表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
来年の種は、取り置いてございません 〜婚約解消いたしましたので、春に何を蒔くかはご自分でお決めください〜  作者: 甲斐みつは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/15

第1話 三十俵の空き棚

全十五話・完結済のお話です。初日に第五話まで、以降は毎日一話ずつ更新いたします。

声を荒げない主人公が、十年ぶんの帳面と数字だけで決着をつけます。

 二月の十日、朝のうちに蔵を開けるのが、わたくしの十年の習いでございます。


 布を一枚、椀に水、種籾を三十粒。四日ののちに何粒が芽を出すかを数えて、帳面に書きつける。それだけの仕事です。今年で十度目になります。


 この日を二月の十日と決めておりますのは、早すぎても遅すぎても困るからでございます。早ければ蔵がまだ冷えきっておりまして数が伸びません。遅ければ、悪い数が出たときに手が打てません。四十八日ございましたら、まだ何とかなります。


 外はよく晴れておりました。屋根の雪はあらかた落ちて、軒の下に固い塊が残っている程度でございます。


 鍵はいつもどおりに回りました。


 棚が、空でございました。


 三十俵。二百四十エーカーぶん。去年の秋にわたくしが選り分けて、乾かして、そこへ積んだものです。


 わたくしは布と椀を床に置いて、まず数え直しました。棚は七段ございます。上から順に、一、二、三——七段目まで見て、もう一度上へ戻りました。


 二度数えても、空でございました。


 三段目の板に、俵の丸い跡が残っております。俵は重うございますので、ひと冬置きますと板が凹むのでございます。跡は八つございました。手前に四つ、奥に四つ。


 ……では、この春に蒔く種は、どちらにございますでしょう。


 帳面は、蔵の奥の棚に置いてございます。書くのが蔵でございますので、置くのも蔵でございます。十冊、十年ぶん、一日も欠かさずに。


 そのうちの一冊も、この十年、わたくし以外の誰にも開かれておりません。


 わたくしは十冊を下ろして、布に包みました。この蔵から持って出しますのは、十年で初めてでございます。


 戸口に人の気配がいたしました。振り返りますと、家令のゲルハルトが帳簿を抱えて立っております。この方はいつも帳簿を抱えていらっしゃいます。歩きながらでも数を繰っていらっしゃるのを、何度も見たことがございました。


「エルナさま。何かお探しでございますか」


「種籾でございます」


「ああ」


 ゲルハルトは、思い出したという顔をなさいました。


「あれは暮れに売却いたしました。蔵に余っておりましたので」


「余って」


「はい。冬のあいだ、二百四十エーカーぶんの穀が動かずに積んでございました。市の値が高いうちに出しませんと、蔵が塞がるばかりでございます」


 わたくしは棚のほうを見ておりました。七段の、木の目まで見えます。


「帳簿は」


「合っております」


 即座にそう仰いました。嘘ではないと存じます。この方の帳簿は、いつも合っております。


「余剰穀、三十俵。金貨にして六十二枚と、銀貨が八枚。数はこちらに」


 差し出された頁を、わたくしは受け取りませんでした。受け取りましても、そこに書いてございますのは金貨の数だけでございます。


「ゲルハルトさま」


「はい」


「この三十俵は、余剰穀ではございません」


「と、仰いますと」


「種籾でございます。秋の収穫から、翌年に蒔く分を選り分けて、乾かして、こちらへ納めたものでございます」


 ゲルハルトは、まばたきをなさいました。


「……麦は、麦でございましょう」


「食べる麦と、蒔く麦は別でございます」


「同じ畑で穫れたものが、なぜ別に」


「選り分けておりますので」


 わたくしは棚の跡のほうへ手をやりました。


「重い粒だけを残しております。軽い粒は水に浮きますので、水に落として選ります。それから、粒の揃わないものを外します。二百四十エーカーぶん残しますのに、その四倍ほどを見ております」


