5.悩める兄弟
次に、クルトが離れにやってきた日、彼は1人でとぼとぼと重たい足取りだった。レギーナはすぐにそれに気付いたが、あえて知らないふりをして「こんにちは」と声をかける。
「こんにちは、レギーナ」
「今日は何をしましょうか。体を動かす? それとも、ベンチでおしゃべり? それとも……」
「うん……」
クルトはその場で立ち止まって俯いた。
「どうしたのかしら? ちょっと今日は元気がないわね」
「僕……」
「うん」
「おにいちゃんにうるさく言われて……嫌になって、逃げてきちゃったんだ……」
「あらあら。ね、クルト、一緒にベンチに座らない? 今日は日差しがぽかぽかしていて、気持ちがいいわよ」
そう言ってレギーナは離れの横に置いたガーデニングベンチに座り、その横の座面をぺちぺちと叩く。クルトはそれを見て何かを言いたそうだったが、なんとか「うん」と頷いてレギーナの横に座った。そして、座るとすぐに、彼は言葉を紡ぐ。
「あのね……僕……嫌なの。僕が嫌なの知ってて、おにいちゃんはそれをしろって言うの」
一体何のことだろうか、とレギーナは思ったが、クルトの言葉を遮らずに静かに聞いている。
「クラーラも、本当はそうした方がいいって思ってるけど、僕が嫌がるのがわかってるから言わないんだ。でも、おにいちゃんは言うの。だからね、僕、言ってやったんだ……」
「なんて?」
「おにいちゃんが僕ぐらいの年のころは何してたの、って。おにいちゃんが子供の頃は、子供だったんでしょって……僕だけ、この年なのに大人になれって言われても無理だよって……」
クルトが言っていることがよくわからない。レギーナは「ロルフがクルトに大人のようなことをしろと言っているのかしら?」と眉をひそめる。
すると、クルトはのそりと立ち上がった。
「ごめん、レギーナ。今日はやっぱり帰るね……」
「そうなの? 大丈夫? ちゃんとロルフさんのところに帰れる?」
「ううん、おにいちゃんのところには……大丈夫。僕、ちゃんと帰れるんだ。心配しなくていいよ。クラーラのところに行ってくる」
そう言えばクラーラはどこにいるんだろう、とレギーナは思ったが、何はともあれ、クルトがクラーラのところに行くと言っているのだから大丈夫だろうと考える。
(庭師は住み込みなのかしら? わたし、外からやって来ていると勘違いしていたけど……でも、住み込みで弟や妹まで一緒に住んでいるなんてことはないわよね?)
レギーナも立ち上がって「クルト」と声をかけた。
「わたしにはよくわからないけど……ロルフさんがクルトのことを大切に思っていることだけはわかるわよ」
「……うん……」
「クルトもロルフさんのこと、大切に思っているもんね?」
「うん。僕もクラーラもおにいちゃんのこと大切に思ってるよ」
「それならいいわ。今日はちょっと良くない日だけど、そんなこともあるものね。たまにはね。また今度、次はクラーラも一緒に遊びにいらっしゃい」
クルトはこくんと頷くと「またね」と小さく言って、走って行ってしまう。彼の姿が消えるまで、ずっとレギーナは立って見送っていた。
レギーナが離れの中で窓を拭いていると、ちょうどロルフが本館の庭園の方から歩いて来る姿が見えた。慌てて、手を洗って外に出るレギーナ。
「ロルフさん!」
「ああ、レギーナ……その……」
「クルトなら、クラーラのところに行くと言って……」
「ああ、うん。それはわかっているんだ……その……」
「?」
「あいつ、何か、言っていなかったか?」
バツが悪そうな表情で尋ねるロルフ。レギーナは「ふう」と小さなため息をついてから「そちらのベンチにどうぞ」と、クルトと同じように外のベンチに彼を誘導した。
「……なるほど」
レギーナはクルトが自分に何を話したのかを、包み隠さずロルフに話した。クルトはレギーナに口封じを頼まなかったし、それに、ロルフは彼らの保護者と言える立場だからだ。
「何をクルトにやれって言ったんですか? その、差し支えなければ……」
「ううん、差し支えは、ちょっとあるかな」
そう言ってロルフは苦笑いを見せる。彼は、片手で自分の頭を押さえて「うーん」と唸った。
「クルトには、やってもらわなくちゃいけないことがあって、それは、俺と庭園で会わない日にしてもらわなくちゃいけないんだ。だけど、庭園に俺が出ない日は、俺も俺でやることがあってさ……いや、これはレギーナに言う話じゃないが……」
はあ、とため息をつくロルフ。
