第11話 読めない男が覚えていた頁
残り十日。
六つ目の袋の四日目でございました。二十四。八十パーセント。
九つのうちで、いちばん低うございます。三つ目の八十三より、さらに三つ下でございます。
この袋の分は、厚めに蒔きます。厚めに蒔きました分は、秋の取り置きから引かれます。
同じ日に七つ目を並べました。
布を隅へ置いて出てまいりますと、ヨナが蔵の敷居のところに立っておりました。入ってはまいりません。
「エルナさん」
「はい」
「その帳面、見せてもらえます?」
わたくしは手を止めました。この方が帳面のことを仰るのは、初めてでございました。
「ご覧になりますか」
「見るっつうか」
ヨナは麦わらを咥え直しました。咥え直してから、しばらく黙っておりました。
「……俺、字は読めねぇんですけどね」
「はい」
「模様は覚えてる」
「模様」
「奥さまの帳面も、エルナさんのも、婆さんが虫干しに出すでしょう。年に一度。あれ、俺が運ぶんですよ」
毎年の秋の終わりに、母屋の縁側に帳面を並べて、半日ほど干します。わたくしが嫁いでからも、婆やが続けてくれておりました。
ヴァイデンにございました冊は、秋に一度こちらへ運んでおりました。婆やが「奥さまのと一緒に干さないと片方だけ湿る」と申しますので。
わたくしはそれを、婆やの気持ちの問題だと思っておりました。
「十年ぶん並ぶと、けっこうな幅になる。運びながら見てりゃ、覚える」
わたくしは包みを解いて、十冊を敷居のところへ運びました。ヨナは敷居をまたがずに、そこに膝をついて見ております。
「これが古いほうです?」
「左が古うございます」
ヨナは、順に背をなぞってまいりました。指の腹で、上から下へ。
三冊目のところで、指が止まりました。
「これ」
「五二九年でございます」
「厚みが違う」
わたくしは横から覗きました。並べてみますと、確かに三冊目だけが、他より薄うございます。ほんの少しでございますが。
「その年は、長雨で穫れが悪うございました。記す量が少なかったのかと」
「いや、そうじゃない」
ヨナは首を振りました。
「開いてもらえます? 真ん中あたり」
わたくしは三冊目を開きました。
「もうちょい先。……そこ」
秋の欄の終わりでございます。
「そこ、模様が違う」
「模様」
「エルナさん、秋のとこはいつも字が細かいでしょう。穫れたのを片っ端から書くから。細かい字がびっしり続いて、それが二枚か三枚あって、それから冬になる」
わたくしは頁を見ておりました。
秋の欄は、一枚でございました。
「他の年、開いてみてください」
五二八年を開きました。細かい字が三枚。五三〇年を開きました。二枚。五三一年、三枚。
五二九年だけ、一枚でございます。
「な」
ヨナは麦わらを口の端に寄せました。
「一枚、無ぇんじゃないですか」
わたくしは綴じ目に指を当てました。
白い毛が二本、残っております。指の腹でなぞりますと、わずかに引っかかります。
抜き取られた紙の、断ち口でございます。
「……ございませんね」
「でしょ」
ヨナは膝をついたまま、他の冊も順に指でなぞってまいりました。四冊目、五冊目、六冊目。
「こっちは全部、三枚か二枚。……ああ、七冊目も二枚だ」
「五三〇年でございます。その年も穫れが少のうございました」
「じゃあ、少ないのは有り得るんだ」
「有り得ます」
「けど、一枚は無ぇでしょ」
ヨナは三冊目の背をもう一度なぞりました。
「一枚は、書かなかったんじゃなくて、無くなったんだ」
わたくしは、その言い方をしばらく聞いておりました。
書かなかったのなら、わたくしの落度でございます。無くなったのなら、そうではございません。
この十年、わたくしはずっと、書いてあるものは在ると思って生きてまいりました。
わたくしはしばらく、そこに座っておりました。
五二九年。長雨の年。自領の種が足りず、カルステンから買った年でございます。その秋、わたくしは買った種の試験もいたしました。三十粒を並べて、四日目に数えました。数は、五十八でございました。
その頁が、ございません。
この十年、この帳面はヴァイデンの蔵の棚に置いてございました。わたくしは蔵で書きますので、書いたものは蔵に置きます。持って出たのは、あの朝が初めてでございます。
蔵の鍵をお持ちだったのは、家令のゲルハルトでございます。
「エルナさん」
「はい」
「あんた、怒らないんですね」
「怒っておりません」
「顔、真っ白ですよ」
わたくしは掌を見ました。震えてはおりませんでした。ただ、冷たうございました。
「ヨナさん」
「はい」
「なぜ、今日、これを仰ったのですか」
ヨナは立ち上がって、膝の土を払いました。
「向こうの家令が辞めたって聞いたから」
「はい」
「辞めた人が持ってったもんは、戻ってこねぇ。だったら早いほうがいい」
それだけ申しまして、行ってしまわれました。
わたくしは十冊を包み直しました。
九冊と、一冊。
抜かれたのは一枚でございます。冊は十冊ございます。五二九年の秋の、たった一枚。
その一枚に、五十八という数が書いてございました。
書いてございましたので、わたくしは覚えております。覚えておりますが、覚えているだけでは、帳面ではございません。
覚えているだけのものは、当てにならない、と仰られましたら、そのとおりでございます。
わたくしは九冊を机に並べ直しました。
五二九年の一枚が無くとも、他の年にカルステン産の記録がございます。五二八年と、五三〇年。あの二年は、試しに一部の区画へ蒔いた分でございます。
二つでは、平均とは申せません。三つ以上ございませんと、たまたまと区別がつきません。
わたくしは、他の年の頁も繰りはじめました。
五二七年。ございません。五二六年。ございません。五二五年——
そこで、指が止まりました。ございました。五年前にも一度、少しだけ買っております。
もう少し繰ります。五二三年にも。
四つでございます。
四つございましたら、平均が出ます。
わたくしは筆を取ろうとして、やめました。今日は手が冷えております。数え違えます。
明日でよろしゅうございます。
では、その一枚は、いまどちらにございますでしょう。
秋の欄は字が細かくなります。穫れたものを片端から書くからです。何枚あるかは、読めなくても運べば分かる。年に一度の虫干しを二十年運んでいれば、そうなるのだと思います。
字が読めないことを恥じていた男に、この話でいちばん大事な一枚を見つけてもらいました。ここを持たせるために、十話ぶん待った甲斐がございました。
明日、その一枚の在処が分かります。持っている人は、きちんと値をつけて持ってまいります。
ブックマークと☆は、ヨナの読み書きの月謝に充てさせていただきます。本人は嫌がると思いますが。




