第4話「変革」
シャッターを内側から下ろす。
鉄パイプの支えを、いつもの位置に嵌め込む。
金属の擦れる音が、静まり返ったガレージに響く。
「出血量、推定800ミリリットル」
キーロンの声が、耳の奥で平坦に鳴る。
「早急な処置を推奨」
答えず、階段を上がる。
腕と肩、二箇所の噛み跡が、脈打つたびに疼く。
痛みはあるのに、どこか遠い出来事のように感じられる。
居住区に入り、保冷庫の蓋を開ける。
中には、血液パックが数本。
残りが多くないことは、見なくても分かっていた。
このパックは、近隣の診療所を巡って集めたものだった。
棚の奥、鍵のかかった保冷庫、そういう場所を優先して回った。
「残数、四」
キーロンが数字を告げる。
「補充の見込みは、現時点でゼロと推定」
パックを一つ取り出す。
冷えた感触が、掌に残る。
このタイミングで良いか判断できたわけではない。
迷っている余裕もなかった。
針を手に取る。
腕の内側、青黒く筋の浮いた血管を探す。
初めて自分の腕に針を刺した、あの夜のことを、ふと思い出す。
あの時は、何度も刺し直した。
手が震え、動画で見た手順をなぞるだけで精一杯だった。
今は、違う。
迷いなく、針先が血管を捉える。
逆血を確認し、固定する。
一連の動作に、迷いが一つもない。
まるで、何十回も繰り返してきたことのように。
その滑らかさに、指先が止まる。
なぜこんなに、簡単にできてしまうのだろう。
「経路確保、完了」
キーロンの声だけが、いつも通り平坦に告げる。
パックを吊るし、点滴の速度を調整する。
椅子に体を預け、目を閉じる。
意識が、急速に薄れていく。
次に瞼を開けたとき、部屋には夕方の光が差し込んでいた。
体を起こす。
枕元のペットボトルに手を伸ばし、喉を鳴らして飲み干す。
乾いていたはずの喉が、それほど渇きを訴えていなかったことに、遅れて気づく。
腕を見る。
噛み跡が、どちらも半分ほど塞がっている。
「経過時間、五時間十二分」
「回復速度、前回比で明らかに向上」
キーロンの声に、感情の色はない。
「同化への適応が進んでいると推定」
断定はしない。
いつも通り、数字だけが返ってくる。
どちらの傷口にも、触れてみる。
痛みは、ほとんどない。
体を起こしたついでに、台所へ足を向ける。
冷蔵庫はとうに機能していないが、缶詰の棚を漁る手が止まる。
求めているのは、缶詰の味ではなかった。
もっと違う何か――生々しい、赤い記憶に近いもの。
すぐに、その考えを振り払う。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、缶詰を開ける。
缶詰を口に運びながら、思考が勝手に巻き戻る。
あの女の顔。
一度も素顔を見せなかった、あの表情。
命乞いの声。
手刀を振るった感触は、はっきりと覚えている。
骨の抵抗すらない、あまりに軽い手応え。
それだけ覚えていて、心が動かない。
恐怖も、後悔も、ない。
あるのはただ、「なぜ何も感じないのか」という、乾いた疑問だけだった。
もっと引っかかることがある。
ゾンビの群れを素手で抜けた時の光景が、頭の中で再生される。
腕を掴んで引きちぎった感触。
手刀一つで首の肉が裂けた感触。
その後、賊のアジトに戻ってからの記憶も続く。
武器を持った大人を、何人も素手で叩き壊した感触。
訓練で培った技術では、説明がつかない。
あの動きは、覚えたものではなかった。
体が、勝手に知っていた。
この力は、何だ。
「何か、質問か」
キーロンの声が、思考を遮る。
独り言が拾われていたらしい。
「この力は、なんだ」
声に出して、聞いてみる。
「筋力推定値、前回比プラス三百十八パーセント」
「反応速度、同プラス百六十パーセント」
「これは、どういう数字だ」
思わず、声が出る。
「参考として、ヒグマの前肢に匹敵する数値」
「信頼性は低い」
欲しかったのは、数字ではなかった。
だが、それ以上の答えは返ってこない。
誰にも、聞けない。
誰も、答えられない。
この島に、自分と同じ変化を辿った人間が他にいるとも思えない。
開けたままの缶詰が、いつの間にか手つかずになっている。
箸を置いたまま、ぼんやり窓の外を眺めているうちに、日はすっかり落ちていた。
街の輪郭が、闇に溶けている。
以前なら、この時間には遠くの街灯やコンビニの看板の灯りが、ぽつぽつと見えていたはずだった。
今は、何もない。
送電が完全に止まってから、もうどれくらい経つだろう。
正確な日数は、数えるのをやめてしまった。
室内の灯りは、LEDランタン一つ。
