第3話 五十八という数字
残り四十二日。布に並べて四日目でございます。
朝いちばんに蔵へ参りまして、隅の布をめくりました。
白い根が出ております。数えます。
一、二、三——数えますときは、出た粒を左へ、出ていない粒を右へ寄せます。まとめて見ますと必ず間違えますので、一粒ずつ動かします。
二十六。
三十粒のうち二十六でございますから、八十六パーセント。去年が八十八、一昨年が八十七でございましたので、こんなところでございましょう。
わたくしは帳面を開いて、五三二年の欄に書きつけました。二月十四日、ホルスト、赤麦、三十粒中二十六、八十六。
書き終えたところで、門のほうが騒がしくなりました。
出てまいりますと、ヴァイデンの馬車が停まっております。降りてきたのは、ミレナさまでございました。十七になられたばかりのはずでございます。
「エルナさま」
ミレナさまは、走るような足取りでこちらへ来られました。外套の裾が泥で汚れております。半日の道を、朝の暗いうちに出ていらっしゃったのでしょう。
「あの、突然に、申し訳ありません。あの、わたし、蔵を、任されまして」
「はい」
「それで、あの」
ミレナさまは息を整えて、それから深く頭を下げられました。
「発芽試験のやり方を、教えていただけませんか」
わたくしは蔵へお通しいたしました。
布と椀を出しまして、袋の底へ手を入れて三十粒を取るところからお見せいたしました。ミレナさまは、袋の口を覗き込んで、真剣な顔をなさっております。
「上から取ってはいけないのですか」
「上には軽い粒が浮いてまいります。軽い粒は芽が出やすうございますので、良い数字が出てしまいます」
「良い数字が出るのは、いけないのですか」
「測るためのものでございますから」
ミレナさまは、しばらく黙って布をご覧になっておりました。
「あの、数え方も、決まりが」
「出たものを左、出ていないものを右へ寄せます。まとめてご覧になりますと、必ず数を多く取ります」
「多く」
「人の目は、そういうふうにできております」
ミレナさまは指で布の上をなぞる仕草をなさいました。それから、両手を膝の上に置かれました。
「……あの、エルナさま」
「はい」
「うちの蔵に、カルステンの種が三十俵、届いたのです」
「伺っております」
「それで、その、アルベルトさまが、これで足りると仰るのですけれど」
ミレナさまは指を組んだり解いたりしていらっしゃいます。
「足りるのか、わたし、分からなくて。分からないと申し上げましたら、去年までは何とかなっていたのだから大丈夫だと」
わたくしは十冊の包みを持ってまいりまして、机の上に置きました。
「ご覧になりますか」
「よろしいのですか」
「請われましたので」
まず五二二年から順に、ヴァイデンの赤麦の欄をお見せいたしました。八十九、八十六、八十八、八十七、九十、八十四、八十七、八十八、八十六、八十七。
「平均で、八十七でございます。十年ぶんの」
「はい」
「ヴァイデンの土は、重うございます。粘りが強うございますので、種のほうが土に慣れておりませんと、芽が上がってまいりません」
「土に、慣れる」
「同じ畑で何年も取り続けますと、その土で残るものだけが残ってまいります。十年かけて残したものが、あの三十俵でございました」
ミレナさまが、顔をお上げになりました。
「売られた三十俵が、それですか」
「はい」
しばらく、どちらも何も申しませんでした。ミレナさまは机の上の帳面を、順に一冊ずつ見ていらっしゃいました。
それから、五二九年の冊を開きました。三年前の、長雨の年でございます。
「この年、自領の種が足りませんで、他所から買っております」
「どちらから」
「カルステン領でございます」
ミレナさまの背が、少し伸びました。
「その年の記録が、こちらに」
わたくしは、指を止めました。
秋の欄のあとが、そのまま冬になっております。
「……エルナさま?」
「いえ」
毛羽のことは、申し上げませんでした。まだ、何も分かっておりませんので。
わたくしは五二八年と五三〇年の冊を出しました。前の年と、次の年でございます。カルステンの種は、その二年にも少しずつ買っております。試しに一部の区画へ蒔いて、様子を見ておりました。
