ほんの少し、みんなの好きに届く日
特訓を始めてから、何日かが経った。
体育館には、今まで以上に厳しい声が飛び交うようになっていた。
守屋先輩たちは神谷先輩の下で守備位置を何度も修正し。
岡田先輩たちは蓮さんの下で助走と踏み込みを繰り返し。
一年生たちは水谷先輩と監督に走らされ続けていた。
私のノートも、すでに何十ページと埋まっている。
『杉山先輩、右手の位置。』
『小林先輩、着地後の一歩目。』
『守屋先輩、ブロックとの距離。』
『藤枝、二本目へ入る前の視線。』
毎日。
同じ練習を何度も繰り返す。
一つ直れば、また新しい課題が見つかる。
春高へ向けて。
全員が少しずつ変わろうとしていた。
でも。
その分、疲労も溜まっていた。
練習前。
守屋先輩はコートの中央で仰向けになっていた。
「……動けない。」
岡田先輩が呆れたように見下ろす。
「まだ練習始まってないぞ。」
「昨日のレシーブが残ってる。」
「何本やったんだよ。」
「覚えてない。」
神谷先輩が横を通り過ぎる。
「百八十七本。」
守屋先輩が勢いよく顔を上げた。
「数えてたんすか!?」
「結衣が。」
神谷先輩が私を見る。
私はノートを確認した。
「正確には百八十九本です。」
「二本増えた!」
体育館に笑いが起きる。
「結衣まで敵だったの?」
「記録係です。」
「味方してよ。」
「記録を誤魔化すのは無理です。」
「真面目だなぁ……。」
守屋先輩は再び床へ倒れた。
その時。
ピーッ。
監督の笛が鳴る。
「集合。」
部員たちがコートの中央へ集まる。
守屋先輩もゆっくりと起き上がった。
監督は全員の顔を見渡す。
「特訓を始めてから。」
「それなりに形になってきた。」
「だが。」
「全員、疲れが溜まってる。」
誰も否定しなかった。
監督は手に持っていた練習メニューを閉じる。
「今日は午前だけ軽く調整する。」
全員が顔を上げる。
「午後は。」
少し間を置く。
「ボールで遊べ。」
「……え?」
体育館が静まり返った。
最初に反応したのは守屋先輩だった。
「遊んでいいんすか!?」
さっきまで動けないと言っていた人とは思えない速さで立ち上がる。
「たまにはな。」
「やったぁぁぁ!!」
守屋先輩が両手を上げる。
一年生たちからも歓声が上がった。
水谷先輩が笑う。
「足、限界じゃなかったの?」
「遊びなら別です。」
「都合のいい足だな。」
監督は呆れたようにため息をつく。
「ただし。」
「怪我だけはするな。」
「本気になるな。」
その言葉に、蓮さんが首を傾げる。
「本気にならずにバレーってできるんですか。」
「そこからか。」
監督が頭を抱える。
水谷先輩が笑った。
「うちの部には一番難しい指示ですね。」
「だから言ってる。」
午前中はサーブとレシーブを軽く確認し。
いつもより早く練習が終わった。
昼休憩を挟んだ午後。
体育館には、いつもの張り詰めた空気がなかった。
学年も。
ポジションも。
レギュラーも。
ベンチも関係なく。
全員が混ざってチームを作ることになった。
「四人制。」
水谷先輩がホワイトボードへルールを書く。
「十五点先取。」
「サーブは下から。」
「ジャンプスパイクは禁止。」
「ブロックもなし。」
守屋先輩が手を挙げる。
「ジャンプなしって。」
「蓮さん弱体化ルールですか。」
「誰が弱体化だ。」
蓮さんが守屋先輩の頭を軽く叩く。
「痛っ。」
「じゃあ守屋はレシーブ禁止。」
「俺の存在価値なくなるじゃないですか!」
体育館に笑いが広がる。
私はコートの外でボールを集めながら、その様子を見ていた。
藤枝が岡田先輩へ低いトスを上げ。
岡田先輩がジャンプせずにボールを返す。
杉山先輩が片手で拾い。
小林先輩がふざけて背中で返そうとして失敗する。
いつもの練習では見られない笑顔が、体育館中に広がっていた。
「結衣。」
突然名前を呼ばれる。
顔を上げると、守屋先輩がコートの中から手招きをしていた。
「はい?」
「入って。」
「何にですか。」
「試合。」
「無理です。」
即答した。
守屋先輩が目を丸くする。
「断るの早くない?」
「ボール触れません。」
「毎日触ってるじゃん。」
「渡してるだけです。」
「同じ同じ。」
「全然違います。」
守屋先輩はコートを出ると、私のところまで歩いてきた。
「大丈夫。」
「遊びだから。」
「遊びでも無理です。」
「新キャプテン命令。」
「そういう時だけキャプテンを使わないでください。」
周りから笑いが起きる。
蓮さんがボールを脇へ抱える。
「やってみればいいじゃん。」
「蓮さんまで。」
水谷先輩も笑っていた。
「結衣なら意外とできそう。」
「できません。」
