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来年の種は、取り置いてございません 〜婚約解消いたしましたので、春に何を蒔くかはご自分でお決めください〜  作者: 甲斐みつは


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2/15

第2話 布の上の三十粒

 ヴァイデンからホルストまでは、荷馬車で半日の道でございます。


 残り四十六日。


 わたくしの荷は、行李がひとつと、帳面の包みがひとつでございました。十年おりました家から持って出るものが、それだけしかございませんでした。着るものと、母の帳面と、わたくしの帳面。


 出立の朝、ミレナさまが門のところに立っていらっしゃいました。アルベルトさまの従妹で、去年からお屋敷に来ておられます。何か仰りたそうにしていらっしゃいましたが、結局、頭を下げられただけでございました。わたくしも頭を下げました。


 途中の宿場で、荷を下ろした御者が言いました。


「お嬢さん、伯爵さまのお屋敷から、荷はこれだけで」


「はい」


「軽いね」


「軽うございます」


 道の両側は、まだ茶色い畑でございます。ところどころ、去年の刈り株が残っております。あれを鋤き込んでおかないと、春に土が起きません。ヴァイデンの南の区画は、去年から鋤き込みが遅れておりました。


 実家の門をくぐりましたのは、日の暮れる少し前でございました。


 父は玄関先で、わたくしの顔と荷とを順に見て、それから何も仰らずに行李を持ってくださいました。中でお茶を出され、事情を申し上げますと、父は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていらっしゃいました。


「……そうか」


「はい」


「エルナ。うちの畑は、百二十エーカーだ」


「存じております」


「向こうの半分だ」


「はい」


 それだけでございました。父は責めもなさらず、褒めもなさいませんでした。わたくしはそのほうが有難うございました。


 その晩、母の部屋に置いてある文机の前に座りました。母が亡くなりましたのは、わたくしが九つの年でございます。文机の抽斗には、母の帳面が三冊入っております。書式はわたくしのものと同じでございます。日付、場所、麦の別、三十粒中の数、それから百分率。


 わたくしが十年おなじ書き方をしておりますのは、九つのときにこの三冊を見たからでございます。


 三冊目の終わりに、母の字で一行だけ、数ではないものが書いてございます。


 ――蒔く分は、先に取る。


 その下に、日付がございます。母がわたくしを産む前の年でございました。


 夕餉のとき、父が申されました。


「エルナ。しばらくいるのだろう」


「はい」


「部屋は、そのままにしてある」


「ありがとうございます」


 父はそれきり、婚約のことも、種のことも仰いませんでした。代わりに、堤の話をなさいました。祖父の代の借財のことでございます。まだ三分の一残っている、去年よりは減った、と、それだけでございます。


 わたくしは相槌だけを打っておりました。父が数を仰るときは、たいてい、ご自分に言い聞かせていらっしゃいます。


 翌朝、蔵へ参りました。


 ホルストの種蔵は、ヴァイデンの半分ほどの大きさでございます。棚は四段しかございません。けれど、四段とも埋まっておりました。


 わたくしは去年の秋、こちらの分も選り分けてまいりました。嫁ぐ前からの仕事でございますので、両方やってきたのでございます。父も作男も、蔵には入りません。入っても何を触ってよいか分からないと申します。


 布を一枚、椀に水。


 袋の口を開けまして、上から掬わずに、手を底まで入れて三十粒を取ります。上のほうだけを見ますと、軽い粒が浮いておりますので、数が良く出てしまいます。良く出てしまっては、試験になりません。


 三十粒を布に並べ、水を含ませ、蔵の隅の暗いところへ置きます。四日目に数えます。


 それだけの仕事です。今年で十度目でございます。


「なにしてんです、それ」


 戸口に、麦わらを咥えた男が立っておりました。作男のヨナでございます。わたくしが嫁ぐ前からこの家におります。


「発芽試験でございます」


「はつが」


「三十粒のうち、幾つ芽が出るかを数えます。四日目に」


「なんで四日」


「四日目が、いちばんはっきり分かれますので」


 ヨナは蔵の敷居のところで立ち止まりまして、それ以上は入ってまいりませんでした。


「入っても構いませんが」


「いや、いいです」


 ヨナは麦わらを咥え直しました。


「畑、荒れてますよ。三年ぶんくらい」


「三年」


「エルナさんが嫁いでからずっと。旦那さまは畑に出ないから」


「南の区画も」


「南がいちばんひどい」


 わたくしは布のほうを見ておりました。三十粒は、まだ何も起きておりません。当然でございます。今日並べたばかりでございますので。


「……で?」


 ヨナが申しました。


「買った種って、どこの」


 わたくしは顔を上げました。


 その問いを、まだ誰からも受けておりませんでした。ゲルハルトからも、アルベルトさまからも、父からも。皆さま、種は買えるものだと思っていらっしゃいますので、どこの、という問いが出てまいりません。


「まだ、伺っておりません」


「ふうん」


 ヨナは敷居をまたがずに、そのまま行ってしまいました。


 昼過ぎに、ヴァイデンから使いが参りました。若い下男でございます。薪を運んでいた者でございました。


「エルナさま。旦那さまより言伝でございます。種は買った、もう案ずるな、と」


「どちらの種でございましょう」


 下男は懐から紙を出しまして、読み上げました。


「カルステン領、コルプ商会。三十俵。──以上でございます」


「ご苦労さまでございました」


「あの」


 下男は紙をしまいながら、少し口ごもりました。


「今年の数は、聞かずじまいでしたね」


「そうでございますね」


 カルステン、と、わたくしは繰り返しておりました。


 下男を帰しまして、蔵へ戻り、包みをほどきました。十冊のうち、下から三冊目を取ります。ヴェスタリア暦五二九年。三年前の冊でございます。


 その年、ヴァイデンは秋に長雨がございまして、自領の種が足りませんでした。足りない分を、他所から買っております。


 わたくしは頁を繰りました。


 繰って、指を止めました。


 綴じ目のところに、紙の毛羽が残っております。細い、白い毛が、二本ほど。指の腹でなぞりますと、わずかに引っかかります。


 わたくしは頁を戻し、もう一度繰り直しました。


 五二九年の秋の欄のあとが、そのまま冬になっております。


 わたくしは五二九年の冊を膝に置いたまま、しばらく動かずにおりました。


 紙の毛羽は、綴じたときに出るものではございません。綴じ目のところで紙を引きますと、糸に沿って毛が残ります。


 もっとも、十年のあいだに何度も持ち歩いておりますので、どこかで傷んだのかもしれません。そういうこともございます。


 この三年、五二九年の冊を開いたことはございませんでした。


 書いた年の数は、覚えております。覚えておりますので、開く用がございません。開きますのは、ほかの年と見比べるときだけでございます。


 見比べる用は、この三年、一度もございませんでした。


 冊を包みに戻しました。


 戻してから、五二八年と五三〇年の冊も出しまして、同じところを開きました。どちらの綴じ目にも、毛は残っておりません。


 蔵の隅で、布の上の三十粒が水を吸っております。四日目まで、あと三日でございます。

発芽試験で袋の底まで手を入れるのは、上のほうに軽い粒が浮いてくるからです。良い数字が出るように取ってしまっては、測る意味がありません。エルナが十年守っているのは、そこだけです。


婚約解消の理由を誰も訊かないなかで、ただ一人「買った種って、どこの」と訊いたのが、字の読めない作男でした。この話でいちばん大事な質問を、いちばん帳面から遠い人がしております。


明日、ヴァイデンから人が参ります。詫びに来るのではありません。教わりに来ます。


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