第7話 畑を起こす
残り二十六日。
朝、三つ目の袋の四日目でございました。二十五。八十三パーセント。九つのうちでは、いちばん低うございます。
この袋は、去年の秋のいちばん最後に詰めたものでございます。最後のほうは、どうしても粒が細くなります。
八十三でしたら、蒔けます。ただ、この袋の分の区画だけ、少し厚めに蒔きます。帳面の余白にそう書きつけました。
昼から、南の区画に出ました。
ヨナが先に来ておりまして、刈り株を集めております。三年ぶんの株が絡み合って、根が板のようになっております。
「これ、焼きます?」
「焼きません。鋤き込みます」
「焼いたほうが早い」
「早うございます。ですが、来年の土が痩せます」
「へえ」
ヨナは株の束を抱えて、畝の間へ寝かせました。
「エルナさん、これ何年で消えるんです」
「二年でございます。細かく刻んでおきますと、一年半ほどで」
「刻むのは誰が」
「わたくしどもが」
「増えた」
「増えました」
ヨナは束をもう一つ抱えました。文句を仰りながら、手は止まりません。この方はいつもそうでございます。
わたくしも鍬を取りました。腰で振る、と教わりましたので、そのとおりにいたします。二十ほど打ちますと、掌が痛くなりました。十年、蔵の中の仕事しかしておりませんでしたので。
「エルナさん、手」
「はい」
「豆ができますよ、そこ」
「豆」
「掌の、その」
ヨナは自分の掌を見せました。指の付け根が固くなっております。
「三日で潰れて、十日で固くなります。固くなったらこっちのもんだ」
わたくしは掌を見ました。赤くなっております。
「痛うございますね」
「痛いですよ」
それだけでございました。慰めるでもなく、褒めるでもございませんでした。
昼過ぎ、日が高くなりましたころに、井戸端で休みました。
「エルナさん」
「はい」
「奥さま、覚えてます」
母のことでございます。
「覚えております」
「俺、十のころここに来たんですけどね。奥さま、そのころ蔵にいらした」
わたくしは椀を置きました。ヨナがその話をするのは初めてでございました。
「一度、訊いたことがあるんですよ。何やってんですかって」
「母は、何と」
「蒔く分は先に取るんだ、って」
わたくしは、母の三冊目の終わりの一行を思い出しておりました。
「それだけでございますか」
「いや、続きがあった」
ヨナは麦わらを咥え直しました。咥え直してから、しばらく黙っておりました。
「――西で、村がひとつ、種を食った年があった、って」
「種を」
「凶作の年に、蒔く分まで食っちまったんだと。その年は死人が出なかったけど、次の年に出た」
わたくしは、母の帳面の日付を数えておりました。わたくしを産む前の年でございます。
「奥さま、その村を見に行かれたそうです。嫁いできてすぐの年に」
「見に」
「見て帰ってきて、それから蔵に籠るようになったって、婆さんが言ってました」
ヨナは井戸の水を汲みました。
「まあ、俺は字が読めねぇんで、帳面のことは分かりませんけど」
「ヨナさん」
「はい」
「三冊目の終わりに、一行だけ書いてございます」
「なんて」
「蒔く分は、先に取る」
ヨナは水を飲む手を止めました。それから、飲みました。
「同じこと言ってら」
「同じことでございます」
「じゃあ十年前も同じこと言ってたんだ、あの人」
「二十年前でございます」
「なお悪い」
わたくしは笑いませんでしたが、笑いそうにはなりました。
「ヨナさん」
「はい」
「母は、その村のことを、どのように仰っていましたか」
ヨナは井戸の縁に椀を置きました。
「怒ってはいなかったですよ」
「怒って」
「食った奴が悪いとは、言わなかった。俺、そこは覚えてる」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「――食うほうを選んだんだから、しょうがないだろう。おれが困るのは、その次の年に誰も文句を言えないことだ、って」
「文句を」
「食うと決めたのはその年の人で、困るのは次の年の人だから、って」
わたくしは、椀の水を見ておりました。
母の帳面には、そういうことは何も書いてございません。書いてございますのは、日付と、場所と、麦の別と、三十粒中の数と、百分率だけでございます。
書かなかったのだと存じます。書きますと、そのうち数のほうが軽くなりますので。
「まあ、二十年前の話ですけどね」
ヨナは椀を取って、水を飲みました。
「エルナさんも、そのうち婆さんになって、同じこと言うんじゃないですか」
「申しますでしょうか」
「言いますよ、絶対」
夕方、鍬を片づけておりますと、門のほうに馬が停まりました。
ヴァイデンの家紋が入った馬でございます。降りてこられたのは、家令付きの若い書記でございました。手に、封のしてある書状を持っております。
「ホルスト家 エルナさま。ヴァイデン伯爵家より、正式なお申し入れでございます」
わたくしは掌の土を落としてから、受け取りました。
封蝋は、ヴァイデンの家紋でございました。麦の穂を二本組んだ形でございます。
十年、この紋の下で暮らしました。紋の由来を、わたくしは一度も伺ったことがございません。伺いませんでしたのは、伺えば長い話になるとお思いになるだろうと、こちらで勝手に決めていたからでございます。
封を切りますと、短い文でございました。
――婚約解消の件、白紙に戻したく。至急、当家へお戻りいただきたい。
署名は、アルベルトさまのものでございました。
「お返事は、いかがなさいますか」
書記が申しました。
わたくしは書状を畳みました。畳んでから、もう一度開いて、同じところを読みました。
白紙に戻したく、とございます。何を白紙になさるのかは、書いてございません。婚約のことでございましょう。種のことではございません。
ヨナが少し離れたところで鍬を立てて、こちらを見ております。
日はまだ落ちておりません。南の区画は、半分だけ土の色が変わっております。あと二日で起こし終わります。
「明日、こちらから伺います」
「は」
「わたくしが、参ります」
「いえ、あの、お戻りいただくということで、よろしいのでしょうか」
「伺う、と申し上げました」
書記は、二度ほど頭を下げて、帰ってまいりました。
ヨナが鍬を担いで寄ってまいりました。
「行くんですか」
「参ります」
「戻るんですか」
「戻りません」
「じゃあ、なんで」
わたくしは書状を袂に入れました。
「向こうの蔵を、見ておきたいのでございます」
刈り株を焼かずに鋤き込むのは、燃やすとその年で終わってしまうからです。埋めておけば来年の土になります。早いか、来年か。この主人公は、だいたいいつも来年のほうを選びます。
軽口しか叩かない男が、母の話だけは誰よりも正確に覚えておりました。息抜き要員のつもりで置いた人物ですので、作者のほうが少々予定を狂わされております。
明日、エルナがヴァイデンへ参ります。十年住んだ家の門を、客として通ります。お茶が出ます。
ブックマークと☆は、ヨナの麦わら代に——と申しましても、あれは畑に落ちているものですので、実のところ一本もかかっておりません。




