愛媛県松山市。ベトナム料理店の青パパイヤのサラダ、生春巻き、ソフトシェルクラブのカレー炒め、ベトナムコーヒー。
数日前にかなり広い範囲で梅雨入りが宣言されたはずだが、その日はたまたま降っていない。
ただ、気温は高めで空気はじっとりと湿気を含んでおり、快適とはいえない一日であった。
「こういう日は、なにかさぱりとした物か辛いものが欲しいですね」
と、タスッタさんは思う。
すでに日も暮れかかった、そんな時刻であった。
タスッタさんはこのとき、松山市の大街道役の近くをうろついている。
例によって、
「どこかおいしそうなお店はありませんかね」
とか思いつつ周囲を見回していると、あるビルの前に看板だけがポツンと出ていた。
「カフェ、ですか」
流麗な字体でベトナムの都市名とカフェがプリントされている電飾。
どうやら、このビルの一階で営業しているお店のものであるらしい。
「カフェということは、お酒のお店というわけではないんですよね?」
タスッタさんは首を傾げながら、それでも躊躇することなくそのビルの中に入っていく。
そのお店の扉を潜るとすぐに店員さんに声をかけられ、予約があるかどうかを確認される。
予約は入れていないことと、それに一人であることを伝えると、店員さんにカウンター席を勧められる。
カウンター席に移動しながら、タスッタさんは素早く店内の様子を確認した。
あまり広くはないお店で、カウンターの他にテーブル席がいくつか、そして、カウンターの向こうの壁一面にはずらりと酒瓶が並べられている。
内装からいえば、バーかスナックみたいですね。
とか思いつつ、タスッタさんは店員さんから渡されたメニューを開いた。
何人かいる店員さんたちは、外見的には日本人とほとんど変わらなかったが、言葉の端々に微妙なイントネーションが混ざっている。
おそらくは、そちらの人たちなのだろうな。
そんなことを考えながら、タスッタさんはメニューの内容を吟味しはじめていた。
あ、フォーか。
フォーもおいしそうですね。
それ以外にも、メニューには、タスッタさんが知っている料理、知らない料理含めてかなりの料理名が記載されていた。
これは目移りしますね、と、タスッタさんは思う。
どれもおいしそうであり、好奇心に任せて片っ端から注文したい衝動に駆られたが、どうにか自制をした。
まずは、サラダと、それに前菜的ななにかを。
しばらくメニューを検討した結果、タスッタさんは青パパイヤのサラダと生春巻きを頼むことに決める。
それと、メインに。
メニューのページめくっていたタスッタさんの視界に、ふと気になる文字列が入ってきた。
ソフトクラブ。
蟹ですか。
ソフトクラブの、カレー炒め。
これは、かなり食欲を刺激されますね、と、タスッタさんは思う。
タスッタさんは、まずその三品を注文した。
料理は出て来るのを待つ間に、お客さんが次々と入って来て、すぐに満席に近い状態となる。
中には慣れた様子で店員さんと親しくはなしこんでいる人などもいて、タスッタさんのような一見さんにも、地元の常連客に支えられているおみせなんだなということがよくわかった。
そんな観察をしているうちに、タスッタさんが頼んだサラダと生春巻きが運ばれてくる。
タスッタさんは、まず青パパイヤのサラダに箸をつけた。
かなり大量の野菜に、おそらくはこのお店オリジナルのドレッシングがかかっていて、これがかなりおいしい。
ナンプラーレモン汁と、それにハーブも何種類か使われているように思えた。
食べ慣れていない味であり、その分、癖が強いようにも感じたが、食欲を増進させる効果は、間違いなく、ある。
これがあれば、サラダもいくらでもいけそうな。
そう思ったタスッタさんは、途中で箸を止めて、今度は生春巻きを摘まんでみた。
野菜や鶏肉などがぎっしりと隙間なく皮に、おそらくはライスペーパーに巻かれており、それが箸で摘まんでも崩れない。
そのやけしっかりとした生春巻きを砕いたピーナッツなどが入っているタレにつけてから、口の中に入れる。
あれ?
と、タスッタさんは不思議に思う。
タレの風味も十分に主張が強いのだが、それ以上に生春巻きの具材の味が、やけに口の中に残る。
ん、ん、ん。
なんなんでしょうね、これは。
具材をいっしょに頬張ることで、ちゃんとした、かなりいい料理になっているというか。
別々で食べたときよりは、よほどおいしく感じられる。
なにこの一体感。
とか、タスッタさんは思う。
生春巻きとは、シンプルだけど、それだけにちゃんと作ればこんなにおいしい料理だったのか。
タスッタさんにしてみれば、実に嬉しいオドロキだった。
最後に注文したソフトクラブのカレー炒めがやって来た。
ざく切りにされたカニをカレーを主体にしたソースで炒めた料理で、ソースの中には蟹味噌がたっぷり入っている。
ああ、と、タスッタさんは香辛料の香りがする皿を目の前にして、そう思った。
食べなくてもわかる。
これは、絶対においしい。
そしてまずはソースをスプーンで掬って、口に入れてみた。
うわっ、濃い。
カレーの風味にまるで負けることがない、どっしりとした蟹味噌の旨味。
これは、と、タスッタさんは思う。
たまりませんね。
そして、ビールが欲しくなる。
それか、サフランライスが。
タスッタさんがそれらを注文しなかったのは、一人で完食できる分量だけ、注文をするように心がけていたからだった。
しばらくソースを堪能してから、今度はぶつ切りにされたソフトクラブの身をいただく。
ソフトクラブだから、殻ごと丸ごと、食べることができるのであった。
そうして食べていると豪快な気分になるし、なにより。
ここにも、いかにもカニっぽい味が。
そうか。
カニとカレーって、かなり相性がよかったんだな。
出された料理を完食したあと、タスッタさんは最後にベトナムコーヒーを追加で注文する。
カップの中にはお湯が落ち切るまでの間、タスッタさんは満腹感と至福の感情に包まれていた。
いいお食事でした。
と、タスッタさんは心のそこからそう思う。
そしてお湯が落ち切ったのを確認して、カップの蓋をしていたフィルターをよけて、その中に砂糖とコンデンスミルクをたっぷりと入れる。
この甘いコーヒーが、ベトナム風なのである。
コーヒーに口をつけながら、タスッタさんは満足そうに目を細めた。




