第11話 暗く、湿った街 7
「こんな朝早くから行くのかい? もう少し日が高くなってから行けばいいものを……」
ヤドリギ亭の前で句動二輪に荷物を載せている二人に向かって、宿の女主人であるラフスは溜め息を吐いた。その言葉通り、まだ空の一端が青白くなり始めただけで、早起きのはずの鳥たちでさえ鳴いていない。
「すみません。ですが、なるべく先を急ぎたいので」
点検を終えたメイクが、いつもの曖昧な微笑みを顔に浮かべながら謝る。その灰色の髪には寝起きであることを示すかのようにあちこちが跳ねているのだが、本人は全く気にしていないのか、それとも気づいていないのか。
「そうかい、まあ強く止めはしないさ。気を付けて行くことだね」
「ありがとうございます。本当に何から何まで用意していただいて、感謝してもしきれません」
呆れたようなラフスに、メイクは何度目かわからない感謝を告げる。今回の出立では、街で必要なものを用意することが出来なかったため、ラフスの宿にあるものを少々売ってもらったのだ。
頭を下げるメイクに、少し照れたようにラフスは頭を掻く。
「良しとくれ、お客さんが必要だって言ったからそれを用意する。商売人として当然のことをしたまでだよ」
「それでもです。……さて、エレナ。準備は終わりましたか」
やりとりが終わらないであろうことを察したメイクは、やや強引に話題を変える。振り向いた先にいたエレナは、最後の鞄を載せ終えたところだった。
「ちょうど終わったところ。いつでも出発できるわ」
「そうですか、それでは行きましょう。ラフスさん、お元気で」
「お世話になりました。……その、お元気で」
「……ああ、あんたたちもね」
別れの挨拶を終えると、聖句を唱え、いつでも発進出来るようになっていた句動二輪が砂埃を上げながら遠ざかっていく。ラフスは二人の姿をいつまでも見守っていたが、やがてどこかの角を曲がり見えなくなってしまうと、大きな伸びをして空を見上げる。
「さて……あたしはどうしたもんかね……」
独り言のような問いに答えられる人物はおらず、その声は虚しく街の静寂に吸い込まれていった。
***
「ねぇメイク、ラフスさんはこれからどうすると思う?」
ヤドリギ亭を出てからしばらくして、エレナが我慢しきれなくなったように問いかける。
「……彼女が決めることです。私にはわかりませんよ」
「それはそうだけど」
エレナは昨日の夜、部屋で聞いたこの街がどうなるかをラフスに伝えたときのことを思い出していた。彼女は起こるでもなく、疑うこともせず、ただ一言『そうかい』と笑って言った。
エレナはあまり人と深く知り合うことはない。それはメイクとの旅の関係上でもあるし、エレナの個人的な考えによるところもある。しかしそれでも、たった一晩とは言え、優しくしてもらった人には不幸があってほしくはないとは思う。そのため、もし、ラフスがこの街から逃げ出さなかったらと思うと、胸のどこかに不快感が生まれるのだ。だが、そんなことを気にしていても仕方ない。歴史の語り部との旅ではいつでもそうだったと考え直したエレナは、新しい問いをメイクに投げかけた。
「それで、見たところ来た道を戻っているみたいだけど、次はどこに行くの?」
「はい、トナードに一度戻ろうと思います」
メイクの意外な答えに、エレナは驚く。通常、歴史の語り部は一度寄った街や村には、何か特別な事情でもない限り行くことは無い。かなりの季節が巡ったのちに、新たな語り部が向かうのだ。それは何度も行き来することで、そこに住む人や街に情が湧かないようにするための処置でもある。
「珍しいわね。同じ地域に二度も向かうなんて」
「ラフレスの花について、もう少し調べてみたくなりました」
「何で? 散々聞いたじゃない」
メイクの答えのせいでますます混乱するエレナだったが、そのことを見抜いていたのかメイクが説明してくれた。
