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元自衛官、ゾンビに噛まれる。相棒AIは「おめでとう、統計上の死亡例だ」と言った  作者: makubes
2章「彷徨」

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第4話「変革」

 シャッターを内側から下ろす。

 鉄パイプの支えを、いつもの位置に嵌め込む。

 金属の擦れる音が、静まり返ったガレージに響く。


「出血量、推定800ミリリットル」

 キーロンの声が、耳の奥で平坦に鳴る。

「早急な処置を推奨」


 答えず、階段を上がる。

 腕と肩、二箇所の噛み跡が、脈打つたびに疼く。

 痛みはあるのに、どこか遠い出来事のように感じられる。


 居住区に入り、保冷庫の蓋を開ける。

 中には、血液パックが数本。

 残りが多くないことは、見なくても分かっていた。


 このパックは、近隣の診療所を巡って集めたものだった。

 棚の奥、鍵のかかった保冷庫、そういう場所を優先して回った。


「残数、四」

 キーロンが数字を告げる。

「補充の見込みは、現時点でゼロと推定」


 パックを一つ取り出す。

 冷えた感触が、掌に残る。


 このタイミングで良いか判断できたわけではない。

 迷っている余裕もなかった。


 針を手に取る。

 腕の内側、青黒く筋の浮いた血管を探す。


 初めて自分の腕に針を刺した、あの夜のことを、ふと思い出す。

 あの時は、何度も刺し直した。

 手が震え、動画で見た手順をなぞるだけで精一杯だった。


 今は、違う。


 迷いなく、針先が血管を捉える。

 逆血を確認し、固定する。

 一連の動作に、迷いが一つもない。


 まるで、何十回も繰り返してきたことのように。


 その滑らかさに、指先が止まる。

 なぜこんなに、簡単にできてしまうのだろう。


「経路確保、完了」

 キーロンの声だけが、いつも通り平坦に告げる。


 パックを吊るし、点滴の速度を調整する。

 椅子に体を預け、目を閉じる。


 意識が、急速に薄れていく。


    


