ほんの一瞬、見せた表情
「いつまでそこにいる」
低い声が、静かな体育館へ響いた。
体が固まる。
隠れていたつもりはなかった。
けれど、声をかける勇気もなくて、結果的に覗き見していた形になってしまった。
「す、すみません」
扉を開け、恐る恐る中へ入る。
「音が聞こえて、それで……」
神谷先輩は何も言わず、抱えていたボールを床へ落とした。
一度だけ弾んだボールを受け止める。
「今の二本」
「はい?」
「同じに見えたか」
予想していなかった質問に、言葉が止まる。
さっきの二本を思い返す。
同じ助走。
同じフォーム。
落ちた場所も、ほとんど同じだった。
でも。
「二本目の方が、少しだけ奥だった気がします」
自信はなかった。
神谷先輩はサーブが落ちた場所へ目を向ける。
「ボール一個分」
「そんなに細かく狙ってるんですか?」
「狙わないで打つ意味がない」
当たり前のことを言うような声だった。
神谷先輩は近くにあったボールを取り、私へ軽く投げる。
慌てて両手で受け止めた。
「そこに立て」
「え?」
「コートの外。危なくない位置でいい」
言われた通り、エンドラインの横へ移動する。
神谷先輩は反対側のコートを指した。
「どこでもいい。場所を言え」
「私がですか?」
「早くしろ」
コートを見渡す。
どこが難しいのかも分からない。
少し迷ってから、右奥を指さした。
「あそこ」
神谷先輩は指した場所を一度だけ確認し、エンドラインの後ろへ下がった。
ボールを高く上げる。
助走。
跳躍。
振り抜かれた腕から、強烈な音が響く。
ボールは一直線に飛び、私が指した場所へ突き刺さった。
「……本当に入った」
思わず声が漏れる。
神谷先輩は着地すると、こちらを見た。
「偶然に見えたか」
「見えません」
すぐに答えると、神谷先輩は次のボールを手に取った。
「もう一回」
「まだやるんですか?」
「お前が場所を言ったんだろ」
「そうですけど……」
私はもう一度コートを見る。
右奥。
左奥。
さっきから、どこを指定してもほとんど外していない。
だったら。
少し考えて、ネットの手前を指さした。
「じゃあ、次はあそこ」
神谷先輩の視線が、私の指先を追う。
「手前?」
「はい。ネットを越えて、すぐ落ちるやつ」
言ってから、自分でも難しいことを頼んだ気がした。
「できますか?」
神谷先輩がこちらを見る。
「できないと思ってるだろ」
「少しだけ」
「見てろ」
神谷先輩はエンドラインの後ろへ下がった。
さっきまでと同じようにボールを上げる。
けれど、助走は少しだけ短い。
腕を振り抜いた瞬間、鋭い音が響いた。
ボールは強く飛び出したように見えた。
それなのに、ネットを越えた直後、急に勢いを失う。
前へ落ちる。
誰もいないコートの、ネット際。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
神谷先輩は落ちた場所を見たまま、短く息を吐く。
「少し浮いた」
「入ったのに?」
「試合なら拾われる」
その言葉に、私はもう一度ボールが落ちた場所を見る。
私には十分すごく見えた。
それでも、神谷先輩の中ではまだ足りないらしい。
午後の練習では、スパイカーたちに何度も細かい要求をしていた。
助走。
踏み込み。
打点。
コース。
その全てを、自分にも求めている。
だから、あれだけ迷いなく言えるのかもしれない。
『俺が合わせる』
あの言葉は、自信だけで出たものじゃない。
その言葉に責任を持つために、誰もいなくなった後まで練習している。
「神谷先輩」
「何だ」
「いつも、一人でやってるんですか?」
神谷先輩の手が止まる。
少しの沈黙。
「必要な時は」
「今日の練習だけじゃ、足りなかったんですか?」
神谷先輩はボールを見下ろした。
「足りたと思ったら、そこで終わりだ」