「俺が、変わってやれればいいんだが、それじゃ駄目なんだ。俺は俺でやることがある。クルトはクルトでやることがある。それは、どっちもきちんと……ううん、俺はそうきちんと出来てはいないが、まあ、ほどほどに……それなりにやってもらわないと困るんだが、クルトはそれを嫌がってな」
「よくわからないですけど、そうなんですね」
「でも、本当はあいつもわかっているんだ。やらなくちゃいけないってことは。でも、あの年齢の子供にやれといっても、それが酷なことは俺もまたわかっている」
そう言うと、ロルフは俯いて体を前に倒した。膝の上で両手を組み合わせて、まるでお辞儀をしているように項垂れる。
「わかっていても、言うしかなくてな……でも、俺も言い過ぎたかもな……時間がそんなにないんだ。だから、ちょっと……いや……俺も悪い……」
そう言って、ロルフは黙り込んだ。時折「はあ」と小さなため息をつく。彼のその様子を見て、レギーナは「可哀相に」と思う。
修道院の子供たちと自分も、時には意見が食い違ってぶつかり合うこともあった。だが、大体一晩眠れば互いに謝ることが出来るようになる。それでも、ぶつかりあって話が通じないと思った時の心の痛みや、カッとなった時の苛立ちは、その日のうちには解消しない。きっと、ロルフとクルトも同じなのだろうと思う。
レギーナは無意識に、項垂れているロルフの頭に手を置いて、軽く頭を撫でた。
「大丈夫ですよ。クルトはいい子ですし、ロルフさんのことを大切に思っているって言っていました。それに、ロルフさんがクルトのことを大切に思っていることも知っているって。だから、明日になればきっと大丈夫になりますよ」
ロルフは頭を撫でられて体を軽くびくつかせたが、黙って項垂れたままになっている。
「きっと、蓄積していたんじゃないですか。何度も同じ話をしていませんでしたか? ありますよね。つい、同じことを言ってしまうことって」
「うん。そうなんだ……同じことを言ってしまった……」
「同じことを言いたくなる気持ちもわかります。でも、言われる方には、ちょっと重たくなって来ちゃうんでしょうね」
そう言ってレギーナは彼の頭から手を離した。
すると、ロルフはむくりと顔をあげ
「レギーナ」
「はい?」
「もうちょっと……」
「なんでしょう?」
「その……もうちょっと、撫でてくれ……」
「ええ?」
ロルフは思った以上に甘えたがりなのだろうか。レギーナは困惑の声をあげたが、そのまま彼の頭に再び手を乗せる。少しくせっ毛の銀髪は思った以上にふわふわしていて柔らかい。レギーナはその髪を何度も何度も撫でた。
「……うん。元気になってきた」
そう言ってロルフはレギーナの手を掴み、顔をゆっくりあげた。彼の大きな手に自分の手が包まれるのを見て、レギーナはなんだか気恥ずかしくなる。
「よ、かった、です」
「ありがとう」
ぎゅっと少し力を入れてロルフはレギーナの手を握った。
「あっ……」
顔をあげた、といってもまだ彼は少し前のめりで、下からレギーナをじっと見る。その視線に射抜かれたようにレギーナは「うっ」と体を少し反らしたが、手は離れない。彼の頬はわずかに紅潮しており
「悪い。ちょっと、甘えちまった」
と、照れくさそうに呟く。
「い、いいえ……」
レギーナは少しぎくしゃくしながら、ようやく彼の大きな手からそっと自分の手を抜いた。温かかったぬくもりから離れ、少し涼しい空気が手に触れる。たったそれだけのことなのに「彼に自分の手が握られていたのだ」とやたらはっきり教えられたように感じて、レギーナもまた頬を赤く染めた。
「そうだな。あんたが言う通り、明日になれば大丈夫なんだろうな。その……今まで、クルトが俺の言葉をどういう気持ちで聞いていたのかとか……それを言う相手もクラーラ以外いなかったんだと思う」
「そう、なんですか」
「うん。だからさ……クルトの話を聞いてくれてありがとうな。そんで……その。俺の、方も……なんだ……ありがとう」
最後のありがとうは少し目を逸らしてのものだったが、ロルフの気持ちはレギーナに伝わる。
「いいえ、どういたしまして。家族のことって、知らない人に話す方が楽だったりしません?」
「そう……そうかもしれんな」
「そんなもんですよ!」
そう言ってレギーナは笑い、ロルフの肩をぽんぽんと叩いた。ロルフは照れ笑いを浮かべて
「あんたがいてくれてよかったよ」
と、レギーナの目を見ながら、しみじみと告げた。レギーナは、それに返事がうまく出来ず、ただ、こくりと頷くだけだった。




