自分が流れを変えるために
練習が終わった頃には、窓の外がすっかり茜色に染まっていた。
「今日はここまで」
監督の声が響いた瞬間、張り詰めていた空気が一気に緩む。
部員たちが床に手をついたり、その場に座り込んだりしながら、深く息を吐いている。
「きっつ……」
守屋先輩が仰向けに倒れ込む。
「寝るな。片付けるぞ」
水谷先輩が近くを通りながら、守屋先輩の足を軽く蹴った。
「一分だけ」
「駄目」
「厳し」
口では文句を言いながらも、守屋先輩はすぐに体を起こした。
私も転がっているボールを拾い、ケースへ戻していく。
いつもなら、それだけで精一杯だった。
けれど今日は、さっきまでの練習が頭に残っている。
助走の入り方。
トスの位置。
ブロックが動き出す瞬間。
ボールを拾いながら、無意識にコートの中へ目を向けていた。
神谷先輩は、まだスパイカーたちと話している。
それぞれの立ち位置を指しながら、短い言葉を交わしていた。
最後まで、妥協しない。
誰かに求めるだけじゃない。
その姿を見ていると、神谷先輩が言った言葉がまた頭に浮かぶ。
『決まったかどうかだけ見るな』
今までの私は、ボールが落ちたか、拾われたか。
それくらいしか見えていなかった。
けれど、その前にはいくつもの動きがあった。
一本が決まるまでに、全員の意図が繋がっている。
「橘」
守屋先輩に呼ばれ、慌てて顔を上げる。
「はい」
「それ、こっち持ってきて」
「あ、すみません」
ボールケースを押していくと、守屋先輩が笑った。
「今日ずっと考え込んでない?」
「そんなに顔に出てますか?」
「出てる出てる」
隣にいた水谷先輩も小さく頷く。
「でも、悪いことじゃない」
「考えながら見れば、そのうち分かる」
「……はい」
返事をすると、守屋先輩が満足そうに笑った。
「そのうち俺らより細かいこと言い出しそう」
「それはないです」
「分かんないよ?」
軽いやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
片付けが終わり、体育館を出る。
外の空気は昼間より冷たく、汗の残る肌に気持ちよかった。
夕食を終えて部屋へ戻ると、ドアを閉めた瞬間に静けさが押し寄せてきた。
さっきまで聞こえていた話し声も、食器の音もない。
あるのは、自分の呼吸だけ。
ベッドへ腰を下ろす。
全身が重い。
そのまま後ろへ倒れ込むと、柔らかい布団に体が沈んだ。
「……疲れた」
声に出すと、今日一日の重さが一気に押し寄せてくる。
長野県ベスト4との試合。
監督の言葉。
午後の練習。
神谷先輩に突然意見を求められたこと。
思い返すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
間違っていたらどうしようと思った。
何も見えていないと思われたくなかった。
それでも、水谷先輩は「合ってる」と言ってくれた。
神谷先輩も、答えを急かさずに待っていた。
(見えたものだけ言え)
あの時の声が、まだ耳に残っている。
怖いと思っていた。
厳しくて、近寄りがたい人。
でも今日、少しだけ違うと思った。
できないことを責めているんじゃない。
できるところまで、引き上げようとしている。
そのためなら、自分が合わせると言い切れる人だった。
「……俺が合わせる、か」
小さく呟く。
あの迷いのない声を思い出す。
どこから、あんな自信が出てくるんだろう。
しばらく天井を見つめたあと、ゆっくりと体を起こした。
汗を流せば、少しは頭もすっきりするかもしれない。
着替えを持って、部屋を出る。
風呂から上がると、火照った体に廊下の空気が心地よかった。
濡れた髪をタオルで拭きながら、自動販売機へ向かう。
水でも買って、部屋へ戻ろう。
そう思っていた時だった。
バンッ。
遠くから、乾いた音が響いた。
足が止まる。
少し間を置いて、もう一度。
バンッ。
聞き間違いじゃない。
ボールを打つ音。
こんな時間に、と思いながら音のする方へ歩いていく。
辿り着いたのは、体育館だった。
扉は少しだけ開いている。
中の照明は半分しか点いていなかった。
その隙間から、そっと覗く。
コートの奥に、一人だけ立っている。
神谷先輩だった。
ボールを手に取り、エンドラインの後ろへ下がる。
昼間とは違う静かな体育館。
誰の声もない。
神谷先輩の足音と、ボールをつく音だけが響いている。
一度、大きく息を吐く。
ボールを高く上げる。
助走。
跳ぶ。
腕が振り抜かれた。
空気を裂くような音が響く。
次の瞬間、ボールが相手コートへ突き刺さった。
床を叩く音が、遅れて体育館全体へ広がる。
思わず息を止める。
昼間の試合でも、神谷先輩のサーブは見ていた。
昨日の夜も、ここで一人打っている姿を見た。
それでも、今の一本は違った。
速いだけじゃない。
重いだけでもない。
迷いがなかった。
狙った場所へ、寸分違わず突き刺しているように見えた。
神谷先輩は落ちたボールを拾い、もう一度同じ位置へ戻る。
同じ呼吸。
同じ助走。
同じフォーム。
もう一度、腕が振り抜かれる。
バンッ。
ボールはさっきとほとんど同じ場所へ落ちた。
(……すごい)
言葉にするなら、それしかなかった。
けれど、それだけでは足りない気がした。
午後、スパイカーたちへ何度も要求していた姿。
もっとできる。
そこまで届くはずだと、当たり前のように信じていた。
その厳しさを、神谷先輩は自分にも向けている。
誰よりも高い基準を、誰よりも自分自身へ課している。
監督の言葉が頭をよぎる。
『自分が流れを変える』
神谷先輩は、誰かが変えてくれるのを待っていない。
自分が変えるために、まだ練習している。
またボールが上がる。
その瞬間、神谷先輩の視線がこちらへ向いた。
体が固まる。
最初から気づかれていたのかもしれない。
ボールを抱えたまま、神谷先輩がこちらを見る。
「いつまでそこにいる」
低い声が、静かな体育館へ響いた。