 次に瞼を開けたとき、部屋には夕方の光が差し込んでいた。

 体を起こす。

 枕元のペットボトルに手を伸ばし、喉を鳴らして飲み干す。

 乾いていたはずの喉が、それほど渇きを訴えていなかったことに、遅れて気づく。

 腕を見る。


 噛み跡が、どちらも半分ほど塞がっている。


「経過時間、五時間十二分」

「回復速度、前回比で明らかに向上」

 キーロンの声に、感情の色はない。

「同化への適応が進んでいると推定」


 断定はしない。

 いつも通り、数字だけが返ってくる。


 どちらの傷口にも、触れてみる。

 痛みは、ほとんどない。


 体を起こしたついでに、台所へ足を向ける。

 冷蔵庫はとうに機能していないが、缶詰の棚を漁る手が止まる。


 求めているのは、缶詰の味ではなかった。

 もっと違う何か――生々しい、赤い記憶に近いもの。


 すぐに、その考えを振り払う。

 気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせ、缶詰を開ける。


 缶詰を口に運びながら、思考が勝手に巻き戻る。


 あの女の顔。

 一度も素顔を見せなかった、あの表情。

 命乞いの声。


 手刀を振るった感触は、はっきりと覚えている。

 骨の抵抗すらない、あまりに軽い手応え。


 それだけ覚えていて、心が動かない。


 恐怖も、後悔も、ない。

 あるのはただ、「なぜ何も感じないのか」という、乾いた疑問だけだった。


 もっと引っかかることがある。


 ゾンビの群れを素手で抜けた時の光景が、頭の中で再生される。

 腕を掴んで引きちぎった感触。

 手刀一つで首の肉が裂けた感触。


 その後、賊のアジトに戻ってからの記憶も続く。

 武器を持った大人を、何人も素手で叩き壊した感触。


 訓練で培った技術では、説明がつかない。

 あの動きは、覚えたものではなかった。

 体が、勝手に知っていた。


 この力は、何だ。


「何か、質問か」

 キーロンの声が、思考を遮る。

 独り言が拾われていたらしい。


「この力は、なんだ」

 声に出して、聞いてみる。


「筋力推定値、前回比プラス三百十八パーセント」

「反応速度、同プラス百六十パーセント」


「これは、どういう数字だ」

 思わず、声が出る。


「参考として、ヒグマの前肢に匹敵する数値」

「信頼性は低い」


 欲しかったのは、数字ではなかった。

 だが、それ以上の答えは返ってこない。


 誰にも、聞けない。

 誰も、答えられない。


 この島に、自分と同じ変化を辿った人間が他にいるとも思えない。


 開けたままの缶詰が、いつの間にか手つかずになっている。

 箸を置いたまま、ぼんやり窓の外を眺めているうちに、日はすっかり落ちていた。


 街の輪郭が、闇に溶けている。

 以前なら、この時間には遠くの街灯やコンビニの看板の灯りが、ぽつぽつと見えていたはずだった。

 今は、何もない。


 送電が完全に止まってから、もうどれくらい経つだろう。

 正確な日数は、数えるのをやめてしまった。


 室内の灯りは、LEDランタン一つ。

 保冷庫と最低限の機材だけを、ジムニーのインバーターと小型のソーラーパネルで賄っている。

 贅沢に使える電力ではない。


 スマホの画面には、圏外の表示だけが変わらず浮かんでいる。

 実家にも、友人にも、あの日以来一度も繋がっていない。


「外の様子は、分からないままか」

 独り言のつもりだったが、答えが返ってくる。


「一般通信網への接続は不可能」

「本社経由の限定情報のみ、断片的に受信」


「何か分かってるのか」

「他地域でも、同種の被害報告あり」

「規模、頻度は不明。詳細情報は開示権限外」


 それだけ告げて、キーロンは口をつぐむ。

 聞きたいことの、半分も答えになっていない。


 それでも、自分たちだけがこうなっているわけではないらしい、ということだけは分かった。

 安心とは、程遠い事実だった。


 ふと、指先にガソリンの匂いが残っていることに気づく。

 もう何度洗っても、完全には消えない臭いだった。

 染みついたその臭いから、これまでの燃料集めの記憶が自然と蘇る。


 狙うのは、決まって古い軽トラや商用車だった。

 この島には、そういう車がまだ多く残っている。

 口で吸って呼び水を作る作業も、最初は何度もえずいたが、今ではもう慣れた手順の一つになっている。


 あの軽トラも、数ヶ月前に見つけたものだった。

 近所の民家の庭先に、鍵を挿したまま放置されていた。

 持ち主がどこへ消えたのかは、分からない。

 荷台に積まれていた、農具らしき道具だけが、当時の暮らしをかすかに物語っていた。


 思えば、あの頃はまだ、外を歩くだけで呻き声や物音が絶えなかった。

 今は、静かなのが当たり前になっている。

 最初の頃は物陰から物陰へ、息を潜めて移動していた。

 カーテンの隙間から覗く視線や、床を軋ませる小さな物音――民家の奥に潜んでいる誰かの気配を、何度も感じ取った。


 今では、それすらほとんどない。

 人影もゾンビの姿も、潜んでいるはずの誰かの気配も、いつの間にか消えていた。


「静かになったな」

 独り言のつもりだったが、キーロンが拾う。


「反応密度、初期比で大幅に減少」

「刺激源の減少に伴う拡散と推定」

「生存者の反応も、同様の傾向」


 人も、ゾンビも、少なくなった。

 残った者たちは、もっと安全な場所へ集まっていったのかもしれない。

 あるいは、単純に、もう動かなくなっただけかもしれない。


 どちらか、確かめる手段はない。


 保冷庫のモーター音が、規則正しく響いている。

 この音を維持するために、燃料の確保も欠かせない日課になっていた。

 だが、いつまでこの生活が保つのかは、誰にも分からない。


 モーター音に耳を傾けているうちに、頭の隅で一つの考えが形になる。


 ――あの発電機を、取りに行くか。


 以前、ホームセンターでちらりと視界に入った、大型の発電機。

 持ち帰るには手に余ると判断し、その時は見送っていた。


 保冷庫の負担を考えると、いつまでもソーラーとインバーターだけに頼るわけにはいかない。


 今の力なら、一人で運べるかもしれない。


 そう考えている自分に、少し遅れて気づく。

 あの重さを、当たり前のように計算に入れている。


 立ち上がり、軽トラのキーを確かめようと玄関へ向かいかけたところで、空き缶が鳴った。


 乾いた音が、二度、三度と続く。


 バールを掴み、玄関の隙間から外を窺う。


「反応、接近」

 キーロンの声が、耳の奥で低く鳴る。

「距離、八メートル」


 路地の奥から、一体の影が近づいてくる。

 足取りに迷いはない。

 まっすぐ、こちらへ向かっているように見えた。


 バールを構え直す。

 鼓動が、わずかに速くなる。


「停止」


 影が、玄関の数メートル手前で立ち止まる。

 ぴくり、と首がかしぐ。

 何かを探るような、緩慢な仕草だった。

 こちらを見ているのか、見ていないのか、判別がつかない。

 息を止めたまま、動かずにいる。


「通過」


 影は、そのまま向きを変え、路地の奥へ消えていった。


 構えていたバールを、下ろす。

 何が起きたのか、説明はつかない。


「なぜ、気づかれなかった」

 声に出して聞いてみるが、返る言葉はない。


「観測事実のみ報告」

 キーロンは、それだけを繰り返した。


 しばらく、暗い路地を見つめたまま動けなかった。


 シャッターを見上げる。

 鉄パイプの支え、板を打ちつけた窓、空き缶の警報。

 できることは、やってきたつもりだった。


 それでも、何かが足りない気がしていた。


 ランタンの灯りを消し、眠りにつく。

 明日は、ホームセンターまで足を延ばす。

 同じ静けさの中で目を覚ますのだろう、という確信だけが、やけにはっきりとしていた。けにはっきりとしていた。

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