背中を押す、静岡の風
昼食を終えると、控室の空気は少しずつ静かになった。
壁にもたれて目を閉じる人。
イヤホンをつける人。
ストレッチを始める人。
それぞれが次の試合へ向けて、自分の時間を過ごしていた。
私はノートを膝の上に置き、さっきまとめた凌星高校の情報をもう一度見直す。
四番。
左利きのオポジット。
短い助走ではストレート。
セッターが前衛の時は、四番へのバックトスが増える。
その下には、相手の一回戦を見ながら書いた数字が並んでいた。
サーブの狙い。
ブロックの位置。
レシーブの乱れた場所。
「結衣。」
顔を上げると、水谷先輩が立っていた。
「はい。」
「休憩。」
「してます。」
「ノート開いてる。」
「見てるだけです。」
「それを休憩とは言わない。」
水谷先輩は私のノートを閉じると、そのまま隣へ置いた。
「あと三十分ある。」
「でも、忘れたら。」
「結衣が忘れるわけないだろ。」
そう言って笑う。
「少し目閉じとけ。」
「眠れないです。」
「寝なくてもいい。何も考えない時間作れ。」
監督と同じことを言われ、私は仕方なく壁へ背中を預けた。
目を閉じる。
それでも頭の中には、相手の四番が何度も跳んでいた。
高い。
速い。
打ち分ける。
一回戦とは違う。
全国の強豪校。
その言葉が、少しずつ胸を締め付ける。
「怖いか。」
すぐ近くから声がした。
目を開ける。
神谷先輩が床へ座り、壁に背中を預けていた。
「……少し。」
「そうか。」
否定も、励ましもしない。
ただ、それだけだった。
「神谷先輩は怖くないんですか。」
「怖くはない。」
「緊張は?」
「する。」
神谷先輩は前を向いたまま答える。
「強い相手ほど、考えることが増える。」
「嫌じゃないんですか。」
「面白い。」
迷いのない言葉だった。
私は思わず笑う。
「神谷先輩らしいです。」
「そうか。」
「はい。」
神谷先輩は少しだけこちらを見る。
「結衣は、見つければいい。」
「え?」
「全部止めようとしなくていい。」
「一つ見つけろ。」
練習試合の時にも言われた言葉を思い出す。
見えなくなったら、また探せばいい。
「……はい。」
「それで十分だ。」
神谷先輩は立ち上がる。
「あと十分。」
「もう行くんですか?」
「身体動かす。」
「早くないですか。」
「じっとしてる方が落ち着かない。」
そう言って、控室の端でストレッチを始めた。
私は閉じられたノートへ手を伸ばしかける。
「結衣。」
「はい。」
「休め。」
見られていた。
私は手を引っ込める。
「分かりました。」
神谷先輩が小さく頷く。
その横で、守屋先輩が薄く目を開けた。
「神谷さんの言うことは聞くんだ。」
「聞いてました?」
「途中から。」
「寝てください。」
「結衣、俺には冷たくない?」
「気のせいです。」
「神谷さんには素直なのに。」
「守屋。」
神谷先輩が低い声で呼ぶ。
「はい、寝ます。」
守屋先輩はすぐに目を閉じた。
その速さに、水谷先輩たちから小さな笑いが起きる。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
十三時。
監督の声で全員が立ち上がる。
「行くぞ。」
「はい!」
控室を出ると、廊下の向こうから凌星高校の選手たちが歩いてきた。
揃った紺色のジャージ。
一回戦を終えたばかりとは思えないほど、全員の表情が落ち着いている。
その中央に、四番がいた。
映像で見るよりも大きい。
肩幅が広く、左腕には力があるのが分かる。
すれ違う瞬間、相手の視線がこちらへ向いた。
神谷先輩。
蓮先輩。
そして、一瞬だけ私のノート。
向こうも私たちを見ている。
そう思うと、背筋が伸びた。
「結衣。」
水谷先輩が前を向いたまま言う。
「はい。」
「顔。」
「え?」
「硬い。」
「そんなにですか。」
「そんなに。」
守屋先輩が横から覗き込む。
「確かに。」
「近いです。」
「いつもの結衣に戻れ。」
「いつものって何ですか。」
「俺に冷たい結衣。」
「じゃあ戻ってます。」
「早い。」
岡田先輩が笑う。
「大丈夫そうだな。」
「はい。」
コートへ入ると、すでに観客席から大きな声援が響いていた。
大阪代表。
応援団の人数も、声の大きさも一回戦とは違う。
太鼓の音が体育館を揺らす。
それでも、聖明の選手たちは顔色を変えなかった。
ボールケースが開く。
全員がアップへ入る。
凌星高校の四番が最初のスパイクを打った。
ドンッ!!