「おかしいとは思いませんか? 我々は一度、あの花の香りを嗅いでいます。それなのに話に聞いた気分の高揚や幸福感なんかはありませんでした」
「それは近くにフーウナも咲いていたからじゃないの?」
エレナの答えにメイクは首を振る。
「中央でお会いしたドフという方を覚えていますか? 彼もどうやらラフレスを使い、フーウナでその効果を打ち消していたようですが、それでも禁断症状の一部は残ると言っていました。ならば我々にもその作用が出ていてもおかしくはないはず。ですがそういったこともありません。ですから、あの街に蔓延したラフレスと、トナードに咲いていたラフレスは何かが違うのでしょう。それを確かめねばなりません」
「なるほどね……」
そうしてしばらく走っていると、雨が降り始める。最初のうちは小雨だったそれは、段々と大粒の雨へと変わっていった。それでも二人は止まることをせず、フードを被り走り続けた。
空の明るさが陰って来たころになって、ようやく花畑が見え始める。遠くに見える山脈では雲が時折光っていた。
「あ、メイク、あそこに誰かいる」
周囲を見渡していたエレナが、花畑に佇む人影を指さす。
「あれは……スタ老人ですね」
「こんなところで何してるのかしら。雨が降ってるのに」
「丁度良い、あの人に聞いてみましょう。どうやらこちらにも友好的でしたしね」
二人が路肩に句動二輪を止め、一人立ちすくんでいるスタの元へと歩いていくと、彼がそこで何をしているのかがわかった。彼の足元にはいくつかの石を積み上げた墓標があった。
「こんにちは」
メイクが声をかけると、スタは驚いたかのように振り向き、見知った二人であることに気づくとホッとした表情をする。
「なんだ、お二人さんかい」
「ええ、先日はありがとうございました」
「いいんじゃ。ワシの方こそ感謝せねばならん。貰った茶葉を孫が大層気に入っておるようでな」
「それは良かった」
「あの……それ、お墓ですよね……?」
二人の会話にエレナが口を挟むと、スタは悲し気な顔をして墓標を撫でる。
「ああ、妻と息子夫婦のものじゃ」
「そうなんだ……」
「ところで、こんな老人に何か用か」
暗くなりかけた雰囲気をスタは無理やり霧散させようと笑顔で問いかけるが、二人の真面目な顔を見て眉を顰める。
「スタさん。我々はラフレス及びフーウナの花の事を聞きに来ました」
メイクの言葉に、スタの表情は凍った。そして強く目を瞑ると、何事かを考えたあとゆっくりと声を発した。
「そうか……ワシの家が近い。そこで話をしよう」
スタは二人に背を向けると花畑のさらに奥へと歩いていく。それに二人は静かについて行った。
その家は花畑に隠れるように建っていた。まるで家が建った後に周囲を花畑で囲んだかのようだ。
「おかえりおじいちゃん!」
「おお、フーレス。お客様じゃ、茶を用意しておくれ」
中に入るとまだ幼いと言える少年が出迎えた。フーレスと呼ばれた少年は、メイクとエレナを好奇心の眼差しで見ていたがスタに急かされ奥へと消えていった。
「さて、座っておくれ」
「失礼します」
二人が座ったところでフーウナが奥から茶の一式を持って出てくる。
「そちゃですが」
その言葉にエレナは吹き出してしまう。メイクも苦笑いだ。なんせ粗茶と言われて出されたものが、エレナが渡した茶葉で入れられたものだったのだから。不思議そうな顔をしているフーウナに、いただきます、と断って二人は一口飲む。口の中には芳醇な香りと甘みが広がり、冷えた体を温めた。
「フーウナ、部屋へ行っていておくれ。大事な話があるのじゃ」
少年は不服そうな表情をしたが、素直に奥へと引っ込んだ。
「すまんな。これからする話は、あの子には少し荷が重かろうて」
「いえ、賢明な判断かと」
孫の前で浮かべていた優し気な微笑みは顔から消え、感情の見せない表情になったスタは目頭を揉むと少し身を乗り出して顔を俯かせる。その手は祈るかのように組まれていた。
「さて、何が聞きたいのじゃ」




