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来年の種は、取り置いてございません 〜婚約解消いたしましたので、春に何を蒔くかはご自分でお決めください〜  作者: 甲斐みつは


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第8話 戻りません

 残り二十二日。


 発つ前に、四つ目の袋から三十粒を取って布に並べました。四日目はわたくしが戻っております。


 ヴァイデンの門をくぐりましたのは、昼を少し過ぎたころでございます。


 十年おりました門でございますが、今日は取次を通しました。案内の者が先に立ちます。廊下の突き当りの絵も、階段の軋む段も、同じでございました。


 通されましたのは客間ではなく、蔵でございました。


 十年、毎朝入っていた戸でございます。開けますと、匂いが同じでございました。土と、埃と、乾いた藁の匂い。ここだけは変わっておりません。


 棚の三段目に、俵の丸い跡が八つ残っております。手前に四つ、奥に四つ。


「エルナさま」


 ミレナさまが待っておられました。その隣に、アルベルトさまとゲルハルトが立っておられます。


「見ていただきたいのです」


 ミレナさまが、袋のほうへ手をやられました。


 カルステンの三十俵でございます。俵のまま、三段目までに積んでございました。


「拝見してもよろしいですか」


「どうぞ」


 わたくしは一俵の口を解きまして、手を底まで入れました。


 冷たうございます。指のあいだから粒がこぼれます。掌に取って、窓の光のほうへ持ってまいりました。


 粒は、揃っております。色も悪くございません。ただ、細うございました。ヴァイデンの赤麦は、もう少し胴が張っております。


 わたくしは十粒ほどを指の腹で押しました。二粒、へこみました。


「乾かしすぎでございますね」


「乾かしすぎ」


 ゲルハルトが仰いました。


「乾いておりますほうが、傷みますまい」


「傷みません。ただ、目が覚めるのに時がかかります」


 わたくしは粒を袋へ戻しました。


「蒔いてから芽が出るまで、揃わなくなります。早いものと遅いものの差が開きますと、遅いほうが草に負けます」


「それは、何日の差でございましょう」


「三日から五日でございます」


「五日」


 ゲルハルトは帳簿を開かれました。開いて、閉じられました。書く欄がなかったのだと存じます。


「エルナ」


 アルベルトさまが仰いました。


「書状は、読んでくれたか」


「拝見いたしました」


「戻ってきてくれ」


 そして、頭をお下げになりました。


 この方が頭をお下げになるのを、わたくしは初めて見ました。十年のあいだ、一度もございませんでした。悪い方ではございません。ただ、下げる必要をお感じになったことが、これまで無かっただけでございます。


 わたくしは袋の口を縛り直しておりました。縛り方が甘うございましたので、結び直しました。


「アルベルトさま」


「ああ」


「わたくしが戻りましても、種は増えません」


 アルベルトさまが顔をお上げになりました。


「……いや、だが、君が居れば」


「三十俵は三十俵でございます。わたくしが参りましても、俵は増えません」


「そうじゃない。君なら、その、何とか」


「何ともなりません」


 わたくしは二俵目の口を解きました。手を入れて、底の粒を取ります。同じでございました。


「八十エーカーぶん、種がございません。これは人の手で埋まる差ではございません」


「では、どうすればいい」


「二つでございます」


 わたくしは粒を掌に載せたまま申し上げました。


「十五俵を、いま買い足すか」


「もう一つは」


「八十エーカーには、麦をお蒔きにならないことでございます」


 ゲルハルトが息を吸われました。


「蒔かぬ、と仰いますか」


「豆でしたら、いま蒔けます。豆の種は春の市に出ております。粒も揃っておりませんが、豆は揃わなくても構いません」


「豆では、値が三分の一でございます」


「三分の一でございます。ただ、豆のあとの土は、麦がよく出ます」


 ゲルハルトは首を振られました。


「今年の帳簿が合いません」


「はい」


「合わせるのが、わたくしの務めでございます」


 この方は、そこを譲られませんでした。譲れないのだと存じます。


 わたくしは粒を戻して、袋を縛りました。


「ゲルハルトさま」


「はい」


「わたくしの帳面が当てにならないと仰ったと、伺いました」


「申しました」


 この方は隠されませんでした。


「三十粒でございましょう。三十粒で、二百四十エーカーを決めるのでございますか」


「決めます」


「たった三十粒で」


「十年で、三百粒でございます。十年ぶんが同じところへ落ちますので、決められます」


 ゲルハルトは、しばらく黙っておられました。


「……一年ぶんの三十粒では、決められませんな」


「決められません」


「では、来年から始めた者は、十年待つことになる」


「なります」


 この方は、そこで初めて、少し疲れた顔をなさいました。


 蔵を出ますとき、ミレナさまが袖を引かれました。


「エルナさま。あの、豆というのは」


「はい」


「本当に、蒔けるのですか。いま」


「蒔けます。麦より遅くまで蒔けますので、あと二十日は待てます」


「二十日」


「ただ、その二十日のあいだに決めませんと、豆の種も市から消えます。皆さま同じことをお考えになりますので」


 ミレナさまは、写しを胸に抱えていらっしゃいました。前にお渡ししたものでございます。端が擦り切れております。


「決めるのは、わたしではありません」


「はい」


「でも、申し上げることはできます」


「はい」


 わたくしは、それ以上は申し上げませんでした。


 帰り際、門のところまでアルベルトさまが出てこられました。


「エルナ」


「はい」


「豆の話は、考える」


「はい」


 わたくしは礼をして、馬車に乗りました。


 扉を閉める前に、アルベルトさまが仰いました。


「……あの帳面は、まだあるのか」


「ございます」


「そうか」


 それだけでございました。


 なぜ今、そこをお訊きになったのか、道々考えておりました。読みたいと仰ったのではございません。まだあるのか、と仰ったのでございます。


 馬車は来た道を戻ります。窓の外を、ヴァイデンの南の区画が流れてまいりました。


 八十エーカー。今年、麦が立たない見込みの区画でございます。去年までは、ここがいちばん良く穫れておりました。土が重うございますので、赤麦が合うのでございます。


 合う土に合わない種を蒔きますと、二年めに響きます。今年まばらに立った麦から取り分けますと、その種がまた弱うございますので。


 豆でしたら、そこが切れます。豆は種を取り分けずに、また買えばよろしゅうございますから。


 わたくしは膝の上で指を折っておりました。


 折りながら、これはもう、わたくしの数え事ではないと思い直しました。


 思い直しましたが、指は最後まで折りました。

種を乾かしすぎますと、傷みはしませんが目覚めが鈍くなります。早い粒と遅い粒の差が開いて、遅いほうが草に負ける。エルナが指で押していたのは、その見当をつけるためでした。頭を下げられている、その最中に、です。


ゲルハルトの帳簿は最後まで合っています。合っているのに困る、という状態が、この回でいちばん書きたかったところでした。


明日、ヴァイデンの内側で数が合わなくなります。数えたのはエルナではありません。教わったとおりにやってみた、十七歳のほうです。

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