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来年の種は、取り置いてございません 〜婚約解消いたしましたので、春に何を蒔くかはご自分でお決めください〜  作者: 甲斐みつは


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第4話 足りない十五俵

 残り三十八日。


 朝、新しい三十粒を布に並べました。今度は同じ袋の、反対側から取っております。同じ袋で二度取って数が大きくずれるようでしたら、袋の中で偏りが出ておりますので、そのときは全部を広げて選り直さなければなりません。


 布を隅へ置きまして、外へ出ました。


 ヨナが鍬を担いで待っておりました。


「南の区画、行きます?」


「参ります」


 三年荒れた畑は、土が固うございました。鍬の先が半分も入りません。去年の刈り株がそのまま残っておりまして、根が絡んでおります。ヨナは麦わらを咥えたまま、器用に打っております。


「エルナさん、そこ、力入れすぎ」


「入れませんと、入りませんので」


「麦は逃げねぇって。腰で振るんですよ、腕じゃなくて」


 言われたとおりにいたしますと、確かに深く入りました。悔しくはございませんでした。この方は十四のときからこの畑におります。


「エルナさん、向こうでも鍬持ってたんですか」


「持ちませんでした」


「なんで」


「奥さまになる方が鍬を持つものではない、と」


「へえ」


 ヨナは打つ手を止めませんでした。


「じゃあ十年、蔵だけ」


「蔵だけでございます」


 昼になりまして、二人で井戸端に座りました。ヨナは麦わらをもう一本くわえ直しております。


「向こう、どうすんですかね」


「十五俵、足しませんと」


「足せます?」


「春の市に、種籾は出てまいりません」


「なんで」


「秋のうちに取り分けておくものでございますから」


 わたくしは水を汲みながら申しました。


「春に出回りますのは、食べるための麦でございます。粒を揃えておりませんし、乾かしすぎておりますので、蒔いても揃って芽が出ません」


「食う麦と蒔く麦は、別」


「別でございます」


「そりゃ、うちの旦那さまも知らねぇな」


「父上は、ご存じでございます」


「へえ、そうなんだ」


 ヨナは麦わらを口の端に寄せました。


「じゃあ向こう、どっから買うんです」


 答えは夕方に参りました。


 門の前に荷馬車が一台停まりまして、御者台から男が降りてまいりました。四十を過ぎたあたりでしょうか、外套の仕立てが良うございます。手袋も新しうございました。


「ホルストの男爵さまのお宅で間違いございませんかね」


「はい」


「わたくし、カルステンでちいと商いをしております、ヴァレン・コルプと申します」


 コルプ商会。ヴァイデンへ三十俵を納めた商人でございます。


「お嬢さんが、エルナさま」


「はい」


「いやあ、噂は伺っております。種のことなら右に出る者がいないと」


 わたくしは黙っておりました。噂などというものが立つほど、この仕事は人目につきません。誰から伺ったのでございましょう、と申し上げようとして、やめました。


「実は、ヴァイデンさまから追加のご相談をいただきましてね」


 ヴァレンは荷台の幌を軽く叩きました。


「十五俵。ですが、今の時期でしょう。うちの蔵にもそう都合よくは残っておりません。近在をあたって、かき集めて、それでようやくというところで」


「お値は」


「そこなんですよ」


 ヴァレンは、困ったという顔をなさいました。困った顔をしていらっしゃるのに、目は困っておりませんでした。


「暮れにお納めした分が、一俵あたり金貨二枚と銀貨四枚。今度のは、一俵あたり金貨六枚を頂戴したく」


 二倍半でございます。


「高うございますね」


「時期でございます。ご不満でしたら、他をあたっていただいて結構なんですが」


 ヴァレンはそこで言葉を切りまして、荷台のほうへ顎をやりました。


「他が無いんですな、これが」


 わたくしは荷台を見ました。幌の隙間から、麻袋の口が覗いております。袋の縫い目が、この辺りのものではございませんでした。


「その荷は」


「ああ、これは違います。これはよそさまの荷でしてね」


 ヴァレンは幌を下ろされました。下ろし方が早うございました。


「ところでお嬢さん」


「はい」


「あんたの蔵にある種、売らないか」


 風が出てまいりまして、門の脇の枯れ枝が鳴りました。


「うちの蔵は、四段でございます」


「三十俵ほど、ありますな」


 わたくしは、この方が蔵の中を見ていらっしゃらないことを確かめました。門から蔵は見えません。


「どちらでお聞きになりました」


「商いをしておりますとね、いろんなことが耳に入ります」


 ヴァレンは笑いました。


「明日、また伺いましょう。お父上ともお話をしたい」


「明日、返事を申し上げます」


「そりゃありがたい」


 ヴァレンは御者台へ戻りました。


「言っときますがね、お嬢さん。あんたが売らなくても、向こうの畑は蒔かれます。何か蒔かなきゃ土が死ぬ。だったら」


「だったら」


「誰が売るかの話でしかない」


 荷馬車が門を出てまいります。轍が二本、門前の泥に残りました。


 わたくしは蔵へ戻りまして、布をめくりました。まだ一日目でございますので、何も出ておりません。


 三十粒は、ただ濡れて並んでおります。


 母屋のほうから、父がこちらを見ておられるのが分かりました。ヴァレンの荷馬車を、門のところまで見送っておられたようでございます。


 夜、父の書斎へ参りました。


「あの商人、何と言ってきた」


「うちの種を売らないか、と」


 父は帳面を閉じられました。父の帳面は、畑のものではなく、金のものでございます。


「値は」


「まだ伺っておりません。明日、持ってまいります」


「……そうか」


 父はそれきり黙っておられました。わたくしも黙っておりました。


 この家の借財のことは、わたくしも存じております。祖父の代に堤を築きまして、その普請が思いのほか大きくなったのだそうでございます。堤そのものは、いまも川を止めております。三年前の長雨のとき、下の三つの村が助かりました。悪い普請ではございませんでした。


 ただ、金貨は残っております。


「エルナ」


「はい」


「向こうの家では、お前は何をしていた」


「蔵でございます」


「それは聞いた。そうではなく」


 父は言葉をお探しになりました。


「……お前が居なくなって、向こうは困っているのか」


「まだ、困っておられません」


「まだ」


「はい」


 わたくしは戸口のところで頭を下げました。


「四十日ほど先でございます」


 部屋を出ましたところで、ヨナが廊下の端に座って草鞋を編んでおりました。


「エルナさん」


「はい」


「あの荷馬車、幌の下、豆じゃなかったですよ」


 わたくしは足を止めました。


「ご覧になりましたか」


「袋の口が開いてた。麦です。あれ、たぶん去年のじゃない」


「と、申しますと」


「色ですよ。去年のはもうちょい白い」


 ヨナは草鞋を編む手を止めませんでした。


「まあ、俺は字が読めねぇんで、荷札は分かりませんけど」

春に種籾が売っていないのは、値が高いからではなく、そもそもそういう商品ではないからです。秋に取り分けて冬を越させるまでが仕事で、春に慌てて買える棚は最初からありません。


ヴァレンが強気なのは、それを知っているからです。嘘はついておりませんし、値が高いのも時期のせいです。困るのは買うほうだ、という話をしているだけの、たいへん正しい商人でございます。


明日、エルナが返事をいたします。父も同席いたします。……この父が、少しばかり揺れます。


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