第2話 布の上の三十粒
ヴァイデンからホルストまでは、荷馬車で半日の道でございます。
残り四十六日。
わたくしの荷は、行李がひとつと、帳面の包みがひとつでございました。十年おりました家から持って出るものが、それだけしかございませんでした。着るものと、母の帳面と、わたくしの帳面。
出立の朝、ミレナさまが門のところに立っていらっしゃいました。アルベルトさまの従妹で、去年からお屋敷に来ておられます。何か仰りたそうにしていらっしゃいましたが、結局、頭を下げられただけでございました。わたくしも頭を下げました。
途中の宿場で、荷を下ろした御者が言いました。
「お嬢さん、伯爵さまのお屋敷から、荷はこれだけで」
「はい」
「軽いね」
「軽うございます」
道の両側は、まだ茶色い畑でございます。ところどころ、去年の刈り株が残っております。あれを鋤き込んでおかないと、春に土が起きません。ヴァイデンの南の区画は、去年から鋤き込みが遅れておりました。
実家の門をくぐりましたのは、日の暮れる少し前でございました。
父は玄関先で、わたくしの顔と荷とを順に見て、それから何も仰らずに行李を持ってくださいました。中でお茶を出され、事情を申し上げますと、父は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていらっしゃいました。
「……そうか」
「はい」
「エルナ。うちの畑は、百二十エーカーだ」
「存じております」
「向こうの半分だ」
「はい」
それだけでございました。父は責めもなさらず、褒めもなさいませんでした。わたくしはそのほうが有難うございました。
その晩、母の部屋に置いてある文机の前に座りました。母が亡くなりましたのは、わたくしが九つの年でございます。文机の抽斗には、母の帳面が三冊入っております。書式はわたくしのものと同じでございます。日付、場所、麦の別、三十粒中の数、それから百分率。
わたくしが十年おなじ書き方をしておりますのは、九つのときにこの三冊を見たからでございます。
三冊目の終わりに、母の字で一行だけ、数ではないものが書いてございます。
――蒔く分は、先に取る。
その下に、日付がございます。母がわたくしを産む前の年でございました。
夕餉のとき、父が申されました。
「エルナ。しばらくいるのだろう」
「はい」
「部屋は、そのままにしてある」
「ありがとうございます」
父はそれきり、婚約のことも、種のことも仰いませんでした。代わりに、堤の話をなさいました。祖父の代の借財のことでございます。まだ三分の一残っている、去年よりは減った、と、それだけでございます。
わたくしは相槌だけを打っておりました。父が数を仰るときは、たいてい、ご自分に言い聞かせていらっしゃいます。
翌朝、蔵へ参りました。
ホルストの種蔵は、ヴァイデンの半分ほどの大きさでございます。棚は四段しかございません。けれど、四段とも埋まっておりました。
わたくしは去年の秋、こちらの分も選り分けてまいりました。嫁ぐ前からの仕事でございますので、両方やってきたのでございます。父も作男も、蔵には入りません。入っても何を触ってよいか分からないと申します。
布を一枚、椀に水。
袋の口を開けまして、上から掬わずに、手を底まで入れて三十粒を取ります。上のほうだけを見ますと、軽い粒が浮いておりますので、数が良く出てしまいます。良く出てしまっては、試験になりません。
三十粒を布に並べ、水を含ませ、蔵の隅の暗いところへ置きます。四日目に数えます。
それだけの仕事です。今年で十度目でございます。
「なにしてんです、それ」
戸口に、麦わらを咥えた男が立っておりました。作男のヨナでございます。わたくしが嫁ぐ前からこの家におります。
「発芽試験でございます」
「はつが」
「三十粒のうち、幾つ芽が出るかを数えます。四日目に」
「なんで四日」
「四日目が、いちばんはっきり分かれますので」
ヨナは蔵の敷居のところで立ち止まりまして、それ以上は入ってまいりませんでした。
「入っても構いませんが」
「いや、いいです」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「畑、荒れてますよ。三年ぶんくらい」
「三年」
「エルナさんが嫁いでからずっと。旦那さまは畑に出ないから」
「南の区画も」
「南がいちばんひどい」
わたくしは布のほうを見ておりました。三十粒は、まだ何も起きておりません。当然でございます。今日並べたばかりでございますので。
「……で?」
ヨナが申しました。
「買った種って、どこの」
わたくしは顔を上げました。
その問いを、まだ誰からも受けておりませんでした。ゲルハルトからも、アルベルトさまからも、父からも。皆さま、種は買えるものだと思っていらっしゃいますので、どこの、という問いが出てまいりません。
「まだ、伺っておりません」
「ふうん」
ヨナは敷居をまたがずに、そのまま行ってしまいました。
昼過ぎに、ヴァイデンから使いが参りました。若い下男でございます。薪を運んでいた者でございました。
「エルナさま。旦那さまより言伝でございます。種は買った、もう案ずるな、と」
「どちらの種でございましょう」
下男は懐から紙を出しまして、読み上げました。
「カルステン領、コルプ商会。三十俵。──以上でございます」
「ご苦労さまでございました」
「あの」
下男は紙をしまいながら、少し口ごもりました。
「今年の数は、聞かずじまいでしたね」
「そうでございますね」
カルステン、と、わたくしは繰り返しておりました。
下男を帰しまして、蔵へ戻り、包みをほどきました。十冊のうち、下から三冊目を取ります。ヴェスタリア暦五二九年。三年前の冊でございます。
その年、ヴァイデンは秋に長雨がございまして、自領の種が足りませんでした。足りない分を、他所から買っております。
わたくしは頁を繰りました。
繰って、指を止めました。
綴じ目のところに、紙の毛羽が残っております。細い、白い毛が、二本ほど。指の腹でなぞりますと、わずかに引っかかります。
わたくしは頁を戻し、もう一度繰り直しました。
五二九年の秋の欄のあとが、そのまま冬になっております。
わたくしは五二九年の冊を膝に置いたまま、しばらく動かずにおりました。
紙の毛羽は、綴じたときに出るものではございません。綴じ目のところで紙を引きますと、糸に沿って毛が残ります。
もっとも、十年のあいだに何度も持ち歩いておりますので、どこかで傷んだのかもしれません。そういうこともございます。
この三年、五二九年の冊を開いたことはございませんでした。
書いた年の数は、覚えております。覚えておりますので、開く用がございません。開きますのは、ほかの年と見比べるときだけでございます。
見比べる用は、この三年、一度もございませんでした。
冊を包みに戻しました。
戻してから、五二八年と五三〇年の冊も出しまして、同じところを開きました。どちらの綴じ目にも、毛は残っておりません。
蔵の隅で、布の上の三十粒が水を吸っております。四日目まで、あと三日でございます。
発芽試験で袋の底まで手を入れるのは、上のほうに軽い粒が浮いてくるからです。良い数字が出るように取ってしまっては、測る意味がありません。エルナが十年守っているのは、そこだけです。
婚約解消の理由を誰も訊かないなかで、ただ一人「買った種って、どこの」と訊いたのが、字の読めない作男でした。この話でいちばん大事な質問を、いちばん帳面から遠い人がしております。
明日、ヴァイデンから人が参ります。詫びに来るのではありません。教わりに来ます。




