第1話 三十俵の空き棚
全十五話・完結済のお話です。初日に第五話まで、以降は毎日一話ずつ更新いたします。
声を荒げない主人公が、十年ぶんの帳面と数字だけで決着をつけます。
二月の十日、朝のうちに蔵を開けるのが、わたくしの十年の習いでございます。
布を一枚、椀に水、種籾を三十粒。四日ののちに何粒が芽を出すかを数えて、帳面に書きつける。それだけの仕事です。今年で十度目になります。
この日を二月の十日と決めておりますのは、早すぎても遅すぎても困るからでございます。早ければ蔵がまだ冷えきっておりまして数が伸びません。遅ければ、悪い数が出たときに手が打てません。四十八日ございましたら、まだ何とかなります。
外はよく晴れておりました。屋根の雪はあらかた落ちて、軒の下に固い塊が残っている程度でございます。
鍵はいつもどおりに回りました。
棚が、空でございました。
三十俵。二百四十エーカーぶん。去年の秋にわたくしが選り分けて、乾かして、そこへ積んだものです。
わたくしは布と椀を床に置いて、まず数え直しました。棚は七段ございます。上から順に、一、二、三——七段目まで見て、もう一度上へ戻りました。
二度数えても、空でございました。
三段目の板に、俵の丸い跡が残っております。俵は重うございますので、ひと冬置きますと板が凹むのでございます。跡は八つございました。手前に四つ、奥に四つ。
……では、この春に蒔く種は、どちらにございますでしょう。
帳面は、蔵の奥の棚に置いてございます。書くのが蔵でございますので、置くのも蔵でございます。十冊、十年ぶん、一日も欠かさずに。
そのうちの一冊も、この十年、わたくし以外の誰にも開かれておりません。
わたくしは十冊を下ろして、布に包みました。この蔵から持って出しますのは、十年で初めてでございます。
戸口に人の気配がいたしました。振り返りますと、家令のゲルハルトが帳簿を抱えて立っております。この方はいつも帳簿を抱えていらっしゃいます。歩きながらでも数を繰っていらっしゃるのを、何度も見たことがございました。
「エルナさま。何かお探しでございますか」
「種籾でございます」
「ああ」
ゲルハルトは、思い出したという顔をなさいました。
「あれは暮れに売却いたしました。蔵に余っておりましたので」
「余って」
「はい。冬のあいだ、二百四十エーカーぶんの穀が動かずに積んでございました。市の値が高いうちに出しませんと、蔵が塞がるばかりでございます」
わたくしは棚のほうを見ておりました。七段の、木の目まで見えます。
「帳簿は」
「合っております」
即座にそう仰いました。嘘ではないと存じます。この方の帳簿は、いつも合っております。
「余剰穀、三十俵。金貨にして六十二枚と、銀貨が八枚。数はこちらに」
差し出された頁を、わたくしは受け取りませんでした。受け取りましても、そこに書いてございますのは金貨の数だけでございます。
「ゲルハルトさま」
「はい」
「この三十俵は、余剰穀ではございません」
「と、仰いますと」
「種籾でございます。秋の収穫から、翌年に蒔く分を選り分けて、乾かして、こちらへ納めたものでございます」
ゲルハルトは、まばたきをなさいました。
「……麦は、麦でございましょう」
「食べる麦と、蒔く麦は別でございます」
「同じ畑で穫れたものが、なぜ別に」
「選り分けておりますので」
わたくしは棚の跡のほうへ手をやりました。
「重い粒だけを残しております。軽い粒は水に浮きますので、水に落として選ります。それから、粒の揃わないものを外します。二百四十エーカーぶん残しますのに、その四倍ほどを見ております」
「四倍」
「はい」
ゲルハルトは帳簿を抱え直されました。
「エルナさま。恐れ入りますが、それは帳簿には書けません」
「はい」
「重い粒も軽い粒も、俵に入れば同じ一俵でございます。わたくしどもは俵で数えます」
そうでございましょう、と存じます。この方が悪いのではございません。この方の帳簿には、そもそもその欄がございません。
母屋の書斎に、アルベルトさまはいらっしゃいました。窓辺で犬の耳を掻いていらっしゃいます。
「エルナ。朝から蔵か」
「種籾が、ございませんでした」
「ああ、ゲルハルトが売ったやつか」
アルベルトさまは犬から手をお離しになりませんでした。
「悪かったな。だが、種なんてまた買えばいいだろう」
「買う、でございますか」
「金は入ったんだ。むしろ得をしている」
それから、こう続けられました。
「君は畑の手伝いを楽しんでいただけだろう。冬に蔵へこもって、豆だか麦だかを並べて。……いや、悪く言うつもりはないんだ。感謝はしている。むしろ、これで君も楽になる」
「楽に」
「春に、王都から仕立て屋を呼ぶつもりでいる。婚礼の前に、君に一着」
悪気は、少しもございませんでした。それは分かりました。この方はわたくしのために仕立て屋をお呼びになるおつもりで、そのことを嬉しそうに仰っておいででした。
わたくしは、抱えてまいりました包みを机の上に置きました。布をほどきますと、帳面が十冊、重ねて出てまいります。
「これは」
「十年ぶんでございます。ヴェスタリア暦五二二年から、去年の分まで」
アルベルトさまは一冊を手にお取りになりました。表紙をご覧になって、それきりでございます。お開きにはなりませんでした。
背をご覧ください、と申し上げたい気持ちが、少しだけございました。申し上げませんでした。
十年、毎年おなじ糊で綴じてまいりましたので、一度でも開いた冊は背の糊が白く割れます。割れた冊は、ひとつもございません。十冊とも、綴じたときのままでございました。
「読んでいなくて悪かった。今度、時間のあるときに」
「はい」
「怒っているのか」
「いいえ」
本当に怒ってはおりませんでした。ただ、手が止まっておりました。布をほどいた形のまま、指が動かずにおりました。
わたくしは十冊を積み直しまして、上から順に、背を揃えました。それから、布で包み直しました。
「アルベルトさま」
「なんだ」
「では、来年の種は、取り置いてございません」
犬が顔を上げました。
「婚約は、解消させていただきます」
アルベルトさまは、しばらく黙っていらっしゃいました。それから、笑いに近い息をお吐きになりました。
「……種の話で、そこまで言うのか」
「はい」
「エルナ。買えばいいだけの話だ」
「そうですね」
わたくしは包みを抱え直しました。
「四十八日で、二百四十エーカーぶんでございます」
「なんだって」
「春分までが四十八日でございます。蒔けますのは、春分から十四日のあいだ」
それだけ申し上げて、書斎を出ました。
廊下の窓から、南の畑が見えます。雪はもうほとんど残っておりません。土の色が出ているところが、去年より広うございました。
階下で下男が薪を運んでおりまして、わたくしを見て会釈をいたしました。
「エルナさま、今朝は蔵でしたか」
「はい」
「今年の数は、いかがでした」
この者は毎年、それを訊いてまいります。訊いたところで数の意味は分からないと申しておりましたが、それでも毎年訊いてまいります。
「まだ、測っておりません」
背後で、犬がまた床に伏せる音がいたしました。アルベルトさまが何か仰る気配は、ございませんでした。
種籾というのは、秋のうちに翌年ぶんを取り分けておくものです。春の市に出回るのは食べる麦で、蒔く麦ではありません。つまり「買えばいい」は、無いものを買えばいい、という意味になります。ご本人にその自覚はありません。
明日、エルナは荷物をまとめて実家へ帰ります。慰めてくれる人はおりません。代わりに「畑、荒れてますよ。三年ぶんくらい」と言う男が待っております。