床が震えたような音がする。
ボールはブロックの上から、コートの奥へ突き刺さった。
観客席が沸く。
「すご……。」
思わず声が漏れる。
その直後。
反対側で蓮先輩が助走へ入った。
神谷先輩のトス。
高く跳ぶ。
ドォン!!
同じように、ボールが床へ叩きつけられた。
今度は聖明のベンチから声が上がる。
蓮先輩がネット越しに四番を見る。
相手もこちらを見ていた。
言葉はない。
でも、互いに何かを確かめたようだった。
「結衣。」
神谷先輩がボールを持ったまま、私を呼ぶ。
「はい。」
「相手だけ見るな。」
昨日から何度も言われている。
私は聖明のコートを見る。
いつも通りの助走。
いつも通りの声。
いつも通りのサーブ。
「はい。」
ノートを開く。
怖さは消えていない。
でも、それ以上に見たいと思った。
この相手に、聖明がどう戦うのか。
神谷先輩がどう組み立てるのか。
みんながどこまで通用するのか。
会場アナウンスが響く。
『第二試合、大阪府代表・凌星高校対、静岡県代表・聖明高校。間もなく試合を開始します』
両チームがコート中央へ並ぶ。
大阪の大きな応援が降り注ぐ。
その中で、水谷先輩が全員を見渡した。
「相手がどこだろうと関係ない。」
全員が頷く。
「いつも通り、一本ずつ取るぞ。」
「はい!!」
監督がコートへ向かおうとした選手たちを呼び止めた。
「待て。」
全員が振り返る。
監督は腕を組み、少しだけ口元を緩めた。
「お前らに、助っ人が来てる。」
「助っ人?」
守屋先輩が首を傾げる。
「今から選手登録できるんですか?」
「お前よりうるさい助っ人だ。」
「俺より?」
監督は答えず、観客席を指差した。
つられて、全員が顔を上げる。
大阪の応援団とは反対側。
さっきまで空席が目立っていた一角に、揃いの服を着た人たちが集まっていた。
その中に、見覚えのある顔がいくつもある。
「……あれ。」
水谷先輩が目を見開く。
「先輩たちじゃん。」
聖明高校男子バレー部のOB。
以前、体育館へ顔を出してくれた人。
卒業してからも試合を見に来てくれていた人。
制服姿の頃を写真でしか知らない、もっと上の代の先輩たち。
何年も前に聖明のユニフォームを着ていた人たちが、横断幕を広げていた。
『繋げ 聖明』
その文字が、観客席に大きく揺れる。
「マジか……。」
岡田先輩が小さく呟く。
「それだけじゃない。」
監督の言葉と同時に、その隣から太鼓の音が響いた。
ドンッ。
低く、力強い音が体育館の空気を震わせる。
続いて笛の音。
聞き慣れた祭囃子の音色が、全国大会の会場に広がった。
「これ……。」
私は思わず声を漏らす。
学校のある地域で、毎年祭りを運営している人たちだった。
夏になると町中に響く太鼓。
選手がコートへ入る時に鳴らされる出囃子。
いつもは地域の祭りを盛り上げている人たちが、今日は聖明のために太鼓と笛を持って来てくれている。
「わざわざ静岡から?」
守屋先輩の声から、いつもの軽さが消えていた。
「ああ。」
監督が頷く。
「お前らを応援したいってな。」
太鼓がもう一度鳴る。
ドンッ。
その音に合わせるように、観客席の奥から大きな歓声が上がった。
「聖明ー!!」
「頑張れー!!」
次々と立ち上がったのは、制服姿の生徒たちだった。
同じ制服。
見慣れた校章。
生徒会。
クラスメイト。
部活動の生徒。
普段、廊下ですれ違っていた人たち。
観客席の一角を埋めるほど、たくさんの生徒が学校から駆けつけていた。
「え……。」
胸が詰まる。
