決戦前日
インターハイ予選まで、あと一日。
体育館には、いつもより静かなボールの音が響いていた。
「無理に打ち込むな。」
監督がコート脇から声を飛ばす。
「今日は身体を動かすだけでいい。疲労を残すな。」
「はい!」
練習内容は、軽いレシーブとサーブ。
最後にローテーションを確認する程度だった。
いつもなら神谷先輩のトスに何度も助走を合わせる蓮先輩も、今日は数本で切り上げる。
水谷先輩も、強く打ち込まずにコースだけを確認していた。
守屋先輩はボールが来るたびに大きな声を出している。
「オーライ!」
守屋先輩がレシーブを上げる。
ボールは綺麗に神谷先輩の位置へ返った。
神谷先輩が軽くトスを上げる。
蓮先輩が助走を付ける。
けれど、跳び切る直前で力を抜き、軽くボールを押し込んだ。
「今日はそれくらいでいい。」
監督が言う。
蓮先輩は着地すると、小さく頷いた。
「はい。」
私はコート脇で、ローテーション表と明日の持ち物を確認する。
ボール。
救急セット。
テーピング。
タオル。
ドリンク。
ユニフォーム。
何度確認しても、胸の奥が落ち着かなかった。
明日。
本当に始まる。
「結衣。」
守屋先輩の声に顔を上げる。
「はい?」
「そんなに見たら紙に穴開くよ。」
「開きません。」
「もう五回くらい確認してない?」
「まだ四回です。」
「十分多い。」
守屋先輩が笑う。
その横から、水谷先輩がローテーション表を覗き込んだ。
「忘れ物はなさそう?」
「はい。大丈夫です。」
「なら、あとは俺たちに任せて。」
水谷先輩はそう言って、軽く私の肩を叩いた。
「結衣はいつも通りでいいから。」
「……はい。」
いつも通り。
そう言われても、明日も同じようにできる自信はなかった。
けれど。
選手たちがいつも通りコートへ立つなら。
私も、いつも通り支えなければいけない。
「最後、サーブ五本ずつ。」
監督の声が響く。
部員たちが順番にエンドラインへ向かう。
杉山先輩。
小林先輩。
岡田先輩。
水谷先輩。
蓮先輩。
一人ずつ、狙った場所へサーブを打ち込んでいく。
守屋先輩は最後まで大きな声を出し、ボールを追い続けていた。
そして最後。
神谷先輩がボールを手に取る。
体育館が少しだけ静かになった。
神谷先輩は一度ボールを床へ突き、ゆっくりと息を吐く。
高くトスを上げる。
助走。
踏み切り。
乾いた音が響く。
ボールは一直線に伸び、エンドライン際へ落ちた。
「イン。」
監督が短く言う。
神谷先輩は何も言わず、転がったボールを見つめていた。
「よし。」
監督が笛を鳴らす。
「今日はここまで。」
「ありがとうございました!」
全員で頭を下げる。
普段よりずっと短い練習だった。
それなのに、誰もすぐには動かなかった。
明日が来ることを、全員が同じように意識していた。
「ちょっと待って。」
水谷先輩が声を上げる。
監督が水谷先輩を見る。
「何だ。」
「最後に、少しいいですか。」
監督は一度だけ頷くと、コートの外へ下がった。
水谷先輩が部員たちを円になるように呼び集める。
私も少し離れたところへ立とうとした。
「結衣も。」
水谷先輩に呼ばれ、足を止める。
「でも、私は……。」
「チームだろ。」
その一言に、胸の奥が熱くなった。
私は小さく頷き、みんなの輪の中へ入る。
水谷先輩が全員の顔を見渡した。
「明日から、インターハイ予選が始まる。」
誰も声を出さない。
体育館には、窓の外から聞こえる風の音だけが響いていた。
「新人戦で俺たちは優勝した。」
水谷先輩がゆっくりと言う。
「でも、明日は新人戦の続きじゃない。」
「去年の結果も、新人戦の優勝も関係ない。」
「一試合目から、全部取りにいく。」