「五十九。五十七」
「五十……」
「平均で、五十八でございます」
ミレナさまの指が止まりました。
「八十七と、五十八」
「はい」
「では、あの」
「二百四十エーカーを、八十七パーセントで埋めますのに、三十俵でございます」
わたくしは帳面の余白に、指で数を追いました。
「五十八でございますと、同じ面積に、四十五俵が要ります」
ミレナさまは動かれませんでした。
「届きましたのは、三十俵でございますね」
「……三十俵です」
「では、十五俵ぶん足りません。エーカーで申しますと、およそ八十でございます」
蔵の中はひんやりしております。ミレナさまの息だけが白うございました。
「八十エーカー、蒔けない」
「蒔けない、のではございません。蒔いても、揃って出てまいりません。まばらに出ますと、そこに草が入ります。草が入りますと、秋の手間が三倍になります」
「三倍」
「刈るのが、でございます」
ミレナさまは、両手で顔を覆われました。泣いていらっしゃるのかと思いましたが、そうではございませんでした。しばらくして手を下ろされたとき、目は乾いておりました。
「なぜ」
ミレナさまは、そう仰いました。
「なぜ、これを誰も」
わたくしは帳面を閉じました。
「お読みにならなかったからです」
ミレナさまは、口を開きかけて、閉じられました。
「……写しても、よろしいですか」
「どうぞ」
「全部は無理ですけれど、数だけでも」
「数だけで足ります」
ミレナさまが紙と筆を出されているあいだに、わたくしは蔵の隅へ参りました。布の三十粒を袋へ戻し、布を絞って干します。絞りすぎますと繊維が傷みますので、二度ほど軽く握るだけにいたします。
「エルナさま。今日の、その」
「二十六でございます」
わたくしは布を吊るしながら申しました。
「八十六パーセントですね」
ミレナさまは筆を止めて、こちらをご覧になりました。それから、写しの端にその数も書き足していらっしゃいました。
門までお送りいたしました。馬車の踏み台に足をかけたところで、ミレナさまが振り返られました。
「エルナさま」
「はい」
「わたし、蔵を任されたと申しましたけれど」
ミレナさまは、写しを胸に抱えていらっしゃいました。
「鍵は、いただいておりません」
「鍵を」
「家令さまがお持ちです。わたしが入るときは、呼びに行って、開けていただきます」
わたくしは、その意味を少し考えました。
「では、お一人で試験はなさいませんように」
「え」
「四日目の朝に、必ずご自分で数えてくださいませ。人に数えさせますと、良い数が出ます」
「……人に数えさせると、良い数が」
「悪い数を持ってまいりますと、叱られますので」
ミレナさまは、写しを抱え直されました。
「叱ります、わたし」
「叱らないでくださいませ」
「あ」
ミレナさまは口を開けて、それから小さく笑われました。この日はじめて笑われました。
「叱らないようにします」
馬車が門を出てまいります。
わたくしは蔵へ戻りまして、明日の分の袋を出しました。同じ袋の、今度は反対側から取ります。
同じ袋から二度取って数がずれるようでしたら、袋の中に偏りがございます。ミレナさまには、そこまではお伝えしませんでした。
三十粒の並べ方をひとつ覚えていただければ、そのうち袋の中まで見えるようになります。
袋の中が見えるようになりましたら、次は蔵の鍵をどなたがお持ちなのかが、気になりはじめるはずでございます。
八十七と五十八の差は、種の善し悪しではなく土との相性です。同じ麦でも、生まれた土と蒔かれる土が違えば、そこで数が落ちます。十年おなじ畑で取り続けると、その土で残るものだけが残る。三十俵とは、そういう十年の形をしておりました。
エルナは怒鳴っておりません。訊かれたので答えただけです。訊かれなければ、たぶん春まで黙っていました。
明日、足りない十五俵を埋めにヴァイデンが動きます。動いた先に、荷馬車を一台持った男が待っております。この人は嘘をつきません。本当のことを全部は申しませんが。
ブックマークと☆は、来年の種籾の目方に足させていただきます。




