全員で勝つ
インターハイ予選まで、あと五日。
翌日の放課後。
体育館へ入ると、守屋先輩がすでにドリンクの準備を始めていた。
「結衣、粉これで合ってる?」
「合ってます、昨日いいましたよね!?」
「水の量は?」
「そこまで入れてください。」
「了解。」
昨日とは違い、今日は袋の表示をきちんと確認している。
「ちゃんとできてるじゃないですか。」
「俺、やればできるから。」
守屋先輩が得意げに胸を張る。
「昨日は二本分入れようとしてましたけど。」
「過去は振り返らない主義。」
「試合の反省もですか?」
「それはちゃんと振り返ります。」
即答した守屋先輩に、思わず笑った。
「おはよう、結衣。」
後ろから声がして振り返る。
「おはようございます、蓮先輩。」
蓮先輩は当然のように私の名前を呼び、ボールケースへ向かっていく。
続いて体育館へ入ってきた水谷先輩も、こちらへ軽く手を挙げた。
「結衣、今日の記録用紙ある?」
「準備してあります。」
「ありがと。」
二人とも、もう何の違和感もなく名前で呼んでいる。
たった一日で、本当に定着し始めていた。
「結衣。」
守屋先輩に呼ばれ、顔を向ける。
「これ、蓋どこ?」
「目の前にあります。」
「あ、本当だ。」
「しっかりしてください。」
「名前呼ばれるの、もう慣れた?」
「慣れてません。」
「でも普通に返事してるじゃん。」
「呼ばれたら返事はします。」
「じゃあ慣れてる。」
「違います。」
言い合っていると、体育館の扉が開いた。
神谷先輩が入ってくる。
一瞬だけ、昨日のことが頭をよぎった。
ショッピングモールで。
みんなと別れる直前。
『結衣。明日、遅れんなよ』
その声を思い出しただけで、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
神谷先輩は私たちの前を通り、ボールケースを覗いた。
「橘。」
「はい。」
いつも通りの名字だった。
「ボール、足りる?」
「あ……はい。全部出してあります。」
「そう。」
神谷先輩はそれだけ言うと、コートへ向かった。
少しだけ拍子抜けした自分に気づき、慌ててドリンクへ視線を戻す。
何を期待していたんだろう。
昨日、たまたま名前で呼ばれただけなのに。
「結衣。」
守屋先輩が小声で呼ぶ。
「なんですか。」
「今、ちょっと残念そうな顔した?」
「してません。」
「神谷さんが橘って呼んだから?」
「違います!」
「分かりやすいなぁ。」
「守屋先輩。」
「はい?」
「ドリンク、もう一本追加でお願いします。」
「罰の増やし方がおかしい!」
守屋先輩の声に、水谷先輩と蓮先輩が笑った。
「集合。」
監督の声が響き、部員たちがコート中央へ集まる。
「予選まで五日。」
笑っていた空気が、一瞬で引き締まった。
「今日から練習時間は少し短くする。」
監督が全員を見渡す。
「その代わり、一本一本の精度を上げろ。疲労を残すな。怪我だけはするな。」
「はい!」
「ゲーム形式を中心にやる。橘は記録。」
「はい!」
私はノートを持ち、コート脇へ移動した。
開始の笛が鳴る。
昨日までと同じように見えて、一本に込められた緊張感が違った。
守屋先輩のレシーブ。
水谷先輩のコースを狙ったスパイク。
杉山先輩と小林先輩のクイック。
岡田先輩の安定した攻撃。
神谷先輩のトス。
そして。
蓮先輩の、高い打点から放たれる一撃。
ボールが床へ突き刺さるたび、予選が近づいていることを実感した。
「もう一本。」
神谷先輩がボールを要求する。
「はい!」
私はボールを手に取り、渡そうと前へ出る。
その時。
「結衣。」
思わず足が止まった。
神谷先輩が、こちらへ手を伸ばしている。
「ボール。」
「あ……はい!」
慌ててボールを渡す。
神谷先輩は何事もなかったようにコートへ戻っていった。
私はその背中を見つめたまま、少しだけ動けなくなる。
「おーい、結衣。」
反対側から守屋先輩の声が飛んでくる。
「顔。」
「何もないです!」
「まだ何も言ってないけど。」
「守屋、集中しろ。」
神谷先輩の声が低くなる。
「はい!」
守屋先輩は慌てて構え直した。
けれど、その顔にはしっかりと笑みが浮かんでいた。
練習は、いつもより短い時間で終わった。
「ありがとうございました!」
全員で挨拶をする。