「毎日俺たちの動き見てるだろ。」
「見るのとやるのは違います。」
「やってみなきゃ分からないよ。」
逃げ道を探すように周りを見る。
最後に。
神谷先輩と目が合った。
助けてくれるかもしれない。
少しだけ期待した。
「結衣。」
「はい。」
「入れ。」
期待した私が間違っていた。
「神谷先輩まで……。」
「毎日記録してるんだろ。」
「はい。」
「自分でやれば。」
「コートの見え方も変わる。」
そう言われると、何も返せなかった。
守屋先輩が嬉しそうに私の背中を押す。
「決まり。」
「待ってください。」
「ローテーションは分かりますよね?」
「それくらいは分かります。」
「じゃあ完璧。」
「ボールは触れません。」
「そこは気持ち。」
「気持ちでどうにかなるんですか。」
「俺はいつもどうにかしてる。」
「説得力ないです。」
笑い声に包まれながら。
私は初めて、みんなと同じコートの中へ足を踏み入れた。
靴底が床へ触れる。
いつも外から見ていたコート。
ラインの中へ入っただけなのに。
景色が全く違って見えた。
ネットは思っていたより高く。
反対側のコートは思っていたより遠い。
「結衣、こっち。」
神谷先輩が自分の隣を指す。
同じチームは。
神谷先輩。
守屋先輩。
杉山先輩。
そして私。
反対側には。
水谷先輩。
蓮さん。
岡田先輩。
小林先輩。
どう考えても怖い。
「守屋先輩。」
「はい?」
「相手が強過ぎませんか。」
「大丈夫。」
守屋先輩が胸を張る。
「こっちには日本代表候補が二人いる。」
「俺と神谷さん。」
「自分で言うな。」
神谷先輩が冷静に返す。
「それに。」
守屋先輩は私を見る。
「秘密兵器、結衣。」
「一番狙われる人の間違いです。」
「ばれた?」
「帰っていいですか。」
「駄目。」
水谷先輩がボールを持つ。
「始めるよ。」
私は慌てて腰を落とした。
「結衣。」
神谷先輩が横から言う。
「はい。」
「手。」
「え?」
「構えろ。」
慌てて両腕を前へ出す。
「足を止めるな。」
「はい。」
「怖かったら。」
「最初から守屋に任せろ。」
守屋先輩が笑う。
「全部任せて。」
少しだけ緊張が解けた。
水谷先輩のサーブ。
下から打たれたボールが、ゆっくりとネットを越える。
私の方へ飛んできた。
「えっ。」
頭が真っ白になる。
逃げるべきか。
触るべきか。
迷っているうちに。
守屋先輩が横から滑り込んだ。
「はい、一本目!」
ボールがきれいに上がる。
神谷先輩がボールの下へ入る。
「杉山。」
短いトス。
杉山先輩が軽く押し込む。
ボールが岡田先輩の前へ落ちた。
「一点!」
守屋先輩が私とハイタッチをする。
「何もしてません。」
「立ってた。」
「それは誰でもできます。」
「最初はそれでいい。」
二本目。
今度は蓮さんがサーブを打つ。
下からなのに速い。
「蓮さん!」
守屋先輩が叫ぶ。
「手加減してください!」
「してる。」
「嘘だ!」
ボールは杉山先輩が拾った。
神谷先輩がトスを上げる。
守屋先輩が返す。
ラリーが続く。
私はボールを目で追うだけで精一杯だった。
右。
左。
前。
後ろ。
外から見ている時より、何倍も速い。
「結衣、前!」
神谷先輩の声。
目の前へボールが落ちてくる。
慌てて両腕を出す。
ボールが手首へ当たった。
「痛っ。」
思っていた方向とは全く違う場所へ飛んでいく。
それでも。
守屋先輩が追いかけた。
片手で上げる。
神谷先輩が走る。
ネット際から、反対側へ返した。
「つながった!」
私は思わず声を上げた。
「ナイス、結衣!」
守屋先輩が叫ぶ。
「今のナイスなんですか!?」
「上がれば全部ナイス!」
そのラリーは最後に水谷先輩が決めた。
それでも。
初めて自分が触ったボールが、すぐには床へ落ちなかった。
そのことが少しだけ嬉しかった。
試合が進む。
三対三。
五対五。
八対八。
私は何度もボールを変な方向へ飛ばした。
一度は杉山先輩の背中へ当て。
一度は神谷先輩の頭上を大きく越え。
一度は守屋先輩の顔へ飛ばした。
「結衣。」
守屋先輩が鼻を押さえる。
「すみません!」
「俺、味方だよ。」
「分かってます!」
「本当に?」
「わざとじゃありません!」
みんなが笑う。
恥ずかしかった。
でも。
不思議と、もうコートから出たいとは思わなかった。
十一対十一。
相手のボールが返ってくる。
守屋先輩が拾う。
神谷先輩がトスの位置へ入った。
私はいつもの癖で、コート全体を見る。
蓮さんは後ろ。
水谷先輩は左。
岡田先輩は前へ寄っている。
右側。
小林先輩の後ろが空いていた。
「あそこ……。」
小さく呟く。
その瞬間。
