弟との約束
同じころ、海の西側にある華嶺国の港町・青海では、印刷機の音が鳴り続けていた。
李明遠は機械から吐き出される紙を受け取り、まだ湿っている黒い文字を見つめた。
そこには、大きくこう印刷されていた。
――日東軍、黎国王都を占領。
その下には、政府からの布告が続いている。
日東国は国境を侵し、黎国の民を苦しめ、やがて華嶺国の領土を奪おうとしている。国民は一致団結し、皇帝と祖国を守らなければならない。
「もっと墨を濃くしろ!」
工房の主人が怒鳴った。
「文字が薄いぞ。これでは民衆に危機が伝わらん!」
「はい」
明遠は印刷機を止め、墨を足した。
工房の外では、新聞売りの少年たちが刷り上がった紙を抱えて待っている。新聞は刷られたそばから街へ運ばれ、人々の手に渡った。
市場でも、茶館でも、船着き場でも、誰もが戦争について話していた。
日東人は背が低いが、恐ろしく俊敏だという。
捕まった兵士は生きたまま皮を剥がれるという。
日東軍の軍艦は夜でも敵を見ることができ、鉄砲は一里先の人間を撃ち抜くという。
どれが事実で、どれが作り話なのか、明遠には分からなかった。
彼が知っている日東国は、本の中にしかなかった。海に囲まれた小さな国。かつては華嶺国の文字や学問を学び、近年は西洋の技術を急速に取り入れた国。
まさか、その国と自分たちが本当に戦うとは思っていなかった。
「兄さん」
聞き慣れた声がして、明遠は振り返った。
十二歳の弟、明浩が工房の入口に立っていた。手には布で包んだ弁当を持っている。
「母さんが持っていけって」
「一人で来たのか?」
「もう子供じゃないよ」
「子供はみんなそう言う」
明遠は弟の額を指で軽く押した。
明浩は頬を膨らませ、それから印刷された新聞をのぞき込んだ。
「戦争、負けているの?」
「新聞にはそう書いてあるな」
「日東人が、この町にも来る?」
「ここまでは来ない」
明遠はすぐに答えた。
青海は海軍の拠点だった。湾内には華嶺国が誇る巨大な軍艦が並び、沿岸には砲台が築かれている。都の新聞は、華嶺海軍こそ東方最強であり、日東軍など一度の海戦で全滅すると報じていた。
「もし来ても、軍が追い返してくれる」
「兄さんは戦わないの?」
明遠の手が止まった。
弟の問いかけに、工房の主人がこちらを見た。
壁には、新しい徴兵の布告が貼られていた。健康な若者は国難に際して進んで軍へ加わるべきだと書かれている。
明遠は徴兵される年齢だった。
「俺は印刷工だ。兵隊じゃない」
明るく答えたつもりだった。
だが、主人は何も言わず、再び視線を印刷機へ戻した。
その日の夕方、軍の役人が工房を訪れた。
明遠は新聞を積み上げている途中で名前を呼ばれた。
「李明遠。二十一歳だな」
「はい」
「青海守備軍への入隊を命ずる。三日後の朝、南営舎へ出頭せよ」
差し出された書状には、役所の赤い印が押されていた。
明遠は受け取った。
紙は薄かった。
しかし、それを破り捨てることも、受け取りを拒むこともできなかった。
母は、明遠の軍服を一晩中縫い直した。
支給された軍服は大きすぎた。袖は手を覆い、ズボンの裾は地面を引きずった。倉庫に何年も積まれていたのか、布にはかびと油の混ざった臭いが染みついていた。
「こんな服で戦わせるなんて」
母は針を動かしながら呟いた。
「服が少しくらい大きくても、弾は撃てるさ」
「縁起でもないことを言わないで」
「大丈夫だよ。青海には軍艦も大砲もある。日東軍はここまで来られない」
母を安心させるための言葉だった。
だが、何度も繰り返しているうちに、明遠自身もそれを信じ始めた。
夜が更けると、母は針を持ったまま眠ってしまった。
明遠は母の肩に布を掛け、外へ出た。
港から吹く風には、潮と石炭の臭いが混じっていた。遠くの造船所では夜になっても槌の音が響き、湾内に停泊した軍艦の明かりが黒い海に揺れている。
「兄さん」
明浩が追いかけてきた。
「眠れないのか?」
「兄さんが行くから」
明遠は弟の隣に腰を下ろした。
明浩は膝を抱え、しばらく黙って海を見ていた。
「父さんも、帰ってくるって言った」
明遠は答えられなかった。
二人の父は五年前、洪水で壊れた堤防の修理へ行き、事故で亡くなっていた。朝、いつものように家を出て、その夜には冷たい遺体となって戻ってきた。
明浩は顔を伏せた。
「帰るって言った人が、本当に帰ってくるとは限らない」
「俺は父さんとは違う」
「何が違うの?」
「俺は泳げる」
明遠が言うと、明浩は少しだけ笑った。
「戦争なのに?」
「ああ。海に落ちても泳いで帰ってくる」
「海の向こうから?」
「どれだけ遠くてもだ」
明遠は弟の肩に腕を回した。
細い肩だった。まだ自分が守らなければならない肩だった。
「約束する。必ず帰ってくる」
「本当に?」
「本当だ」
明浩は小指を差し出した。
明遠も小指を絡ませた。
二人の背後で、軍艦の汽笛が低く鳴った。その音は巨大な獣のうなり声のように、夜の港を震わせた。