短い言葉だった。
けれど、その一言が胸に残る。
監督の言葉を受けて、誰よりも必死になっている。
蓮さんが戻ってくるのを待つんじゃない。
自分が流れを変えられる選手になるために。
神谷先輩は再びエンドラインの後ろへ下がった。
「次」
「まだ私が決めるんですか?」
「見てたんだろ」
「見てましたけど」
「なら最後まで見ろ」
神谷先輩がボールを構える。
私はコートへ視線を戻した。
午後よりも、少しだけ多くのものが見える気がした。
その後も、私はコートの端を何度も指さした。
奥。
手前。
ライン際。
神谷先輩はほとんど言葉を返さず、そのたびにボールを打った。
狙いから外れることもあった。
ネットにかかることもあった。
それでも神谷先輩は表情を変えず、すぐに次のボールを手に取る。
外した時ほど、同じ場所をもう一度指定する。
私が言わなくても、納得するまで止めなかった。
最後の一本が、ネット際へ鋭く落ちる。
ボールが床を叩いた音が、静かな体育館に長く残った。
神谷先輩は落ちた場所を見つめたあと、短く息を吐いた。
「今日は終わりだ」
エンドラインを越え、コートの中へ入っていく。
床には、打ち終えたボールがあちこちに転がっていた。
「片付けます」
私もコートへ入ろうとすると、神谷先輩がこちらを見る。
「もう戻れ」
「でも、ボールいっぱいありますよ」
「俺が出した」
「でも、見てたのは私です」
自分でもよく分からない理屈だった。
神谷先輩が少しだけ黙る。
「じゃあ、そっち」
「はい」
私はネット際のボールを拾い始めた。
体育館には、ボールがケースへ落ちる音だけが響く。
さっきまであれだけ激しい音がしていたのに、今は嘘のように静かだった。
ボールを一つ拾うたび、今日見たサーブを思い出す。
奥へ突き刺さった一本。
ネットの手前へ落ちた一本。
どちらも同じようなフォームに見えたのに、全く違う場所へ飛んでいった。
「神谷先輩」
「何だ」
「相手からしたら、どっちが来るか分からないですよね」
「分からせないために同じにしてる」
「フォームを?」
「ああ」
神谷先輩はボールを拾いながら、短く答える。
「強く打つだけなら、慣れれば拾われる」
「だから手前にも落とすんですか?」
「後ろに下がらせて、前を空ける。前を警戒させたら、奥が空く」
私は手にしていたボールを見る。
ただ速くてすごいサーブだと思っていた。
けれど、そこにも相手との駆け引きがある。
「サーブも、トスと同じなんですね」
神谷先輩の手が止まる。
「何が」
「相手を見て、どこが空くか考えてるところ」
少しだけ不安になりながら答える。
神谷先輩は何も言わず、残っていた最後のボールを拾った。
ケースの中へ入れる。
「少しは見えるようになったな」
その言葉と同時に、神谷先輩の口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
そう気づいた時には、もういつもの表情へ戻っていた。
神谷先輩はボールケースの持ち手を握る。
「行くぞ」
「……はい」
慌てて後を追う。
たった一言だった。
ほんの一瞬の笑みだった。
それなのに、胸の奥が熱かった。
午後に言われたことを、少しだけ返せた気がした。
用具庫へボールケースを戻し、体育館の照明を落とす。
明るかったコートが、一つずつ暗闇に沈んでいく。
最後の照明が消えると、辺りが一気に静かになった。
神谷先輩が扉に鍵をかける。
「明日も早い。もう寝ろ」
「神谷先輩もですよ」
思わず返すと、神谷先輩がこちらを見る。
言ってから、余計なことを言ったかもしれないと思った。
けれど、神谷先輩は何も言わずに歩き出す。
私も少し遅れて、その後を追った。
「……分かってる」
小さな声が、少しだけ先から聞こえた。




