だからだ。
「始め!」
ホイッスルが鳴り、ゲーム形式の練習が始まった。
私は脚立へ腰を下ろし、ノートを開く。
目の前には赤と白に塗り分けられたアンテナ。
神谷先輩の言葉を思い出す。
『アンテナを基準に見ろ。』
『違和感があったら全部書け。』
ラリーが続く。
「ナイス!」
「切り替え!」
守屋先輩が相手のスパイクを拾う。
神谷先輩がボールの下へ入る。
「蓮!」
トスが上がる。
蓮先輩が助走へ入る。
跳ぶ。
打点はアンテナの赤いテープ五段目付近。
『8-6 赤五段目』
私はすぐに書き込む。
次の一本。
また蓮先輩。
『14-11 赤五段目』
ゲームは終盤へ進む。
二十一対二十。
神谷先輩が再び蓮先輩へトスを上げる。
打点は赤五段目。
『21-20 赤五段目』
(まだ落ちてない……。)
私はノートから顔を上げた。
次のラリー。
相手のブロックが二枚揃う。
守屋先輩がレシーブを上げる。
神谷先輩がボールの下へ入る。
誰もが水谷先輩へ上がると思った。
でも。
「蓮!」
また蓮先輩だった。
助走。
一歩。
二歩。
三歩。
(……!)
打点が一瞬低く見えた。
スパイクはブロックに捕まり、そのままコートへ叩き落とされた。
私はすぐにノートへ書き込む。
『23-23 赤四段目』
「ドンマイ!」
守屋先輩がすぐに声を掛ける。
蓮先輩も笑って手を挙げる。
「悪い。」
私はノートへ目を落とした。
『23-23 赤四段目』
やっぱり。
勝負所だけ。
一段落ちる。
それなのに。
次の一本。
神谷先輩はまた蓮先輩へトスを上げた。
(なんで……。)
もう分かっているはずなのに。
どうして。
水谷先輩じゃない。
他のスパイカーでもない。
神谷先輩は、迷わず蓮先輩を選ぶ。
私はボールではなく、神谷先輩を見ていた。
その目には迷いがなかった。
ただ。
信じている。
それだけだった。
私はまだ知らなかった。
神谷先輩が、どうしてそこまで蓮先輩を信じ続けるのかを。
ピーッ。
監督の笛が鳴る。
「そこまで!」
「ありがとうございました!」
ゲームが終わり、部員たちは一斉に整列した。
「今日はここまで。」
監督の一言で、部員たちは片付けを始める。
「守屋、そのネット頼む。」
「はい!」
「水谷、ボール数確認。」
「了解。」
いつも通りの光景。
蓮先輩も笑いながらボールを拾っていた。
さっきまでブロックに止められていたとは思えないくらい、普段通りだった。
でも。
私のノートには残っている。
『23-23 赤四段目』
あの一瞬だけ落ちた打点。
「蓮。」
監督が静かに呼んだ。
蓮先輩の手が止まる。
「はい。」
「少し来い。」
短いやり取り。
体育館の端へ二人が歩いていく。
誰も気にしていない。
守屋先輩は水谷先輩と笑いながらネットを外している。
神谷先輩だけが、一度だけその背中へ目を向けた。
私は思わずノートを胸に抱えた。
監督は腕を組み、蓮先輩を真っ直ぐ見つめる。
「お前、自分で気付いてるな。」
蓮先輩は少しだけ目を伏せた。
「……はい。」
監督は静かに続ける。
「勝負所になると、跳べていない。」
体育館の音だけが響く。
しばらく沈黙が続いた。
やがて蓮先輩は、小さく笑った。
「分かってます。」
その笑顔は、今まで見てきた笑顔とは違っていた。
苦しさを隠そうとしている笑顔だった。
「怪我は治ってる。」
「はい。」
「じゃあ、何が怖い。」
その一言で。
蓮先輩の表情が止まった。
長い沈黙。
やがて、小さな声が漏れる。
「……また、あの時みたいになるのが怖いです。」
「踏み切る瞬間になると。」
「勝手に体が止まるんです。」
「頭では跳べるって分かってるのに。」
「足が、動いてくれない。」
監督は何も責めなかった。
ただ、小さく頷く。
「そうか。」
その一言だけだった。
「蓮。」
「はい。」
「今のお前を、このままゲームに出しても。」
「苦しむのはお前だ。」
蓮先輩は静かに俯いた。
「しばらくゲームから外れる。」
私は思わず息を呑んだ。
「その代わり。」
監督は真っ直ぐ蓮先輩を見る。
「跳ぶことだけ考えろ。」
「決めなくていい。」
「まずは、もう一度思い切り跳べ。」
蓮先輩はゆっくりと顔を上げる。
「……はい。」
その返事は小さかった。
でも。
逃げるような返事ではなかった。
体育館を出ると、夕日が校舎を赤く染めていた。
部員たちは笑いながら帰っていく。
「また明日!」
「お疲れ!」
そんな声が飛び交う中、蓮先輩だけは一人、ゆっくりと歩いていた。
私は少し離れた場所から、その背中を見つめる。
いつもなら守屋先輩と並んで帰るはずなのに。
今日は誰とも話さない。
「蓮。」
低い声が聞こえた。
振り返ると、神谷先輩だった。
蓮先輩は足を止める。
神谷先輩は何も言わず、一つのボールを蓮先輩へ投げた。
パシッ。
蓮先輩は反射的に受け取る。
「明日。」
それだけだった。
「……え?」
「練習終わったら来い。」
短い一言。
神谷先輩はそのまま歩き出す。
「おい。」
蓮先輩が呼び止める。
神谷先輩は振り返らない。
「俺、ゲーム外されたぞ。」
少しだけ自嘲するような声だった。
神谷先輩は立ち止まる。
「だからだ。」
その一言だけ。
再び歩き出す。
蓮先輩は手の中のボールを見つめる。
強く握る。
「……ほんと。」
小さく笑った。
「厳しいな。」
その笑顔は、悔しさを隠した笑顔だった。
私は二人の背中を見つめながら思った。
神谷先輩は、励ましているわけじゃない。
慰めてもいない。
それでも。
誰よりも蓮先輩を信じている。
そんな気がした。




