第二話 名前のない子
二十七年前、キーツには名前がなかった。
孤児院では、子どもは番号で呼ばれたからだ。
キーツは番号三十二。
名前をつけても、すぐに死ぬからな。
年老いた職員は言った。
冬になると、建物の隙間から雪が吹き込んだ。
暖炉の薪は湿っていて、毛布の中で動かなくなった子が発見される朝もあった。
番号三十二は、食べ物を盗むのがうまかった。
台所の棚から乾パンを引き抜き、半分をすぐに食べると、残りは寝床の下に隠した。
誰かに分けるなんて考えたこともない。
明日の自分のためだった。
ある日、年下の子どもがそれを見つけた。
「少しちょうだい」
三十二はその子の指を踏んだ。
泣いても足をどけなかった。
「取ったらあかん」
「おなかすいた」
「あたしもや」
「あした、またもらえるかもしれないよ」
「もらえへんかもしれんやろ」
それが、彼女の知る世界だった。
与える者は、奪う。
笑う者は、あとで殴る。
守ると言う者は、役に立たなくなれば捨てる。
だからいつも人より先に奪いとった。
春の初め、黒い車が孤児院へ来た。
降りてきた女は、白い服を着ていた。
女の後ろにずらりと並ぶ信者。
職員たちは慌てて頭を下げ、見栄えのよい子どもたちを前列に並べた。
三十二は列に入れなかった。
痩せすぎていたし、目つきが悪かったからだ。
だが女は、見た目の良い子どもたちを通り過ぎ、
廊下の奥にいた三十二の前で足を止めた。
「なぜここへ並ばない」
「選ばれへんから」
「選ばれたいのか」
三十二は少し考えた。
「選ぶほうになりたい」
職員が息をのんだ。
女は笑っていた。
優しい笑みではなかった。
値踏みをする商人の笑い方だ。
「おまえには名前が必要だ」
「名前があったら、なにが変わるん」
「人は名前のある者につき従う」
女は三十二の顎を持ち上げた。
「キーツ。今日から、それがおまえの名前だ」
「キーツ」
少女は口の中で転がした。
名を得た瞬間、自分がほかの子どもより上になった気がした。
「あんたは誰」
「おまえを拾う者だ」
「なんて呼んだらええの」
女はわずかに目を細めて答えた。
「好きに呼ぶといい」
そのとき
孤児院の子どもが、家族を持つ者を羨んでいたことを思い出した。
家族とは、持っているだけで他人より上に立てるものらしい。
「おかあさん」
女の背後で信者たちが同じ顔で微笑んだ。
キョウソだけは笑わなかった。
「よろしい」
その日、キーツは孤児院を出た。
車の窓から、残された子どもたちを見下ろした。
昨日まで同じ床で眠っていた者たちが、遠ざかっていく。
年下の子が窓辺に立っていた。
指には、踏まれた痕がまだ残っていた。
キーツは手など振らない。
選ばれなかった者に、もう用はなかった。
車は国境へ向かった。
その頃、ソウノクニではキョウソと宗教団体に対する調査が始まっていた。
献金を受けた議員。
消えた公金。
信者の名義で買われた土地。
行方不明になった子どもたち。
だがキーツには知るよしもない。
見知らぬ場所で、新しい服、温かいスープ、
そして柔らかい寝台が与えられ、すっかり舞い上がっていた。
夜、キョウソが部屋へ来た。
「ここでは、欲しいものが与えられる」
「なんでも?」
「役に立つうちはな」
キーツは、その最後の言葉を聞いていなかった。
「一番にもなれる?」
「なれるとも」
キョウソは少女の髪を撫でた。
「私の言うことを聞けばな」
キーツは目を閉じた。
それを愛情だと思ったことは、一度もなかった。
そんな中途半端なものはいらない。
これは契約だ。
従えば与えられる。
役に立てば捨てられない。
いつか自分が与える側になれば、捨てられる心配はなくなる。
その夜、キーツは自分の名前を何度も唱えながら眠った。




