誰にも言うな
翌日。
体育館へ入ると、いつもより少しだけ空気が張り詰めていた。
「今日は紅白戦をやる。」
監督の一言で、部員たちがそれぞれコートへ散っていく。
「橘。」
「はい!」
私はスコアボードの前へ立った。
試合形式の練習。
いつもより選手たちの声も大きい。
「ナイス!」
「切り替え!」
ラリーが続く。
守屋先輩が拾う。
神谷先輩がボールの下へ入る。
相手ブロックを見る。
「蓮!」
トスが上がる。
蓮先輩が跳ぶ。
鋭いスパイクが相手コートへ突き刺さる。
「ナイス!」
一本目。
会場に声が響く。
その後も試合は続いた。
蓮先輩は何本も決める。
守屋先輩は笑いながらガッツポーズを作る。
「さすが蓮さん!」
「一本!」
蓮先輩も笑いながら拳を上げた。
試合は終盤。
二十三対二十三。
次の一本で流れが変わる。
守屋先輩が相手のスパイクを拾う。
「ナイス!」
神谷先輩がボールの下へ入る。
相手ブロックは一枚。
完全にチャンスだった。
「蓮!」
高く上がるトス。
蓮先輩が助走へ入る。
一歩。
二歩。
三歩。
私はその瞬間だけ目を見開いた。
まただ。
踏み切る直前。
ほんの少しだけ、体が止まる。
跳ぶ。
でも、いつもより少し低い。
打ったボールはブロックの指先に当たり、そのままコートの外へ落ちた。
ピーッ。
相手ボール。
体育館が静かになる。
「悪い。」
蓮先輩は笑って手を挙げた。
誰も責めない。
「切り替え!」
守屋先輩がすぐに声を出す。
次の一本。
今度は相手に決められ、ゲームセット。
「ありがとうございました!」
試合は終わった。
私はスコアボードを片付けながら、さっきの一本を思い返していた。
一本目でも。
二本目でもない。
勝負所だけ。
(なんで……。)
「集合。」
監督の声で全員が集まる。
「今のゲーム。」
監督は部員全員を見渡した。
「内容は悪くない。」
誰も口を開かない。
「だが、勝負所を落とした。」
静かな体育館。
監督は神谷先輩を見る。
「神谷。」
「はい。」
「最後、なぜ蓮を使った。」
私は思わず顔を上げる。
神谷先輩は迷わず答えた。
「一番決める確率が高いからです。」
監督は小さく頷く。
「俺もそう思う。」
その言葉に、蓮先輩は少しだけ俯いた。
「今日は終わり。」
監督はそれ以上何も言わなかった。
部員たちが散っていく。
私はボールを拾いながら、ふと神谷先輩を見る。
神谷先輩は片付けをしながらも、一度だけ蓮先輩の背中へ視線を向けた。
その視線は厳しくも、責めているようには見えなかった。
むしろ――。
何かを待っているようだった。
「橘。」
更衣室へ向かおうとした時、監督に呼び止められた。
「はい。」
「体育館に練習メニューのファイルを置いてきた。」
「悪いけど取ってきてくれ。」
「分かりました!」
私は小走りで体育館へ戻る。
夕方の体育館は、さっきまでとは違って静かだった。
ガラッ。
扉を開ける。
誰もいないと思っていた。
その時だった。
バンッ。
乾いた音が響く。
思わず足を止める。
コートの奥。
一人だけ、残っていた。
蓮先輩だった。
(自主練……?)
邪魔しないように、私は壁際を歩く。
監督のファイルを探しながら、自然と蓮先輩へ目が向いた。
ボールを持つ。
助走へ入る。
一歩。
二歩。
三歩。
その瞬間。
蓮先輩の足が止まる。
踏み切らない。
そのままボールを抱え直す。
私は思わず首を傾げた。
もう一度。
助走。
一歩。
二歩。
三歩。
また止まる。
跳ばない。
ボールを見つめたまま、小さく息を吐く。
何度も。
何度も。
助走だけを繰り返していた。
(……なんで?)
怪我は治ったはず。
今日だって普通にスパイクを打っていた。
それなのに。
どうして一人になると、跳ばないんだろう。
私は息を潜めたまま、その場から動けなかった。
蓮先輩は目を閉じる。
深く息を吸う。
もう一度だけ助走へ入る。
一歩。
二歩。
三歩。
踏み切ろうとした、その瞬間。
「っ……。」
小さく声が漏れる。
踏み切れない。
その場で立ち止まり、ゆっくりと俯いた。
「……くそ。」
初めて聞く、蓮先輩の苦しそうな声だった。
私は何も言えなかった。
声も掛けられなかった。
ただ、その背中を見つめることしかできなかった。
「橘。」
突然後ろから声がした。
「ひゃっ!」
驚いて振り返る。
そこには水谷先輩が立っていた。
「……見たか。」
私は小さく頷く。
水谷先輩は体育館の中を見つめたまま、静かに口を開く。
「まだ、誰にも言うな。」
その一言だけだった。
私はもう一度蓮先輩を見る。
蓮先輩は何事もなかったようにボールを拾い、ゆっくりと体育館を後にした。
夕日に照らされたその背中が、少しだけ小さく見えた。




