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来年の種は、取り置いてございません 〜婚約解消いたしましたので、春に何を蒔くかはご自分でお決めください〜  作者: 甲斐みつは


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第6話 借財の頁

 残り三十日。


 うちの蔵には、袋が九つございます。蒔きます前に、九つとも検めます。九つのうち一つでも数が落ちておりますと、その袋の分だけ蒔き足さなければなりません。


 四日にひと組ずつ検めてまいりますと、播種の始まるころにちょうど終わります。毎年そのようにしております。


 三つ目の袋から三十粒を取りまして、布に並べました。


 一つ目は八十六、二つ目は九十でございました。この二つは、去年の秋のいちばん良いときに詰めた分でございます。三つ目から先は、日を追って詰めておりますので、少しずつ落ちてまいります。


 落ちましたら、その袋の分だけ厚めに蒔きます。厚めに蒔きますと、その区画だけ種が余計に要ります。要る分は、また来年の取り置きから引かれます。


 九つの袋を検めるというのは、そういう引き算を九回することでございます。


 午前のうちに、ヴァイデンから手紙が参りました。ミレナさまの字でございます。


 ――先日は、ありがとうございました。数を写して帰り、四日目に自分で数えました。


 ――三十粒のうち、十七でございました。


 わたくしは手紙を持ったまま、蔵の戸口に立っておりました。


 五十六パーセントでございます。


 記録では五十八でございましたので、二つ下でございます。二つでしたら、測り方の差の内でございます。ですが、下でございました。


 手紙には続きがございました。


 ――アルベルトさまにお見せしましたところ、そんなはずはない、と仰いました。


 ――家令さまは、こう仰いました。娘の遊びの数字を持ち出すものではない、と。


 ――エルナさまの帳面は当てにならない、とも仰いました。


 わたくしは手紙を畳みました。


 畳んでから、もう一度開いて、同じところを読みました。


 当てにならない、と仰るのでしたら、どこがどう当てにならないのかを伺いたいところでございます。伺えば、たぶんお答えになります。この方は、ご自分の言ったことの理由を必ずお持ちでございます。


 ただ、伺いに行く用がございません。わたくしはもうあの家の者ではございませんので。


 手紙の終わりのほうに、こうございました。


 ――家令さまが暮れに種を売られたのは、堤の普請の払いのためだと、下働きの者が申しております。


 堤。


 ヴァイデンにも堤がございます。三年前の長雨のあと、先代さまが下流の三つの村と一緒に築かれたものでございます。うちの祖父が築いたものより新しく、大きうございます。


 あの年の秋、先代さまがわたくしに仰いました。エルナ、来年の種はどうだ、と。長雨で穫れが悪うございましたので、心配なさっていたのでございます。


 足りない分は買いました。カルステンから買いました。


 その翌年に、先代さまはお亡くなりになりました。


 ――金貨にして、二百枚ほど残っているそうです。


 わたくしは手紙を膝に置きました。


 三十俵で、六十二枚と八枚。二百枚には、届きません。届きませんが、家令の帳簿の上では、動かせる数のうちで最も大きいものが、あの三十俵でございました。


 冬のあいだ、動かずに積んである二百四十エーカーぶんの穀。


 あの方の目に、それがどう見えていたかは、分かる気がいたします。


 夕方、父の書斎の前を通りましたら、父が算盤を置いていらっしゃいました。うちの帳面も、金のものでございます。


「エルナ。何か」


「いえ」


 通り過ぎようとして、足を止めました。


「父上。うちの堤は、どなたがお決めになりましたか」


「祖父だ」


「反対はございませんでしたか」


「あった」


 父は算盤を寄せられました。


「借りてまで築くほどの川ではない、と皆が言った。実際、あの年から十二年、川は溢れなかった」


「十三年目に」


「溢れた。三年前だ」


 父は指で机を二度叩かれました。


「堤が無ければ、下の三つの村が流れていた。だから祖父は正しかったのだと、いまは皆が言う」


「はい」


「だが、返すのはわたしだ」


 それだけ仰って、また算盤を引き寄せられました。


 わたくしは戸口で頭を下げて、部屋を出ました。


 どちらの家にも堤がございまして、どちらの家にも借財がございます。片方は畑を売らずに返すと仰り、片方は蔵を空にいたしました。


 その差がどこから出たのかを、わたくしは考えておりました。


 考えて、一つだけ思い当たることがございました。


 うちの父は、返す当てを畑の中から探しておられます。ヴァイデンの家令は、蔵の中から探されました。


 畑は年ごとに実りますが、蔵は一度きりでございます。


 夜、机に手紙を置きました。


 返事は書きませんでした。


 書きますことがございませんでした。当てにならないと仰る方に、当てになりますと申し上げても、水掛け論でございます。数はもうミレナさまがお持ちでございますし、ご自分で測っておられます。それで足ります。


 ただ、手紙は捨てませんでした。


 母の文机の抽斗に、三冊の帳面と並べて入れました。


 抽斗を閉めましたところで、ヨナが庭を通ってまいりました。手に何か提げております。


「エルナさん、まだ起きてます?」


「はい」


「これ、南の区画の土。持ってきました」


 布切れに、湿った土がひと握り包んでございます。


「まだ冷たいでしょ」


 わたくしは指で触りました。冷とうございます。指で押しますと、団子になったまま崩れません。


「まだでございますね」


「あと何日です」


「これが崩れるようになりましたら、でございます。日で決めるものではございません」


「じゃあ毎日持ってきますよ」


 ヨナは麦わらを咥え直しました。


「暇なんで」


「ヨナさん」


「はい」


「どちらから取ってこられましたか」


「南の、真ん中あたり」


「明日は、端のほうをお願いいたします。畑の中は、真ん中と端で違います」


「違うんですか」


「端は日が早く当たりますので、先に乾きます。真ん中がまだ固いのに端で決めますと、蒔いた先から乾きすぎます」


「じゃあ何箇所いるんです」


「四隅と、真ん中で」


「五個」


「五個でございます」


 ヨナは麦わらを咥え直しました。


「毎日五個」


「毎日五個でございます」


「……エルナさん、あんた、向こうでも毎日そんなことしてたんですか」


「しておりました」


「よく続きましたね」


 わたくしは、少し考えました。


「続きましたと申しますより、他にすることがございませんでした」


「そりゃ、そうか」


 ヨナは笑いました。それから、笑いをおさめて申しました。


「エルナさん」


「はい」


「向こうの畑、間に合わないんでしょ」


「間に合いません」


「それ、向こうは知ってるんですか」


 わたくしは布切れの土を、指で押しておりました。


「ミレナさまだけが、ご存じでございます」


「一人か」


「一人でございます」


「その一人が言わなかったら」


「蒔かれます。まばらに」


 ヨナは麦わらを咥え直しました。


「……エルナさんは、待つんですね」


「はい」


「何を」


「訊かれるのを」


 ヨナはそれ以上は訊かずに、行ってしまわれました。


 わたくしは布切れを机の端に置きました。


 三日ほど置きますと乾いてしまいますので、明日には返さなければなりません。それでも、置きました。

土が蒔けるかどうかは、暦ではなく手で決めます。ひと握り握って、指で押して、崩れるかどうか。崩れなければまだ早い。四隅と真ん中の五箇所を毎日見るのは、同じ畑でも乾き方が違うからです。ヨナが毎日持ってくると言ったのは、そのためでした。


エルナはミレナの手紙に返事を書きません。書きませんが、捨ててもおりません。この人の情は、だいたいそういう形でしか出てまいりません。


明日は畑を起こします。土のほかに、二十年前のものが一つ出てまいります。

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