1番近く、遠い道
監督が笛を鳴らす。
「今日から練習内容を変える。」
部員全員が集まる。
「春高まで時間は少ない。」
「だから。」
「三人には、それぞれ専門分野を見てもらう。」
監督は神谷先輩を見る。
「神谷。」
「守備戦略担当。」
「守屋。」
「杉山。」
「小林。」
「藤枝。」
「結衣。」
「以上。」
「はい。」
神谷先輩は短く返事をする。
「俺のところは。」
「拾って終わりじゃない。」
「次の攻撃まで考える。」
守屋先輩が苦笑いする。
「始まった。」
神谷先輩はそのまま続ける。
「相手を見る。」
「ブロッカーを見る。」
「セッターを見る。」
「全部覚えろ。」
「結衣。」
「はい。」
「今日から記録は倍。」
「……はい。」
思わず苦笑いする。
やっぱり神谷先輩は変わらない。
監督は蓮さんを見る。
「朝倉。」
「攻撃担当。」
「岡田。」
「加藤。」
「広瀬。」
「村山。」
「以上。」
「はい。」
蓮さんは四人を見渡した。
「俺が見るのは。」
「フォーム。」
「助走。」
「踏み込み。」
「腕の振り。」
「全部。」
「一回壊す。」
岡田先輩たちの表情が少し引き締まる。
「今のままじゃ。」
「全国じゃ通用しない。」
「春高で勝ちたいなら。」
「フォームから変える。」
村山が力強く頷く。
「お願いします!」
監督は最後に水谷先輩を見る。
「水谷。」
「俺と一緒に基礎体力担当。」
「残りの一年。」
「全員連れて行け。」
「はい。」
水谷先輩は残った一年生たちを見て笑った。
「俺たちは一番地味。」
「でも。」
「一番大事。」
一年生たちは真剣に頷く。
「春高は。」
「最後まで走れるチームが勝つ。」
「だから。」
「走る。」
一年生が顔を見合わせる。
「いっぱいですか……?」
一人が恐る恐る聞く。
水谷先輩は満面の笑みを浮かべた。
「いっぱい。」
「終わった……。」
一年生が肩を落とす。
体育館に笑いが広がる。
監督が笛を鳴らした。
「始め!」
「はい!!」
三つのグループが一斉に動き始める。
神谷先輩のコートでは、早くも守備位置を細かく修正する声が飛ぶ。
蓮さんのコートでは、一人ずつ助走を確認しながらフォームを直している。
そして水谷先輩のコートからは。
「あと三本!」
「声出せー!」
「足止めるなー!」
一年生たちの悲鳴と笑い声が体育館いっぱいに響いていた。
私は神谷先輩の隣でノートを開く。
一ページ目の一番上に、大きく書く。
『春高強化練習 一日目』
新しいチーム。
新しい役割。
新しい目標。
夏は終わった。
だけど。
この体育館の熱だけは、少しも冷めていなかった。
水谷先輩のコート。
集まったのは一年生だけだった。
「よし。」
「まず自己紹介。」
一年生たちは顔を見合わせる。
一人ずつ名前を言っていく。
「村上です。」
「宮本です。」
「佐藤です。」
「よろしくお願いします。」
水谷先輩は全員の顔を見ながら頷いた。
「覚えた。」
一年生たちは驚いた顔をする。
「え?」
「もう?」
「うん。」
「名前覚えるのもキャプテンの仕事だったから。」
その一言で一年生たちの緊張が少し解けた。
「さて。」
「今日何すると思う?」
「走りですか……?」
「筋トレ?」
一年生たちが恐る恐る答える。
水谷先輩は笑う。
「違う。」
全員が首を傾げた。
「立つ。」
「……え?」
「バレーで一番大事なのは。」
「立ち方。」
一年生たちはさらに困惑する。
「構えて。」
全員が構える。
水谷先輩は一人ひとりの前へ行く。
「足、広すぎ。」
「重心高い。」
「踵浮かせ過ぎ。」
「肩に力入ってる。」
次々と修正していく。
「全国へ行きたい?」
一年生たちが頷く。
「なら。」
「ボールを触る前に。」
「立て。」
静かな体育館に、その言葉だけが響いた。
「強いチームほど。」
「基礎を馬鹿にしない。」
「神谷も。」
「蓮も。」
「守屋も。」
「毎日これをやってきた。」
一年生たちの表情が変わる。
「春高まで時間は少ない。」
「だから。」
「遠回りに見えて。」
「一番近い道を行く。」
そう言って、水谷先輩は笛を吹く。
「構え。」
一年生が一斉に構える。
「そのまま。」
「三分。」
「……え?」
「三分。」
一年生たちが顔を見合わせる。
三十秒。
足が震え始める。
一分。
額から汗が落ちる。
二分。
太ももが悲鳴を上げる。
「きついです……。」
一年生の一人が呟く。
水谷先輩は笑った。
「まだ二分。」
「えぇぇ……。」
周りから笑いが起きる。
「でも。」
「その笑顔。」
「忘れるな。」
「苦しい時ほど笑えるチームは強い。」
私は少し離れた場所から、その様子をノートへ書き留める。
水谷先輩は走らせる前に。
筋トレをする前に。
まず、一年生へ『バレーと向き合う姿勢』を教えていた。
それが、この人らしい指導だった。
三分が終わると、一年生たちは一斉にその場へ座り込んだ。
「きつ……。」