こんなに大勢が来るなんて、聞いていなかった。
生徒たちの中央で、葵が両手を大きく振っている。
「結衣ー!!」
「葵……。」
思わず名前が口からこぼれた。
葵は私と目が合うと、さらに大きく手を振った。
その隣では、クラスの友達たちも笑っている。
「マネージャーも頑張れー!」
顔が一気に熱くなった。
「結衣、人気者。」
守屋先輩が笑う。
「聞いてないです……。」
「俺への声援より大きくない?」
「気のせいです。」
「いや、絶対大きかった。」
「守屋。」
岡田先輩が肩を叩く。
「負けてるぞ。」
「監督と同じこと言わないでくださいよ。」
小さな笑いが起こる。
けれど、みんなの目は少し赤く見えた。
水谷先輩は横断幕を見上げたまま、深く息を吐く。
蓮先輩は右膝へ一度触れ、それから観客席へ向かって拳を上げた。
大きな歓声が返ってくる。
杉山先輩と小林先輩も顔を見合わせて笑った。
神谷先輩だけは、いつものように表情をほとんど変えない。
それでも、その視線は長い間、観客席へ向けられていた。
「神谷。」
監督が呼ぶ。
「はい。」
「どうだ。」
神谷先輩は太鼓を持つ人たちを見る。
OBを見る。
制服姿の生徒たちを見る。
そして、短く答えた。
「負けられないです。」
太鼓の音が、もう一度響いた。
その言葉を聞いた監督が頷く。
「ここに来たのは、お前らだけじゃない。」
監督は全員を見渡す。
「卒業しても聖明を背負ってる先輩たちがいる。」
「地域で、お前らを応援してくれる人たちがいる。」
「学校から、これだけの生徒が来てる。」
観客席から、聖明の名前を呼ぶ声が降り注ぐ。
「静岡で待ってる奴らもいる。」
監督の声が、太鼓にも負けず響いた。
「だからといって、背負いすぎるな。」
「こいつらは、お前らに重圧をかけに来たんじゃない。」
「お前らと一緒に戦いに来た。」
全員の顔が上がる。
「大阪の応援が大きい?」
監督が相手側の観客席を見る。
「だったら、こっちはもっと大きくするだけだ。」
守屋先輩がニヤッと笑った。
「俺の出番ですね。」
「お前一人で張り合うな。」
水谷先輩が笑いながら言う。
「全員でだろ。」
「はい!」
監督がコートを指差す。
「助っ人は揃った。」
「行ってこい。」
水谷先輩を中心に、全員が円陣を組む。
私もベンチ側からその輪へ近付いた。
「結衣も。」
水谷先輩が手を伸ばす。
私は迷わず、その輪の中へ入った。
肩が触れる。
選手たちの体温が伝わる。
観客席から聞こえる声。
OBが掲げる横断幕。
地域の人たちが鳴らす太鼓と笛。
葵たちの声。
全部が私たちの背中を押していた。
「全国だからって、やることは変わらない。」
水谷先輩が全員を見る。
「拾って。」
守屋先輩が続ける。
「繋いで。」
岡田先輩が言う。
「決める。」
蓮先輩が拳を握る。
神谷先輩が静かに全員を見渡した。
「勝つぞ。」
「おお!!」
円陣が解ける。
選手たちがコートへ走り出す。
その瞬間、出囃子が一段と大きく響いた。
太鼓に合わせ、観客席から聖明の名前が繰り返される。
一回戦ではなかった、私たちの応援。
大阪の大声援にも負けない音が、体育館を包んでいく。
私はベンチへ戻り、ノートを強く握った。
もう、怖くなかった。
コートに立つ六人だけじゃない。
ベンチも。
OBも。
地域の人たちも。
学校のみんなも。
遠く静岡で応援してくれている人たちも。
全員で、この一戦に挑む。
主審がボールを持ち上げる。
全国大会二回戦。
大阪代表・凌星高校との戦いが、始まろうとしていた。




