大仏
慈雲寺の本堂は、半分以上が焼け落ちていた。
大屋根には大きな穴が開き、そこから赤黒い空が見えている。床には焼けた梁や割れた瓦が重なり、かつて避難民が身を寄せていた場所を覆っていた。
本堂の奥には、青海で最も大きな仏像があった。
十数メートルの高さを持つ木造の大仏だった。
炎によって金色の表面は黒くすすけ、顔の半分が焼けていた。それでも伏せられた目は、目の前の惨状を静かに見つめているようだった。
砲撃で壊れた屋根の梁が、大仏の右腕へ落ちていた。
肩から外れた巨大な腕は床へ崩れ、手のひらだけが上を向いていた。
明遠は本堂の中を見回した。
「明浩!」
返事はない。
「母さん、どこだ!」
瓦礫の向こうに人影が見えた。
明遠は駆け寄ろうとした。
その前に慎太郎が立ちふさがった。
「退け!」
明遠が叫んだ。
慎太郎には意味が分からなかった。
ただ、相手が自分を憎んでいることだけは伝わった。
明遠は剣を振るった。
慎太郎は銃剣で受け止める。
二人は瓦礫の上でもつれ合った。
明遠の剣が慎太郎の頬をかすめた。細い傷から血が流れた。
慎太郎は明遠の腹を蹴った。
明遠は倒れたが、すぐに立ち上がった。
「退け! 家族がいるんだ!」
明遠はもう一度叫んだ。
慎太郎には「家族」という言葉さえ分からなかった。
それでも、明遠が何かを探していることは分かった。
戦うために寺へ来たのではない。
誰かを助けに来たのだ。
慎太郎の手が止まった。
明遠はその隙を逃さなかった。
剣を振り下ろす。
慎太郎は後ろへ下がった。
刃が左肩へ食い込み、軍服が赤く染まった。
痛みと恐怖が、慎太郎の迷いを消した。
死にたくない。
帰りたい。
母と小春のもとへ帰りたい。
その思いだけで、慎太郎は明遠へ飛びかかった。
銃剣と剣がぶつかった。
明遠の剣が弾き飛ばされ、瓦礫の向こうへ落ちた。
武器を失った明遠は慎太郎の腕をつかんだ。
二人は床に倒れ、互いの喉へ手を伸ばした。
明遠の指が慎太郎の首を締めつける。
息ができない。
慎太郎は必死に銃剣を持ち上げた。
一瞬、二人の目が合った。
明遠の目には怒りがあった。
悲しみがあった。
そして、慎太郎と同じ恐怖があった。
慎太郎は銃剣を突き出した。
刃が明遠の身体へ入った。
明遠の目が大きく開いた。
首を締めていた手から力が抜けた。
慎太郎は明遠を押しのけ、立ち上がった。
明遠も立とうとした。
だが、足に力が入らなかった。
腹部を押さえた手の間から、血が流れ出している。
「明浩……」
明遠は瓦礫へ手をつき、一歩進んだ。
「母さん……」
もう一歩。
慎太郎は銃剣を握ったまま見ていた。
明遠は、大仏の足元までたどり着いた。
そこで膝から崩れた。
身体が、床に落ちていた大仏の巨大な右手へ倒れ込んだ。
手のひらは人間が横たわれるほど大きかった。
明遠の身体を、壊れた大仏が受け止めた。
まるで、傷ついた子供を抱き上げるように。
慎太郎は近づいた。
明遠はまだ息をしていた。
その右手は、何かを強く握っている。
慎太郎がそばへ膝をつくと、明遠はゆっくりと手を開いた。
血にぬれた小さな活字があった。
印刷工房の主人が最期に拾った「帰」の文字だった。
明遠はそれを慎太郎へ差し出そうとした。
しかし、腕が上がらない。
活字が指の間から落ち、大仏の手のひらを転がった。
「帰る……」
明遠が呟いた。
慎太郎には意味が分からなかった。
「帰らないと……」
明遠の視界から、燃える本堂が消えていく。
代わりに、戦争が始まる前の青海が見えた。
印刷機の音。
港から吹く風。
母が作った温かい粥。
弁当を持って工房へ来た明浩。
夜の海を見ながら、二人で小指を絡ませた。
――必ず帰ってくる。
明遠の口元が、かすかに動いた。
「ごめんな、明浩」
その言葉を最後に、明遠は息を引き取った。
開いたままだった目から、一筋の涙が流れた。
大仏の巨大な手のひらで、明遠の身体から少しずつ力が抜けていった。
慎太郎は銃剣を落とした。
床に当たった金属音が、本堂に響いた。




