからため息をついてピアノに向かっていた?
暗い気持ちでCDを聞いていた?
こんな思いをするために始めたわけではないのに。
いつの間にかそこにある音楽を忘れていた。
結局、友人に助けられて試験は事なきを得た。
友人は最後まで「あんたは副科なんだから手を抜けばいいじゃない」とは言わなかった。
雪春は音楽学専攻だったのに。
(まぁ、ただ単にそんな考えが浮かばなかっただけかもしれないけど。)
声楽に誇りをもっていたからだ。
その直向きさが、自分には眩しく映った。
ふいに、竹内の足元が赤いもので汚れているのが目に付いた。
その視線に気がついたのか、ああこれ、と足をあげる。
「男子生徒が廊下で遊びまわって絵の具をぶちまけたんです。しっかり注意したので、今頃必死で掃除していると思いますよ。」
それは大変な思いをしたことだろう。生徒が。
この張りのある声で怒鳴られたら、しばらくは耳に残る。吹奏楽部を叱責している姿を見たことがある雪春は、その場に居合わせた生徒たちに合掌した。
竹内は水で洗ってきます、と準備室を出ていく。
その後ろ姿を見て、幸太郎は感心したような声を上げた。
「ユキの周りはいい先生が多いなー」
その言葉で、妙に納得してしまった。
幸太郎が、どんなに辛いことがあっても卑屈にならない理由に。
幸太郎は感謝を忘れないのだ。
周りの人や、物や、環境に。
自分にされたことよりも、自分にしてくれたことを拾い上げて、ありがとうと言う。
他人の視線や言葉に傷ついた自分のことで、いっぱいいっぱいになっている雪春と違って。
「そうですね。」
雪春も同僚たちのことを考えた。
本当に。たまに例外はいるが、恵まれていると思う。
こんな無表情な教師も暖かく受け入れて、導いてくれる。
懲りずに話しかけて、笑ってくれる。
自分はその三分の一も返せていないのに。
「なんか安心した。」
同僚を思って自然と目を細めていた雪春に、幸太郎がポツリと言った。
「会ったとき、元気無さそうだったから心配してたんだ。」
「え?」
思わず幸太郎を振り返る。
幸太郎は笑みを深めて言った。
「桜見て、ぼうっとして。笑ったら絶対かわいいのになーって。」
窓から夕日が差し込んでくる。
幸太郎の輪郭がきらきらと輝いて、目が離せなかった。
(もし)
もしもっと早く幸太郎と出会っていたら。
自分は違う生き方をしていただろうか。
そんな風に、綺麗に笑えていただろうか。
そんなありもしないことが頭に浮かんだ。
「・・・ばかじゃないですか。」
考えても仕方ないことだ。
見入ってしまった自分をごまかすように殊更ぶっきらぼうに言った。
なんだか少し暑くなった気がする。
雪春は窓際に寄って窓を開けた。部活に向かう生徒や、帰宅する生徒が見える。
サッカー部らしき生徒たちがグランド脇で筋トレやリフティングを行っている。グラウンドは中等部と高等部の野球部が使っていたので、サッカー部の使用日ではないのだろう。
そして向かいの校舎の脇に目を移すと、一花が歩いているのが見えた。
学生鞄を持っていることを考えるともう帰るのだろうか。
今日もどこかに行くのかもしれない。
今まで一花が一人で行ったところは、全て幸太郎と一緒に行ったところだという。
まだ幸太郎のことを思い出すのも辛そうなのに、どうしてわざわざ思い出の場所に行くのだろうか。
どうしても、自分の傷をえぐる行為にしか思えない。
自分の境遇がもう少し違ったら、理解してあげられるのだろうか。
ここから声をかければ引き止められる。少し逡巡していると、一花が立ち止まった。
後ろから誰かが呼びかけている。一学年の教師だ。
手を振りながら声をあげている。プリントのようなものを持っているので、授業の話だろうか。
一花は教師が来るのをそのまま待っていた。
しかし。
それよりも先に、一花に迫るものがあった。
「っ一花!」
隣の幸太郎が叫ぶ。
雪春も声をあげる。
一花は気がつかない。
だめだ、間に合わない。
空から落ちてきた植木鉢は、すぐそこまで来ていた。
一瞬だった。
陶器が割れる音。
誰かの息を呑む気配。
呆然としていた。
雪春も、幸太郎も―――一花も。
一花を救ったのは、飛んできたサッカーボールだった。
「おい、大丈夫か!」
蹴ったと思われる男子生徒がグランド脇から駆け寄ってきた。どこかで見た顔だ。
「怪我は?」
男子生徒は膝をついて確認する。
一花は首をふるのが精一杯な様子だった。
当然だろう。サッカーボールと植木鉢が自分の頭上をかすめたら、誰だってそうなる。
それにしても、グランド脇からあの小さな植木鉢に当てるなんて離れ業、そうそう出来はしない。
「おい、誰だ!花落としたやつ!人に当たるところだったぞ!」
男子生徒は上を見上げて怒鳴った。その声を聞いて思い出した。
たしか音楽を選択している二年生だ。
つられて上を見上げた。すると、三階の教室から二年生がひょっこり顔を出して、慌てたように弁解した。
「うちのクラスじゃないよ!ちゃんとあるから!もっと上からじゃないか?」
そう言えば美化委員の運動で、各クラスに一つずつ植木鉢が置かれていた。
となると、二年六組だろうか。
しかしそこからは誰も顔を出さなかった。
少年は諦めたように舌打ちしてから、一花におい、と声をかけた。
一花はまだぼうっと割れた植木鉢を見つめている。
「おい、しっかりしろ。」
「大丈夫か?樋口」
いつの間にか近寄っていた教師も声をかける。
一花ははっとしたように立ち上がってから、大丈夫です、と言った。
男子生徒も自分の目で怪我がないことを確認して、納得したようだ。
「怪我じゃすまないところだったぞ。ぼーっとしてんじゃねーよ」
乱暴な言い方に一花は少しムッとした顔をしたが、反論せずに謝った。
「悪いな樋口。先生が呼び止めなければ」
教師はしきりに申し訳なさそうに謝っている。
一花はいえ、と首を振ってから、男子生徒に向かって頭を下げた。
「助けていただいてありがとうございました。」
そして顔をあげると、見ている雪春に気がついた。
なぜ睨む。
①「魔笛」・・・モーツァルトのジングシュピール(ドイツ語オペラ)です。娘を救って欲しいと夜の女王に言われて、王子タミーノは鳥刺しパパゲーノを引き連れて娘パミーナを助けに行きます。そこで出会ったザラストロという人物は実は偉大な祭司で、夜の女王が実は悪者だったと判明して――ーという内容です。とってもメルヘンで辻褄が合わないこともありますが、とても有名な曲が目白押しです。夜の女王のアリアはもちろんのこと、タミーノの「なんと美しい絵姿」、パミーナの「愛の喜びは露と消え」、パパゲーノとパパゲーナの「パパパの二重唱」などがあります。個人的にはザラストロの「この聖なる殿堂では」が好きです。夜の女王とは反対に最低音がでます。こんなおじさまが欲しい。