水谷先輩の声が、静かな体育館に響く。
「目標は全国。」
「そのために、まず明日勝つ。」
「はい。」
低く、全員の声が重なる。
水谷先輩は隣に立つ守屋先輩を見る。
「守屋。」
「はい。」
「一本目、頼むぞ。」
守屋先輩は一瞬だけ驚いた顔をして、それから強く頷いた。
「絶対上げます。」
次に、水谷先輩は杉山先輩と小林先輩を見る。
「真ん中、任せた。」
「はい。」
「止めます。」
岡田先輩へ視線を移す。
「いつも通り頼む。」
「任せてください。」
そして。
水谷先輩は蓮先輩を見る。
少しだけ間が空いた。
「蓮。」
「おう。」
「帰ってきてくれて、ありがとな。」
蓮先輩の目が、わずかに揺れた。
体育館が静かになる。
「明日、頼む。」
水谷先輩はそれ以上何も言わなかった。
蓮先輩も、少しだけ俯いたあと、顔を上げる。
「ああ。」
その声は静かだった。
でも、強かった。
「全部決める。」
守屋先輩が笑う。
「それは言いすぎじゃないですか?」
「じゃあ、お前が全部拾え。」
「拾いますけど!」
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
水谷先輩は笑いながら、最後に神谷先輩へ目を向けた。
「凛太郎。」
「何。」
「何かある?」
神谷先輩は少しだけ考えた。
それから全員を見渡す。
「いつも通りやれば勝てる。」
短い言葉だった。
誰もが、神谷先輩らしいと思ったはずだった。
「ただ。」
神谷先輩が続ける。
「明日は、一本も無駄にするな。」
守屋先輩が真剣な表情で頷く。
蓮先輩も、水谷先輩も。
全員の目が、神谷先輩へ向いていた。
「取られたら取り返す。」
「崩れたら繋ぐ。」
「誰かが止まったら、周りが動け。」
神谷先輩の視線が、一瞬だけ私へ向く。
「全員で勝つ。」
胸の奥が強く鳴った。
水谷先輩が大きく息を吸う。
「よし。」
全員が肩を寄せ、円を小さくする。
「聖明。」
水谷先輩の声に、全員が手を中央へ伸ばした。
私も迷いながら、そっと手を重ねる。
その上に、守屋先輩の手。
蓮先輩。
神谷先輩。
一人ずつ重なっていく。
「絶対、全国行くぞ!」
「おお!」
声が体育館を揺らした。
重なった手が、一斉に離れる。
守屋先輩がすぐに息を吐いた。
「やば。今のでちょっと緊張してきた。」
「今さらかよ。」
蓮先輩が笑う。
「蓮さんは緊張してないんですか?」
「してる。」
蓮先輩はあっさりと答えた。
守屋先輩が驚いたように目を開く。
「するんですね。」
「当たり前だろ。」
蓮先輩は笑っていた。
「でも、怖くはない。」
その言葉に、神谷先輩が蓮先輩を見る。
二人の視線が重なる。
蓮先輩は静かに続けた。
「今は一人じゃないから。」
水谷先輩が少しだけ笑う。
守屋先輩は何も言わず、強く頷いた。
私はその輪の中で、先輩たちを見つめていた。
明日。
どんな試合になるのかは分からない。
でも。
この人たちとなら大丈夫だと、本気で思えた。
「結衣。」
神谷先輩が私を見る。
「はい。」
「明日、ちゃんと見てろ。」
初めて体育館で会った日。
神谷先輩のサーブを、ただ眺めていた。
あの頃は、バレーボールのことなんて何も知らなかった。
今は違う。
一本の意味も。
選手たちの努力も。
このチームが、どれだけ明日を待っていたのかも知っている。
私は神谷先輩の目を真っ直ぐ見た。
「はい。」
「全部、見てます。」
神谷先輩は一瞬だけ目を細めた。
「頼んだ。」
明日の体育館には、今とは違う音が響く。
歓声。
笛の音。
シューズが床を擦る音。
そして、試合開始を告げる最初の一球。
そのすべてを忘れないように。
私は静かに、誰もいなくなっていくコートを見つめた。