「四倍」


「はい」


 ゲルハルトは帳簿を抱え直されました。


「エルナさま。恐れ入りますが、それは帳簿には書けません」


「はい」


「重い粒も軽い粒も、俵に入れば同じ一俵でございます。わたくしどもは俵で数えます」


 そうでございましょう、と存じます。この方が悪いのではございません。この方の帳簿には、そもそもその欄がございません。


 母屋の書斎に、アルベルトさまはいらっしゃいました。窓辺で犬の耳を掻いていらっしゃいます。


「エルナ。朝から蔵か」


「種籾が、ございませんでした」


「ああ、ゲルハルトが売ったやつか」


 アルベルトさまは犬から手をお離しになりませんでした。


「悪かったな。だが、種なんてまた買えばいいだろう」


「買う、でございますか」


「金は入ったんだ。むしろ得をしている」


 それから、こう続けられました。


「君は畑の手伝いを楽しんでいただけだろう。冬に蔵へこもって、豆だか麦だかを並べて。……いや、悪く言うつもりはないんだ。感謝はしている。むしろ、これで君も楽になる」


「楽に」


「春に、王都から仕立て屋を呼ぶつもりでいる。婚礼の前に、君に一着」


 悪気は、少しもございませんでした。それは分かりました。この方はわたくしのために仕立て屋をお呼びになるおつもりで、そのことを嬉しそうに仰っておいででした。


 わたくしは、抱えてまいりました包みを机の上に置きました。布をほどきますと、帳面が十冊、重ねて出てまいります。


「これは」


「十年ぶんでございます。ヴェスタリア暦五二二年から、去年の分まで」


 アルベルトさまは一冊を手にお取りになりました。表紙をご覧になって、それきりでございます。お開きにはなりませんでした。


 背をご覧ください、と申し上げたい気持ちが、少しだけございました。申し上げませんでした。


 十年、毎年おなじ糊で綴じてまいりましたので、一度でも開いた冊は背の糊が白く割れます。割れた冊は、ひとつもございません。十冊とも、綴じたときのままでございました。


「読んでいなくて悪かった。今度、時間のあるときに」


「はい」


「怒っているのか」


「いいえ」


 本当に怒ってはおりませんでした。ただ、手が止まっておりました。布をほどいた形のまま、指が動かずにおりました。


 わたくしは十冊を積み直しまして、上から順に、背を揃えました。それから、布で包み直しました。


「アルベルトさま」


「なんだ」


「では、来年の種は、取り置いてございません」


 犬が顔を上げました。


「婚約は、解消させていただきます」


 アルベルトさまは、しばらく黙っていらっしゃいました。それから、笑いに近い息をお吐きになりました。


「……種の話で、そこまで言うのか」


「はい」


「エルナ。買えばいいだけの話だ」


「そうですね」


 わたくしは包みを抱え直しました。


「四十八日で、二百四十エーカーぶんでございます」


「なんだって」


「春分までが四十八日でございます。蒔けますのは、春分から十四日のあいだ」


 それだけ申し上げて、書斎を出ました。


 廊下の窓から、南の畑が見えます。雪はもうほとんど残っておりません。土の色が出ているところが、去年より広うございました。


 階下で下男が薪を運んでおりまして、わたくしを見て会釈をいたしました。


「エルナさま、今朝は蔵でしたか」


「はい」


「今年の数は、いかがでした」


 この者は毎年、それを訊いてまいります。訊いたところで数の意味は分からないと申しておりましたが、それでも毎年訊いてまいります。


「まだ、測っておりません」


 背後で、犬がまた床に伏せる音がいたしました。アルベルトさまが何か仰る気配は、ございませんでした。

種籾というのは、秋のうちに翌年ぶんを取り分けておくものです。春の市に出回るのは食べる麦で、蒔く麦ではありません。つまり「買えばいい」は、無いものを買えばいい、という意味になります。ご本人にその自覚はありません。


明日、エルナは荷物をまとめて実家へ帰ります。慰めてくれる人はおりません。代わりに「畑、荒れてますよ。三年ぶんくらい」と言う男が待っております。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