保冷庫と最低限の機材だけを、ジムニーのインバーターと小型のソーラーパネルで賄っている。
贅沢に使える電力ではない。
スマホの画面には、圏外の表示だけが変わらず浮かんでいる。
実家にも、友人にも、あの日以来一度も繋がっていない。
「外の様子は、分からないままか」
独り言のつもりだったが、答えが返ってくる。
「一般通信網への接続は不可能」
「本社経由の限定情報のみ、断片的に受信」
「何か分かってるのか」
「他地域でも、同種の被害報告あり」
「規模、頻度は不明。詳細情報は開示権限外」
それだけ告げて、キーロンは口をつぐむ。
聞きたいことの、半分も答えになっていない。
それでも、自分たちだけがこうなっているわけではないらしい、ということだけは分かった。
安心とは、程遠い事実だった。
ふと、指先にガソリンの匂いが残っていることに気づく。
もう何度洗っても、完全には消えない臭いだった。
染みついたその臭いから、これまでの燃料集めの記憶が自然と蘇る。
狙うのは、決まって古い軽トラや商用車だった。
この島には、そういう車がまだ多く残っている。
口で吸って呼び水を作る作業も、最初は何度もえずいたが、今ではもう慣れた手順の一つになっている。
あの軽トラも、数ヶ月前に見つけたものだった。
近所の民家の庭先に、鍵を挿したまま放置されていた。
持ち主がどこへ消えたのかは、分からない。
荷台に積まれていた、農具らしき道具だけが、当時の暮らしをかすかに物語っていた。
思えば、あの頃はまだ、外を歩くだけで呻き声や物音が絶えなかった。
今は、静かなのが当たり前になっている。
最初の頃は物陰から物陰へ、息を潜めて移動していた。
カーテンの隙間から覗く視線や、床を軋ませる小さな物音――民家の奥に潜んでいる誰かの気配を、何度も感じ取った。
今では、それすらほとんどない。
人影もゾンビの姿も、潜んでいるはずの誰かの気配も、いつの間にか消えていた。
「静かになったな」
独り言のつもりだったが、キーロンが拾う。
「反応密度、初期比で大幅に減少」
「刺激源の減少に伴う拡散と推定」
「生存者の反応も、同様の傾向」
人も、ゾンビも、少なくなった。
残った者たちは、もっと安全な場所へ集まっていったのかもしれない。
あるいは、単純に、もう動かなくなっただけかもしれない。
どちらか、確かめる手段はない。
保冷庫のモーター音が、規則正しく響いている。
この音を維持するために、燃料の確保も欠かせない日課になっていた。
だが、いつまでこの生活が保つのかは、誰にも分からない。
モーター音に耳を傾けているうちに、頭の隅で一つの考えが形になる。
――あの発電機を、取りに行くか。
以前、ホームセンターでちらりと視界に入った、大型の発電機。
持ち帰るには手に余ると判断し、その時は見送っていた。
保冷庫の負担を考えると、いつまでもソーラーとインバーターだけに頼るわけにはいかない。
今の力なら、一人で運べるかもしれない。
そう考えている自分に、少し遅れて気づく。
あの重さを、当たり前のように計算に入れている。
立ち上がり、軽トラのキーを確かめようと玄関へ向かいかけたところで、空き缶が鳴った。
乾いた音が、二度、三度と続く。
バールを掴み、玄関の隙間から外を窺う。
「反応、接近」
キーロンの声が、耳の奥で低く鳴る。
「距離、八メートル」
路地の奥から、一体の影が近づいてくる。
足取りに迷いはない。
まっすぐ、こちらへ向かっているように見えた。
バールを構え直す。
鼓動が、わずかに速くなる。
「停止」
影が、玄関の数メートル手前で立ち止まる。
ぴくり、と首がかしぐ。
何かを探るような、緩慢な仕草だった。
こちらを見ているのか、見ていないのか、判別がつかない。
息を止めたまま、動かずにいる。
「通過」
影は、そのまま向きを変え、路地の奥へ消えていった。
構えていたバールを、下ろす。
何が起きたのか、説明はつかない。
「なぜ、気づかれなかった」
声に出して聞いてみるが、返る言葉はない。
「観測事実のみ報告」
キーロンは、それだけを繰り返した。
しばらく、暗い路地を見つめたまま動けなかった。
シャッターを見上げる。
鉄パイプの支え、板を打ちつけた窓、空き缶の警報。
できることは、やってきたつもりだった。
それでも、何かが足りない気がしていた。
ランタンの灯りを消し、眠りにつく。
明日は、ホームセンターまで足を延ばす。
同じ静けさの中で目を覚ますのだろう、という確信だけが、やけにはっきりとしていた。けにはっきりとしていた。




