乾パン
日東軍が山間の村へ入ったのは、雪の降り始めた朝だった。
部隊の食料は二日前に尽きていた。
補給を運ぶ荷車がぬかるみに沈み、後方で止まっているという。兵士たちは木の皮を煮たものや、畑に残された芋を掘って空腹をしのいでいた。
村の入口には、人の姿がなかった。
どの家も戸を閉ざし、道には薄い雪が積もっている。
「食料を徴発する」
小隊長が命じた。
「各家を調べろ。米、麦、肉になる家畜はすべて集める」
「住民の食べ物はどうするんです」
慎太郎が尋ねると、小隊長は眉をひそめた。
「我々が飢えれば戦争に負ける」
「ですが、全部持っていけば」
「軍の命令だ」
兵士たちは家々へ入った。
戸を蹴破り、床下や壺の中まで調べた。住民たちは隠れていた食料を引きずり出され、泣きながら見ていることしかできなかった。
慎太郎と源次が入った家には、年老いた女と三人の子供がいた。
父親らしい男の姿はない。
台所を調べると、壺の底から一握りほどの粟が見つかった。
「これだけです」
慎太郎は小隊長に言った。
老婆が何かを訴えながら、慎太郎の袖をつかんだ。
言葉は理解できなかった。
それでも、粟を持っていかないでくれと頼んでいることは分かった。
「出せ」
小隊長が手を伸ばした。
慎太郎は壺を抱えたまま動かなかった。
「これを持っていけば、子供たちが」
小隊長は慎太郎の胸ぐらをつかんだ。
「新田。敵地で誰を守ろうとしている」
「敵ではありません。子供です」
「この村から我々を狙った銃弾が飛んでくるかもしれん。そのときも同じことが言えるのか?」
老婆が慎太郎から壺を取り返そうとした。
小隊長は彼女を乱暴に突き飛ばした。
老婆は床へ倒れ、子供たちが泣き叫んだ。
慎太郎は拳を握った。
止めようと思った。
だが、小隊長の腰にある軍刀が目に入った。
命令に逆らえば、軍法会議にかけられるかもしれない。臆病者と呼ばれ、家族にまで恥をかかせるかもしれない。
慎太郎は壺を差し出した。
小隊長は中身を袋へ移し、次の家へ向かった。
部屋には、泣いている子供たちと慎太郎だけが残った。
一番幼い男の子が、慎太郎の背嚢を見ていた。
中には非常用の乾パンが一つ残っていた。
慎太郎はそれを取り出した。
少年の目が乾パンを追った。
渡そうと手を伸ばしたとき、戸口から声がした。
「何をしている」
振り向くと、別の兵士が立っていた。
清江で、捕虜に水を与えた慎太郎を叱った兵士だった。
「また敵に食べ物を与えるつもりか」
「この子は何もしていません」
「今はな。大きくなれば銃を持つ」
慎太郎は少年を見た。
少年も慎太郎を見ていた。
小春と同じ黒い瞳だった。
「そんな甘さでは、そのうち仲間を殺すぞ」
兵士はそう言い残し、出ていった。
慎太郎は乾パンを握ったまま立ち尽くした。
少年が、おそるおそる手を伸ばした。
慎太郎はその手を見た。
小さく、汚れ、寒さで赤くなった手だった。
それでも慎太郎は乾パンを背嚢へ戻した。
少年の手だけが、何もない空中に残った。
家を出るとき、慎太郎は振り返らなかった。
外では兵士たちが奪った鶏を追い回し、楽しそうに笑っていた。
慎太郎は背嚢の中の乾パンが、石のように重く感じられた。
その夜、慎太郎は乾パンを食べた。
味はしなかった。