神谷先輩と目が合った。
嫌な予感がした。
「結衣。」
「え?」
ボールが上がる。
高くもなく。
速くもなく。
私の目の前へ。
優しく落ちてくるトス。
「無理です!」
「押せ。」
神谷先輩の声。
私は両手を上げる。
跳ぶことなんてできない。
落ちてきたボールを。
ただ、両手で前へ押した。
ボールがネットを越える。
ゆっくりと。
反対側へ落ちていく。
水谷先輩が一歩動く。
蓮さんも手を伸ばす。
でも。
誰もいない場所へ。
ぽとん。
ボールが落ちた。
一瞬。
体育館が静まり返る。
「……入った?」
次の瞬間。
「結衣ぃぃぃ!!」
守屋先輩が飛び跳ねた。
「ナイス!」
杉山先輩も笑っている。
コートの外にいた一年生たちまで拍手をしていた。
「今の見た!?」
守屋先輩が私の肩を揺らす。
「見てました!」
「めっちゃいいところ落とした!」
「たまたまです!」
「たまたまでも一点!」
私は反対側を見る。
水谷先輩が笑っていた。
「完全に空いてた。」
岡田先輩も頷く。
「見えてたんだ。」
蓮さんが悔しそうにボールを拾う。
「油断した。」
小林先輩は膝へ手をついた。
「俺の後ろだった……。」
神谷先輩だけはいつもと変わらない表情だった。
「結衣。」
「はい。」
「今の。」
「どうしてそこに落とした。」
「小林先輩が前へ寄っていて。」
「後ろが空いていたので。」
「そう。」
神谷先輩は少しだけ口元を緩めた。
「ちゃんと見えてる。」
胸の奥が熱くなる。
守屋先輩が私の背中を叩いた。
「秘密兵器じゃん。」
「もう一回やれって言われても無理です。」
「じゃあ全部結衣に上げよう。」
「やめてください!」
「神谷さん。」
「次も結衣で。」
「分かった。」
「分からないでください!」
体育館に笑いが響く。
そこから。
なぜか全員の目つきが変わった。
十三対十三。
水谷先輩の返球が鋭くなる。
蓮さんの下からサーブがさらに速くなる。
神谷先輩も左右へ細かくボールを振り始める。
守屋先輩は床へ飛び込む。
「監督!」
私は思わず叫ぶ。
「みんな本気になってます!」
コートの外で見ていた監督がため息をつく。
「本気になるなって言ったよな。」
「これは遊びです!」
守屋先輩が答える。
「どこがだ。」
十四対十四。
最後の一点。
蓮さんのサーブを守屋先輩が拾う。
神谷先輩が走る。
私は反射的に前へ出た。
でも。
今度のトスは杉山先輩へ上がる。
杉山先輩がボールを押し込む。
水谷先輩が拾う。
岡田先輩が上げる。
蓮さんが返す。
ボールが私の前へ落ちてくる。
逃げない。
両腕を組む。
ボールが当たる。
さっきよりも高く。
コートの中央へ上がった。
「ナイス!」
守屋先輩の声。
神谷先輩がボールの下へ入る。
今度は守屋先輩へ上げた。
守屋先輩がネット際へ押す。
小林先輩が拾えない。
ボールが床へ落ちた。
「十五対十四!」
「勝ったぁぁぁ!!」
守屋先輩が両手を上げる。
杉山先輩も笑いながら手を叩く。
私は何が起きたのか分からないまま立っていた。
「結衣。」
守屋先輩が手を差し出す。
「勝利のハイタッチ。」
私は笑いながら、その手を叩いた。
「痛っ!」
「強過ぎです!」
「ごめん。」
反対側では、蓮さんが悔しそうにボールを見ていた。
「もう一回。」
「本気になるな。」
監督がすぐに止める。
「次は勝ちます。」
岡田先輩まで真剣な顔をしている。
「だから遊びだ。」
水谷先輩は笑いながら汗を拭いた。
「でも。」
「たまにはこういうのもいいですね。」
監督は体育館を見渡す。
みんな汗だくで。
笑っていて。
いつもの練習以上に楽しそうだった。
「……あと一試合だけだ。」
「よっしゃぁぁぁ!」
歓声が上がる。
私は驚いて監督を見る。
「私もですか?」
「ここまで来たら最後までやれ。」
「えぇ……。」
「結衣。」
神谷先輩が呼ぶ。
「はい。」
「次。」
「一本目から狙われるぞ。」
反対側を見る。
蓮さんが笑いながらボールを持っていた。
「さっきの仕返し。」
「帰っていいですか。」
「駄目。」
神谷先輩も少しだけ笑っていた。
私はもう一度コートへ入る。
いつもコートの外から見ていた景色は。
思っていたより広くて。
思っていたより速くて。
思っていたより怖かった。
でも。
それ以上に。
楽しかった。
ボールが上がる。
みんなの声が重なる。
笑い声が体育館いっぱいに響く。
厳しい特訓の中で。
この日だけは。
勝つためでも。
強くなるためでもなく。
ただ。
みんなでバレーボールを楽しんだ。
そして私は。
この人たちが、どうしてこんなにもバレーを好きなのか。
ほんの少しだけ。
分かった気がした。




