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やさしい子  作者: こめい
24/26

大仏

慈雲寺の本堂は、半分以上が焼け落ちていた。


大屋根には大きな穴が開き、そこから赤黒い空が見えている。床には焼けた梁や割れた瓦が重なり、かつて避難民が身を寄せていた場所を覆っていた。


本堂の奥には、青海で最も大きな仏像があった。


十数メートルの高さを持つ木造の大仏だった。


炎によって金色の表面は黒くすすけ、顔の半分が焼けていた。それでも伏せられた目は、目の前の惨状を静かに見つめているようだった。


砲撃で壊れた屋根の梁が、大仏の右腕へ落ちていた。


肩から外れた巨大な腕は床へ崩れ、手のひらだけが上を向いていた。


明遠は本堂の中を見回した。


「明浩!」


返事はない。


「母さん、どこだ!」


瓦礫の向こうに人影が見えた。


明遠は駆け寄ろうとした。


その前に慎太郎が立ちふさがった。


「退け!」


明遠が叫んだ。


慎太郎には意味が分からなかった。


ただ、相手が自分を憎んでいることだけは伝わった。


明遠は剣を振るった。


慎太郎は銃剣で受け止める。


二人は瓦礫の上でもつれ合った。


明遠の剣が慎太郎の頬をかすめた。細い傷から血が流れた。


慎太郎は明遠の腹を蹴った。


明遠は倒れたが、すぐに立ち上がった。


「退け! 家族がいるんだ!」


明遠はもう一度叫んだ。


慎太郎には「家族」という言葉さえ分からなかった。


それでも、明遠が何かを探していることは分かった。


戦うために寺へ来たのではない。


誰かを助けに来たのだ。


慎太郎の手が止まった。


明遠はその隙を逃さなかった。


剣を振り下ろす。


慎太郎は後ろへ下がった。


刃が左肩へ食い込み、軍服が赤く染まった。


痛みと恐怖が、慎太郎の迷いを消した。


死にたくない。


帰りたい。


母と小春のもとへ帰りたい。


その思いだけで、慎太郎は明遠へ飛びかかった。


銃剣と剣がぶつかった。


明遠の剣が弾き飛ばされ、瓦礫の向こうへ落ちた。


武器を失った明遠は慎太郎の腕をつかんだ。


二人は床に倒れ、互いの喉へ手を伸ばした。


明遠の指が慎太郎の首を締めつける。


息ができない。


慎太郎は必死に銃剣を持ち上げた。


一瞬、二人の目が合った。


明遠の目には怒りがあった。


悲しみがあった。


そして、慎太郎と同じ恐怖があった。


慎太郎は銃剣を突き出した。


刃が明遠の身体へ入った。


明遠の目が大きく開いた。


首を締めていた手から力が抜けた。


慎太郎は明遠を押しのけ、立ち上がった。


明遠も立とうとした。


だが、足に力が入らなかった。


腹部を押さえた手の間から、血が流れ出している。


「明浩……」


明遠は瓦礫へ手をつき、一歩進んだ。


「母さん……」


もう一歩。


慎太郎は銃剣を握ったまま見ていた。


明遠は、大仏の足元までたどり着いた。


そこで膝から崩れた。


身体が、床に落ちていた大仏の巨大な右手へ倒れ込んだ。


手のひらは人間が横たわれるほど大きかった。


明遠の身体を、壊れた大仏が受け止めた。


まるで、傷ついた子供を抱き上げるように。


慎太郎は近づいた。


明遠はまだ息をしていた。


その右手は、何かを強く握っている。


慎太郎がそばへ膝をつくと、明遠はゆっくりと手を開いた。


血にぬれた小さな活字があった。


印刷工房の主人が最期に拾った「帰」の文字だった。


明遠はそれを慎太郎へ差し出そうとした。


しかし、腕が上がらない。


活字が指の間から落ち、大仏の手のひらを転がった。


「帰る……」


明遠が呟いた。


慎太郎には意味が分からなかった。


「帰らないと……」


明遠の視界から、燃える本堂が消えていく。


代わりに、戦争が始まる前の青海が見えた。


印刷機の音。


港から吹く風。


母が作った温かい粥。


弁当を持って工房へ来た明浩。


夜の海を見ながら、二人で小指を絡ませた。


――必ず帰ってくる。


明遠の口元が、かすかに動いた。


「ごめんな、明浩」


その言葉を最後に、明遠は息を引き取った。


開いたままだった目から、一筋の涙が流れた。


大仏の巨大な手のひらで、明遠の身体から少しずつ力が抜けていった。


慎太郎は銃剣を落とした。


床に当たった金属音が、本堂に響いた。

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