エース 朝倉蓮
水谷先輩がゆっくりと席へ座る。
部屋にはまだ涙を拭う音だけが残っていた。
監督はその様子を静かに見つめる。
そして視線を隣へ向けた。
「朝倉。」
「……はい。」
蓮さんが静かに立ち上がる。
大きな背中。
試合では誰よりも頼もしく見えたその背中が、今は少しだけ小さく見えた。
蓮さんは少しだけ頭を掻く。
「俺もさ。」
「こういうの得意じゃねぇ。」
小さな笑いが起こる。
「でも。」
「最後だから。」
そう言って部屋をゆっくり見渡した。
一人ひとりと目を合わせる。
「俺。」
「一年の頃から、自分だけは絶対エースになるって思ってた。」
「誰にも負けたくなかった。」
「誰より点取って。」
「誰より高く跳んで。」
「誰より目立って。」
「そんなことばっか考えてた。」
少し笑う。
「今思えば。」
「ガキだった。」
部屋が少し和らぐ。
「でも。」
「それくらい本気だった。」
「毎日筋トレして。」
「毎日最後までスパイク打って。」
「家帰っても動画見て。」
「休みの日も体育館。」
「バレーしかなかった。」
「だから。」
「怪我した時。」
そこまで言って言葉が止まる。
部屋の空気が一気に変わった。
「正直。」
「終わったと思った。」
私は思い出す。
体育館で一人。
誰もいないコート。
跳べなくなった蓮さん。
「あの日。」
「病院で先生に言われた。」
『時間は掛かる。』
「その言葉を聞いた瞬間。」
「頭の中真っ白だった。」
蓮さんは俯く。
「インターハイ。」
「春高。」
「全部終わったって思った。」
誰も話さない。
「退院して。」
「久しぶりに体育館来た時。」
「みんな普通に練習してた。」
「神谷はいつも通り怒って。」
「水谷はまとめて。」
「守屋はうるさくて。」
守屋先輩が少し笑う。
「その光景見たら。」
「悔しくて。」
「悔しくて。」
「悔しくて。」
蓮さんは唇を噛んだ。
「俺だけ置いていかれてる気がした。」
「だから。」
「何回も辞めようと思った。」
その言葉に全員が顔を上げる。
「一回じゃない。」
「何回も。」
「何で俺なんだって。」
「何で今なんだって。」
「何回も思った。」
静かな沈黙。
「でも。」
「辞められなかった。」
「理由は。」
「みんながいたから。」
そう言って神谷先輩を見る。
「神谷。」
「お前。」
「あの時、一回も『頑張れ』って言わなかったよな。」
神谷先輩は静かに頷く。
「代わりに。」
『焦るな。』
『今日は終わり。』
『明日またやるぞ。』
「それだけ。」
蓮さんが笑う。
「その一言が。」
「すげぇ救われた。」
「俺を怪我人じゃなく。」
「仲間として扱ってくれた。」
神谷先輩は何も言わない。
でも少しだけ目を伏せた。
「水谷。」
「毎日。」
「俺より先に体育館来てたよな。」
水谷先輩が笑う。
「別に。」
「嘘つけ。」
部屋に笑いが起こる。
「朝練終わっても。」
「最後まで付き合ってくれた。」
「一本でも高く跳べるように。」
「一本でも強く打てるように。」
「ありがとう。」
水谷先輩は静かに頷いた。
「守屋。」
「お前。」
「毎日俺に打たれてたな。」
「痛かったっす。」
少し笑いが起きる。
「でも。」
「一回も嫌な顔しなかった。」
「ありがとう。」
守屋先輩は涙を拭きながら笑う。
「当たり前っす。」
「岡田。」
「杉山。」
「小林。」
「お前ら。」
「俺がいない間。」
「本当に強くなった。」
「正直。」
「焦った。」
「俺。」
「戻る場所なくなるんじゃないかって。」
「でも。」
「お前らは。」
「俺の場所を取ろうとしたんじゃない。」
「俺が戻れるように。」
「守ってくれてた。」
三人とも涙を流していた。
「ありがとう。」
そして。
蓮さんの視線が私へ向く。
「橘。」
「はい……。」
「ノート。」
私は思わず胸が熱くなる。
「俺。」
「あれ見た時。」
「泣きそうになった。」
私は息を飲む。
「あそこまで。」
「俺のジャンプの高さ。」
「助走。」
「踏み切り。」
「全部書いてあった。」
「俺より。」
「俺のこと見てた。」
涙が溢れる。
「怪我して。」
「自分でも自分を信じられなくなってた時。」
「あのノート見て。」
「まだ待ってくれてる人がいるって思えた。」
「ありがとう。」
私はもう返事ができなかった。
何度も何度も頷く。
「最後。」
蓮さんは部屋全体を見渡した。
「今日。」
「最後の一本。」
「あれ。」
「決めたかった。」
誰も目を逸らさない。
「あの一本。」
「一生忘れない。」
「夢にも出てくると思う。」
「でも。」
「後悔はしてない。」
「俺。」
「人生で一番高く跳んだ。」
その言葉に、神谷先輩が静かに顔を上げた。
「あのトス。」
「人生で一番打ちやすかった。」
神谷先輩の表情が少しだけ揺れる。
「だから。」
「拾かれたのは。」
「俺の実力不足。」
「神谷のせいじゃない。」
「誰のせいでもない。」
「ただ。」
「白鷹が強かった。」
部屋には静かな涙だけが流れる。
蓮さんは大きく息を吸った。
「俺。」
「怪我して。」
「もう終わったと思った。」
「でも。」
「みんなのおかげで。」
「全国ベスト八まで来られた。」
「日本一に。」
「あと二点まで来られた。」
「こんな幸せな高校生活。」
「たぶん。」
「もう二度とない。」
蓮さんは笑った。
涙を流しながら。
「俺。」
「このチームのエースで、本当に幸せだった。」
「ありがとう。」
深く頭を下げる。
長い沈黙。
誰も拍手はしない。
拍手なんてできなかった。
守屋先輩は顔を覆って泣いていた。
岡田先輩も、杉山先輩も、小林先輩も肩を震わせている。
水谷先輩は俯きながら目を閉じていた。
神谷先輩だけは真っ直ぐ蓮さんを見つめ、小さく一度だけ頷いた。
その頷きには、三年間一緒に戦ってきた二人にしか分からない想いが込められているように見えた。




