第5話 売りません、と申し上げました
残り三十四日。
布の四日目でございました。二十七。九十パーセントでございます。同じ袋から二度取って、八十六と九十。四つの差でしたら、偏りとは申せません。帳面に書きつけました。
書き終えたところで、父に呼ばれました。
客間にヴァレンが座っております。机の上に、紙が一枚置かれておりました。
「おはようございます、お嬢さん」
「おはようございます」
「昨夜のうちに、こちらを用意させていただきました」
紙を見ました。ホルスト家の種籾三十俵を、一俵あたり金貨七枚で買い受けるとございます。
二百十枚でございます。
父の手が、湯呑みの縁にかかったまま止まっておりました。
うちには借財がございます。祖父の代の堤の普請でこしらえたもので、まだ三分の一ほど残っております。金貨にして百七十枚ほど。畑二年分の収穫に相当いたします。
二百十枚あれば、返せてしまいます。
「エルナ」
「はい」
「……売っても、いいのだぞ」
父は、そう仰いました。
仰ってから、湯呑みをご覧になりました。ご自分でも、言うつもりのなかったことを言ってしまわれたのだと思います。
「父上」
「うむ」
「うちの畑は、百二十エーカーでございます」
「そうだ」
「百二十エーカーに蒔きますのに、十五俵ほど要ります。残りの十五俵は、来年ぶんを取り分けるための元でございます」
「元、とは」
「今年蒔いた麦から、秋にまた選り分けます。選り分けられる量は、蒔いた量で決まります」
父は湯呑みから手を離されました。
「売りますと、今年は蒔けません」
「……ああ」
「今年蒔けませんと、秋に取り分ける種がございません。来年も蒔けません」
わたくしはヴァレンのほうを向きました。
「売りません」
ヴァレンは、腕を組んで天井を見ておりました。
「二百十枚ですよ」
「はい」
「借財、あるんでしょう」
「ございます」
どちらでお聞きになりました、とは、もう伺いませんでした。この方は、伺えば必ず、商いをしておりますと仰います。
「今年一年、畑を休めばいい。金は返せる。来年、また買えばいい」
「来年も、春には出てまいりません」
ヴァレンの目が、こちらへ戻りました。
「秋に買えばよろしい、と仰るのでしたら、秋の種籾はどなたがお売りになりますでしょう」
「そりゃ、余らせたところが」
「余らせたところは、蒔く分を取り分けた残りを売ります。取り分けた分は売りません」
わたくしは紙を父のほうへ戻しました。
「売れば、来年うちが同じことになります」
部屋の中で、誰も何も言いませんでした。父が湯呑みを持ち上げて、一口だけ飲んで、置かれました。
ヴァレンが、ふう、と息をお吐きになりました。
「いや、参りましたな」
そして立ち上がって、外套を取られました。
「ま、いいでしょう。うちも十五俵はかき集めます。値は張りますがね」
「かき集められますので」
「え?」
「集まらないと仰っていたように伺いましたが」
ヴァレンは外套に腕を通す手を止めて、それから笑いました。
「かき集めると申し上げたはずですよ、お嬢さん」
わたくしは玄関までお送りいたしました。
ヴァレンは荷馬車に片足をかけたところで、こちらを振り返りました。
「ときにお嬢さん」
「はい」
「あんた、ヴァイデンに戻る気は」
「ございません」
「ふうん」
ヴァレンは、御者台に腰を落ち着けました。それから、少し可笑しそうに仰いました。
「そりゃ困った」
「何がでございましょう」
「俺はね、ヴァイデンに種を売るとき、こう言ったんですよ」
手綱を取られました。
「──ご心配なく。エルナさまはお戻りになる。あの方が戻れば、多少数が足りなくても何とかなさる。だから今のうちに押さえておくのがよろしい、とね」
わたくしは、門柱に手を置いておりました。
「そう申し上げたら、あちらさん、値切るのをおやめになった」
「……それは」
「暮れの三十俵、一俵二枚半でお納めしたと申し上げましたな。あれ、相場は二枚でございます」
馬が首を振りました。
「三十俵で、金貨十五枚ぶん余計に頂戴した勘定になります。悪いことをしたとは思っておりませんよ。買うほうが得心して払ったんですから」
「はい」
「ですが、戻らないんじゃ、話が違ってくる。困ったねえ」
荷馬車が門を出てまいります。轍が、昨日のものに重なりました。
わたくしは門柱に手を置いたまま、しばらくそこにおりました。
振り返りますと、父がまだ客間の窓のところに立っておいででした。目が合いますと、父は窓から離れられました。
昼餉のあと、父が蔵へ来られました。父が蔵へ入られるのは、年に一度あるかどうかでございます。
「エルナ」
「はい」
「さっきは、済まなかった」
「いいえ」
「売っても、と言った」
父は棚を見上げていらっしゃいました。四段とも埋まっております。
「わたしは、あれを見て金貨に数えた。お前がひと冬かけて選ったものを、金貨に数えた」
「父上」
「向こうの家令と、同じことを言ったのだ」
わたくしは布を吊るす手を止めました。
「ゲルハルトさまは、帳簿を合わせていらっしゃいます」
「うむ」
「合っているものを、間違っているとは申せません。あの方の帳簿には、種籾という欄がございませんでした」
「欄が無ければ、無いものになるか」
「なるようでございます」
父はしばらく棚をご覧になっておりました。
「堤の借財は、わたしの代で返す」
「はい」
「畑を売らずに、だ」
「はい」
父は蔵を出て行かれました。敷居のところで一度立ち止まって、それから、こう仰いました。
「今年の数は、幾つだった」
わたくしは帳面を開きました。
「八十六と、九十でございます」
「そうか」
父が仰ったのは、それだけでございました。けれど、この十年で初めて、その数を訊かれたのでございます。
夕方、ヨナが井戸端で鍬を洗っておりました。
「あの商人、また来ますよ」
「そうでございましょうね」
「エルナさん、断ったんでしょ」
「はい」
「うちの旦那さま、なんて」
「畑を売らずに返す、と」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「そりゃ、うちの旦那さまが言いそうなことだ」
それから、鍬を立てかけながら申しました。
「で? 向こうの十五俵、どうなるんです」
「集めるそうでございます」
「集まるんですか」
「集まりましたら、値が付きます。集まりませんでしたら、値が付きません」
「どっちにしても、あの人が困らねぇってことでしょ、それ」
わたくしは、井戸の縁に置いた椀を取りました。
この方は、字を読まれません。けれど、そういうところは、いつも早うございます。
その晩、寝る前に、昼間のやりとりをもう一度なぞりました。
わたくしが戻るという話を、わたくしは一度も聞いておりません。アルベルトさまからも、ゲルハルトからも、ミレナさまからも。
では、あの方はそれを、どなたからお聞きになったのでございましょう。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。初日ぶんはここまででございます。
種を売らない理由が、報復ではなく計算であるところを書きたい回でした。今年売れば来年蒔けない。来年蒔けなければ再来年の種がない。エルナはその一本の線しか見ておりません。
明日からは一日一話でまいります。次に開くのは、種籾が売られた理由の頁です。理由は、金貨六十二枚では足りない大きさをしております。