「足、動かない……。」
水谷先輩は笑いながら笛を首へ掛ける。
「休憩三十秒。」
「短っ。」
「今ので終わりだと思った?」
一年生たちの顔が引きつる。
「次、フットワーク。」
水谷先輩はコートへマーカーを並べていく。
前。
右。
左。
後ろ。
その間隔は決して広くない。
「ボールは使わない。」
「構えたまま、俺が指した方向へ動く。」
「戻る時も姿勢を上げない。」
「十本で一セット。」
「五セット。」
「五十本……。」
誰かが小さく呟く。
「数えられて偉い。」
水谷先輩が笑う。
「じゃあ始めるぞ。」
笛が鳴る。
一年生たちが一斉に動き出す。
「右!」
床を蹴る音が重なる。
「前!」
重心を落としたまま踏み込む。
「左!」
一人の体が大きく流れた。
「止めろ。」
水谷先輩の声で全員が止まる。
「今のまま試合に出たら。」
「次の一歩が出ない。」
水谷先輩はその一年生の前へ立つ。
「足だけで動こうとするな。」
「最初に腰を運ぶ。」
自分で構え、ゆっくりと横へ動いて見せる。
「頭の高さを変えない。」
「肩も開かない。」
「こう。」
動きは小さい。
でも、無駄がなかった。
「もう一回。」
「はい!」
笛が鳴る。
「右!」
さっきより速く動く。
「前!」
「左!」
「戻れ!」
「遅い!」
「声出せ!」
「はい!」
最初の一セットが終わった時には、全員の額から汗が落ちていた。
二セット目。
足音が少しずつ乱れる。
三セット目。
一人が遅れ始める。
「待ってください……。」
「待たない。」
水谷先輩はすぐに答えた。
一年生の表情が歪む。
「でも。」
水谷先輩は自分もコートへ入った。
「俺もやる。」
「え?」
「一人で遅れるから苦しい。」
「全員でやれば、ただの練習。」
水谷先輩が一年生たちと同じように腰を落とす。
「四セット目。」
「始めるぞ。」
笛を持っていた監督が、少し離れた場所から合図を出した。
「右!」
水谷先輩も動く。
「左!」
誰より姿勢が低い。
「前!」
誰より速く踏み出す。
「後ろ!」
戻った瞬間には、もう次の方向へ動く準備ができていた。
一年生たちは苦しそうにしながら、その背中を追いかける。
「足止めるな!」
水谷先輩が声を出す。
「あと二本!」
「はい!」
「あと一本!」
「はい!!」
四セット目が終わる。
水谷先輩も息を切らしていた。
それでも膝へ手をつかない。
「見たか。」
一年生たちが顔を上げる。
「これが三年間やった基礎。」
「俺は神谷みたいに試合を全部読めない。」
「蓮みたいに高く跳べない。」
「守屋みたいに何でも拾えるわけでもない。」
水谷先輩は静かに笑った。
「だから。」
「誰より止まらないようにした。」
「最後まで助走に入る。」
「最後までブロックへ跳ぶ。」
「最後まで声を出す。」
「それだけは。」
「才能がなくてもできるから。」
一年生たちは黙って水谷先輩を見ていた。
「全国へ行ったら。」
「自分より高い奴も。」
「速い奴も。」
「上手い奴もいる。」
「絶対にいる。」
「その時。」
「才能が違うからって諦めるのか。」
誰も答えない。
水谷先輩は首を横に振る。
「違う。」
「最後まで立ってた奴が。」
「最後の一本を打てる。」
静かな声だった。
でも、体育館の端にいた私のところまで、はっきり届いた。
「五セット目。」
水谷先輩が構える。
「全員で終わらせるぞ。」
「はい!」
今までで一番大きな返事が響いた。
笛が鳴る。
「右!」
全員が動く。
「前!」
足が震えていても踏み出す。
「左!」
遅れた一年生へ、隣から声が飛ぶ。
「いける!」
「戻れ!」
「あと三本!」
「声出せ!」
「はい!!」
「あと二本!」
「はい!!」
「最後!」
全員が同時に床を蹴った。
笛が鳴る。
その瞬間。
一年生たちは次々とコートへ倒れ込んだ。
荒い呼吸。
流れる汗。
それでも、全員が笑っていた。
水谷先輩も床へ座り込む。
「よし。」
「初日は合格。」
「これで合格なんすか……。」
「初日だから。」
「明日は?」
水谷先輩は満面の笑みを浮かべた。
「今日の倍。」
「えぇぇぇぇ!?」
一年生たちの悲鳴が体育館へ響く。
周りから笑いが起きた。
水谷先輩も笑っていた。
でも。
その目は、一人ひとりをしっかり見ていた。
誰が最後まで姿勢を崩さなかったのか。
誰が遅れた仲間へ声を掛けたのか。
誰が苦しくなった時に俯いたのか。
全部。
きっと、この人は見ている。
水谷先輩は立ち上がり、一年生たちへ手を差し出した。
「まだ終わりじゃないぞ。」
「次、ダッシュ。」
「鬼だ……。」
「鬼じゃない。」
水谷先輩は笑う。
「春高へ連れて行く先輩。」
一年生たちは顔を見合わせた。
そして、一人ずつその手を取って立ち上がる。
「お願いします!」
「よし。」
水谷先輩が笛を構えた。
「全員で行くぞ。」
その言葉に。
一年生たちの顔が、少しだけ変わった気がした。




