赤い召集令状
慎太郎が畑の中で一羽の雀を拾ったのは、赤紙が届く三日前のことだった。
雀は片方の翼を不自然に曲げ、乾いた土の上で小さく震えていた。周囲には抜け落ちた羽が散らばっている。おそらく、上空から襲いかかった鷹に捕まれ、どうにか逃げ延びたのだろう。
「そんなものを拾って、どうするんだ」
畑のあぜ道に立った幼なじみの源次が、鍬を肩に担いだまま言った。
「どうもしない。飛べるようになるまで置いておく」
「そのまま死んじまうんじゃねえのか?」
「こいつはまだ生きてる」
慎太郎は雀を手拭いで包み、両手でそっと持ち上げた。手の中から、かすかな鼓動が伝わってきた。人間の指で少し力を加えただけでも止まってしまいそうな、弱い鼓動だった。
「お前は昔から変わらんな」
源次は呆れたように笑った。
慎太郎は返事をせず、遠くの山を見た。
夏の終わりを迎えた空は高く、雲の形まで穏やかだった。しかし村には、何週間も前から戦争の噂が流れていた。海の向こうにある華嶺国が、黎国へ大軍を送り込んだ。日東国も兵を出した。港には軍艦が集まり、都では連日、号外が配られているという。
それでも、この村の景色は何も変わらなかった。
蝉が鳴き、稲穂が風に揺れ、女たちは井戸端で笑っている。慎太郎には、海の向こうの争いが自分の暮らしにつながっているとは思えなかった。
三日後、軍服姿の役人が家を訪れるまでは。
「新田慎太郎殿でありますな」
玄関先に立った役人は、慎太郎の顔を確かめると、赤い紙を差し出した。
それが何であるかは、説明されるまでもなかった。
慎太郎は土のついた手で受け取ることをためらい、服の裾で何度も手を拭いた。それから両手を差し出した。
紙は驚くほど軽かった。
だが、それを持った瞬間、腕が下へ引かれるように感じた。
奥の部屋から、激しい咳が聞こえた。
母の千代だった。
千代は数年前から肺を患い、布団で過ごす日が多くなっていた。父が死んでからは慎太郎が畑を耕し、母と十二歳の妹・小春を養っていた。
慎太郎がいなくなれば、畑を守る者はいなくなる。
役人が帰ったあとも、三人はしばらく何も話さなかった。開け放たれた戸から風が入り、机の上の赤い紙をかすかに揺らした。
「兄ちゃん、戦争に行くの?」
最初に口を開いたのは小春だった。
慎太郎は答えられなかった。
母が布団の上で身体を起こした。
「行かなくてはならないんでしょう」
「でも、母ちゃんの身体が」
「村の人に頼みます。畑も、収穫が終わるまでは源次さんの家に手伝ってもらえるでしょう」
「そんな簡単なことじゃないだろ」
思わず声が強くなった。小春が肩を震わせるのを見て、慎太郎はすぐにうつむいた。
千代は何も責めなかった。
「慎太郎」
母の細い手が、慎太郎の手に重なった。
幼いころには大きく感じた手だった。熱を出した夜には額に触れ、転んで泣いたときには泥を払ってくれた。その手は今では骨ばり、慎太郎の手の中に隠れてしまうほど小さくなっていた。
「戦争に行くのが怖いの?」
慎太郎はしばらく黙っていた。
「……自分が死ぬのが怖い」
「そうね」
「あなたは人を殺せるような子じゃない。だから、大丈夫。神様はきっとあなたを守ってくださる」
千代は弱々しく笑った。
「慎太郎は、やさしい子だからね」
それは幼いころから、何度も聞かされてきた言葉だった。
泣いている小春に饅頭を譲ったときも、怪我をした野良犬を家へ連れて帰ったときも、父に叱られて黙り込んだ夜も、母は同じ言葉を口にした。
慎太郎は母の手を握り返した。
そのとき彼は、その言葉が誇らしいものなのか、戦場では邪魔になるものなのか、まだ知らなかった。
出征の日、駅には村中の人が集まった。
日の丸の小旗が振られ、太鼓が鳴り、「万歳」という声が何度も上がった。婦人会の者たちは白い襷をかけ、兵士たちへ握り飯や千人針を渡していた。
「慎太郎、華嶺の連中を追い払ってこい!」
「村の名を上げてこいよ!」
「必ず勝って帰れ!」
誰も「人を殺してこい」とは言わなかった。
代わりに「国を守れ」「家族を守れ」「勝ってこい」と言った。それらの言葉に包まれていると、戦争とは大勢の人間を殺すことではなく、何か立派な仕事のように思えてくる。
慎太郎の隣では、源次が緊張した顔で直立していた。彼にも召集令状が届いていた。
「一人じゃなくてよかったな」
源次が小声で言った。
「ああ」
慎太郎もそう答えた。
だが、本当に安心しているのかは分からなかった。
発車を知らせる汽笛が鳴った。
慎太郎は小春の頭を撫でた。
「母ちゃんの言うことを聞けよ」
「兄ちゃん、いつ帰ってくる?」
「すぐだ。稲刈りが終わるころには帰ってくる」
慎太郎は笑ってみせた。
それが嘘かもしれないことを、小春は知らなかった。慎太郎自身も、知ろうとはしなかった。
母は駅まで来られず、家の布団で慎太郎を見送った。
家を出る直前、慎太郎が拾った雀は、開け放った籠から飛んでいった。まだ傾きながらではあったが、屋根を越え、朝の空へ消えていった。
それを見た母は、きっと慎太郎も帰ってこられると言った。
列車が動き出す。
小春が走りながら、何度も兄の名を呼んだ。
慎太郎は窓から身を乗り出し、姿が見えなくなるまで手を振った。
やがて村も、田畑も、母のいる小さな家も、黒い煙の向こうへ消えていった。