息は上がっている。
それでも、誰一人としてその場を離れようとしなかった。
監督がゆっくりと口を開く。
「残り五日。」
「技術が突然大きく伸びることはない。」
全員が真っ直ぐ監督を見る。
「だが、一本への意識は変えられる。」
「サーブ一本。」
「レシーブ一本。」
「トス一本。」
「スパイク一本。」
短い言葉が、静かな体育館に響く。
「目の前の一本を疎かにするな。」
「はい!」
「今日は終わりだ。しっかり休め。」
部員たちが片付けを始める。
私はノートを閉じながら、コートを見渡した。
インターハイ予選まで、あと五日。
もうすぐ。
この人たちが、ずっと目指してきた場所へ向かう。
怖くないわけじゃない。
勝ってほしい。
絶対に終わってほしくない。
その気持ちは、日に日に強くなっていた。
「結衣。」
顔を上げると、神谷先輩がボールケースの横に立っていた。
「はい。」
「帰るぞ。」
それだけ言って、先に体育館の出口へ向かう。
私は少し遅れて、その背中を追いかけた。
今度は、呼ばれた名前に迷わず返事ができた。
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インターハイ予選まで、あと一日。
体育館には、いつもより静かなボールの音が響いていた。
「無理に打ち込むな。」
監督がコート脇から声を飛ばす。
「今日は身体を動かすだけでいい。疲労を残すな。」
「はい!」
練習内容は、軽いレシーブとサーブ。
最後にローテーションを確認する程度だった。
いつもなら神谷先輩のトスに何度も助走を合わせる蓮先輩も、今日は数本で切り上げる。
水谷先輩も、強く打ち込まずにコースだけを確認していた。
守屋先輩はボールが来るたびに大きな声を出している。
「オーライ!」
守屋先輩がレシーブを上げる。
ボールは綺麗に神谷先輩の位置へ返った。
神谷先輩が軽くトスを上げる。
蓮先輩が助走を付ける。
けれど、跳び切る直前で力を抜き、軽くボールを押し込んだ。
「今日はそれくらいでいい。」
監督が言う。
蓮先輩は着地すると、小さく頷いた。
「はい。」
私はコート脇で、ローテーション表と明日の持ち物を確認する。
ボール。
救急セット。
テーピング。
タオル。
ドリンク。
ユニフォーム。
何度確認しても、胸の奥が落ち着かなかった。
明日。
本当に始まる。
「結衣。」
守屋先輩の声に顔を上げる。
「はい?」
「そんなに見たら紙に穴開くよ。」
「開きません。」
「もう五回くらい確認してない?」
「まだ四回です。」
「十分多い。」
守屋先輩が笑う。
その横から、水谷先輩がローテーション表を覗き込んだ。
「忘れ物はなさそう?」
「はい。大丈夫です。」
「なら、あとは俺たちに任せて。」
水谷先輩はそう言って、軽く私の肩を叩いた。
「結衣はいつも通りでいいから。」
「……はい。」
いつも通り。
そう言われても、明日も同じようにできる自信はなかった。
けれど。
選手たちがいつも通りコートへ立つなら。
私も、いつも通り支えなければいけない。
「最後、サーブ五本ずつ。」
監督の声が響く。
部員たちが順番にエンドラインへ向かう。
杉山先輩。
小林先輩。
岡田先輩。
水谷先輩。
蓮先輩。
一人ずつ、狙った場所へサーブを打ち込んでいく。
守屋先輩は最後まで大きな声を出し、ボールを追い続けていた。
そして最後。
神谷先輩がボールを手に取る。
体育館が少しだけ静かになった。
神谷先輩は一度ボールを床へ突き、ゆっくりと息を吐く。
高くトスを上げる。
助走。
踏み切り。
乾いた音が響く。
ボールは一直線に伸び、エンドライン際へ落ちた。
「イン。」
監督が短く言う。
神谷先輩は何も言わず、転がったボールを見つめていた。
「よし。」
監督が笛を鳴らす。
「今日はここまで。」
「ありがとうございました!」
全員で頭を下げる。
普段よりずっと短い練習だった。
それなのに、誰もすぐには動かなかった。
明日が来ることを、全員が同じように意識していた。
「ちょっと待って。」
水谷先輩が声を上げる。
監督が水谷先輩を見る。
「何だ。」
「最後に、少しいいですか。」
監督は一度だけ頷くと、コートの外へ下がった。
水谷先輩が部員たちを円になるように呼び集める。
私も少し離れたところへ立とうとした。
「結衣も。」
水谷先輩に呼ばれ、足を止める。
「でも、私は……。」
「チームだろ。」
その一言に、胸の奥が熱くなった。
私は小さく頷き、みんなの輪の中へ入る。
水谷先輩が全員の顔を見渡した。
「明日から、インターハイ予選が始まる。」
誰も声を出さない。
体育館には、窓の外から聞こえる風の音だけが響いていた。
「新人戦で俺たちは優勝した。」
水谷先輩がゆっくりと言う。
「でも、明日は新人戦の続きじゃない。」
「去年の結果も、新人戦の優勝も関係ない。」
「一試合目から、全部取りにいく。」
水谷先輩の声が、静かな体育館に響く。
「目標は全国。」
「そのために、まず明日勝つ。」
「はい。」
低く、全員の声が重なる。
水谷先輩は隣に立つ守屋先輩を見る。
「守屋。」
「はい。」
「一本目、頼むぞ。」
守屋先輩は一瞬だけ驚いた顔をして、それから強く頷いた。
「絶対上げます。」
次に、水谷先輩は杉山先輩と小林先輩を見る。
「真ん中、任せた。」
「はい。」
「止めます。」
岡田先輩へ視線を移す。
「いつも通り頼む。」
「任せてください。」
そして。
水谷先輩は蓮先輩を見る。
少しだけ間が空いた。
「蓮。」
「おう。」
「帰ってきてくれて、ありがとな。」
蓮先輩の目が、わずかに揺れた。
体育館が静かになる。
「明日、頼む。」
水谷先輩はそれ以上何も言わなかった。
蓮先輩も、少しだけ俯いたあと、顔を上げる。
「ああ。」
その声は静かだった。
でも、強かった。
「全部決める。」
守屋先輩が笑う。
「それは言いすぎじゃないですか?」
「じゃあ、お前が全部拾え。」
「拾いますけど!」
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
水谷先輩は笑いながら、最後に神谷先輩へ目を向けた。
「凛太郎。」
「何。」
「何かある?」
神谷先輩は少しだけ考えた。
それから全員を見渡す。
「いつも通りやれば勝てる。」
短い言葉だった。
誰もが、神谷先輩らしいと思ったはずだった。
「ただ。」
神谷先輩が続ける。
「明日は、一本も無駄にするな。」
守屋先輩が真剣な表情で頷く。
蓮先輩も、水谷先輩も。
全員の目が、神谷先輩へ向いていた。
「取られたら取り返す。」
「崩れたら繋ぐ。」
「誰かが止まったら、周りが動け。」
神谷先輩の視線が、一瞬だけ私へ向く。
「全員で勝つ。」
胸の奥が強く鳴った。
水谷先輩が大きく息を吸う。
「よし。」
全員が肩を寄せ、円を小さくする。
「聖明。」
水谷先輩の声に、全員が手を中央へ伸ばした。
私も迷いながら、そっと手を重ねる。
その上に、守屋先輩の手。
蓮先輩。
神谷先輩。
一人ずつ重なっていく。
「絶対、全国行くぞ!」
「おお!」
声が体育館を揺らした。
重なった手が、一斉に離れる。
守屋先輩がすぐに息を吐いた。
「やば。今のでちょっと緊張してきた。」
「今さらかよ。」
蓮先輩が笑う。
「蓮さんは緊張してないんですか?」
「してる。」
蓮先輩はあっさりと答えた。
守屋先輩が驚いたように目を開く。
「するんですね。」
「当たり前だろ。」
蓮先輩は笑っていた。
「でも、怖くはない。」
その言葉に、神谷先輩が蓮先輩を見る。
二人の視線が重なる。
蓮先輩は静かに続けた。
「今は一人じゃないから。」
水谷先輩が少しだけ笑う。
守屋先輩は何も言わず、強く頷いた。
私はその輪の中で、先輩たちを見つめていた。
明日。
どんな試合になるのかは分からない。
でも。
この人たちとなら大丈夫だと、本気で思えた。
「結衣。」
神谷先輩が私を見る。
「はい。」
「明日、ちゃんと見てろ。」
初めて体育館で会った日。
神谷先輩のサーブを、ただ眺めていた。
あの頃は、バレーボールのことなんて何も知らなかった。
今は違う。
一本の意味も。
選手たちの努力も。
このチームが、どれだけ明日を待っていたのかも知っている。
私は神谷先輩の目を真っ直ぐ見た。
「はい。」
「全部、見てます。」
神谷先輩は一瞬だけ目を細めた。
「頼んだ。」
明日の体育館には、今とは違う音が響く。
歓声。
笛の音。
シューズが床を擦る音。
そして、試合開始を告げる最初の一球。
そのすべてを忘れないように。
私は静かに、誰もいなくなっていくコートを見つめた。




