第3話「破戒」
悲鳴の余韻が、耳の奥にまだ残っている。
ドアに手を掛けたまま、バールを握り直す。
息を整える暇もなく、足が先に動く。
「音源、南東十五メートル」
キーロンの声が耳の奥で鳴る。
「反応、多数を検知」
駐車場のフェンス越しに、それは見えた。
道路脇のブロック塀に追い詰められているのは、四人。
大人が二人、子供が二人。
家族に見えた。
その周囲を、十数体の影が囲んでいる。
「反応、十四」
「距離、十五メートル」
「突入した場合の生存率――」
「言うな」
キーロンは、それ以上続けなかった。
数字だけが、静かに突きつけられている。
踏み出しかけた足が、止まる。
バールを構える手が、行き先を失う。
助けに行くべきだという考えと、行けば死ぬだけだという考えが、頭の中で綱引きをしている。
何をしたらいいか答えは出ている、だがそれは認められない。
体はただ立ち尽くしていた。
悲鳴が、いくつも重なって聞こえた。
「パパー、ママー」
声は、一つ、また一つと途切れていく。
最後に残ったのは、何かを引きちぎるような、湿った音だけだった。
その場を離れる。
振り返らなかった。
歩きながら、頭のどこかで考える。
あそこにいたのが、自分だったかもしれない。
そう思うのに、感情がついてこない。
まるで他人の話でも聞いているような、薄い実感のなさがある。
その他人事めいた感覚に、かすかな違和感を覚える。
もう一つ、気づいたことがある。
今日、ろくに周囲を確認もせず、飛び出しかけていた。
自衛隊にいた頃なら、まずあり得なかった動き方だった。
最近、慎重さが足りていない。
なぜだ、と自問するが、答えは出てこない。
考えるのをやめて、家路を急ぐ。
何が出来て何が出来ないのか、自分とは何か、考え込んだまま引きこもった。
それから、数ヶ月が経った。
自宅は、少しずつ姿を変えていった。
シャッターの内側に鉄パイプの支えを増やし、二階の窓には板を打ちつけた。
玄関先には、空き缶を紐で吊るした簡易の警報も追加した。
物資は、近隣のコンビニや小さな商店を回って集めるのが日課になっている。
輸血パックの消費期限だけが、静かに迫っている。
その日も、いつも通りの探索だった。
行動範囲は、当初よりだいぶ広がっている。
見慣れない住宅街の路地で、うずくまる女と出くわす。
「助けて……」
声は、震えていた。
怯えた目が、こちらを見上げている。
「近くに、はぐれた仲間が……お願いします」
答えを返す前に、キーロンの声が耳の奥で鳴った。
「生体反応、一」
「付近に他の反応なし」
判断は、示されない。
いつも通りだ、と思う。
女に近づく。
膝をついたまま、震える肩を抱くように背を丸めている。
嘘には見えなかった。
少なくとも、その時点では。
「はぐれた仲間が、近くに」
声はまだ震えている。
「拠点まで、少しだけ……お願いします」
断る理由が見つからない。
誰とも言葉を交わさずに過ごした数ヶ月の重みが、思っていたより肩に乗っている。
頷く。
「同行する」
「記録した」
キーロンの声に、それ以上の言葉はない。
賛成も反対もしない、いつも通りの平坦さだった。
上空では、ドローンが変わらぬ高度で追尾を続けている。
女に連れられ、廃業した資材倉庫に着く。
シャッターの隙間をくぐると、空気が変わった。
薄暗い中に、人影が並んでいる。
「壁面反射が多い。反応、不明瞭」
キーロンの声が、いつもより頼りなく響く。
屋根と壁に囲まれた空間では、ドローンの目もそこまでは届かない。
「あなたたち、誰なの」
女の声が裏返る。
「子供が……私の子供が、どこかに」
こちらへすがりつく指先が、震えている。
庇わなければ、と思う。
構えていたバールを、下ろす。
その隙を、待っていたように腕を取られた。
複数の手が肩を、腕を、髪を掴む。
バールが手から離れ、床に転がっていく音がする。
膝から崩れ落ち、床に押さえつけられる。
顔を上げた先で、女の表情から怯えが消えていた。
拒むつもりで開いた口は、言葉にならなかった。
恐怖に呑まれきる前に、ただの結論として状況を受け止めている自分に気づく。
肝が据わっているだけだと、この期に及んでまだそう思っている。
両腕を縛られ、車の荷台に押し込まれる。
エンジン音と振動だけが続く。
「移動継続。方位、北北東」
キーロンの声が、車内の喧噪の下で低く鳴る。
誰かに向けた言葉ではない、記録としての発言だと分かっている。
「これで少しは減るだろ」
運転席の男が笑う。
意味を問う余裕はなかった。
車が停まる。
引きずり下ろされた先に、それが広がっていた。
崩れかけた建物の狭間、無数の影が蠢いている。
「数、減らしとけ」
男の一人がそう言い捨て、拘束を解くと同時に背を蹴った。
勢いのまま、群れの中へ転がり込む。
バールはない。
振り返る間もなく、影の一つが腕に食らいつく。
もう一つが肩に。
夢中で殴り、蹴り、突き飛ばす。
出血の量が、視界の端を歪ませていく。
「反応、密度上昇。北西方向、比較的希薄」
キーロンの声だけが、頼れる情報として耳に残る。
示された方角へ、なんとか体を運ぶ。
やがて、大きな木の根元にたどり着く。
足がもつれ、そのまま倒れ込む。
意識が、急速に遠のいていく。
「反応、接近」
遠くで、キーロンの声がする。
「停止」
「通過」
その繰り返しだけが、途切れ途切れに耳へ届く。
なぜ、とは考えられなかった。
考える力そのものが、どこかに置き去りにされていた。
次に気づいたときには、出血が止まっていた。
体を起こす。
驚くほど軽い。
なぜ食われなかったのか、囲まれていたはずなのに。
答えの糸口すら浮かばないまま、疑問だけが喉の奥に沈んでいく。
考えている場合ではない、と体が先に判断する。
最初に現れた一体の腕を、素手で掴む。
力を込めると、骨の砕ける感触が伝わり、そのままちぎれた。
黒く濁った体液が、地面に広がる。
次の一体には、手刀を打ち込む。
首筋の肉が、抵抗もなく裂ける。
三体目は、頭を掴んで地面に叩きつける。
鈍い音のあと、動きが止まる。
高揚は湧かない。
ただ、こんなにも簡単に壊せてしまうことへの、薄い違和感だけが残る。
密集地を抜けた先で、足が止まる。
これから向かう先にいるのは、ゾンビではない。
自分を騙し、陥れた、人間だ。
同じ手で、同じように壊せてしまうという事実が、頭の芯に引っかかる。
これは人間で、さっきまで壊してきたものと、何が違うのだろう。
「拘束するか」
キーロンの声が、抑揚なく割り込む。
「対象は人間。行動選択肢として提示する」
「いや」
それだけ答えて、足を踏み出す。
「反応、東方向。三十メートル」
キーロンが、追尾していた位置を告げる。
迷わず、その方角へ向かう。
悪党たちの元へ戻ると、驚愕の表情が並んでいた。
死んだはずの獲物が、生きて戻ってきている。
誰かがナイフを構え、誰かが銃を向ける。
構える暇を与えなかった。
ナイフを持った手首を握り潰し、腕ごと肩から引き剥がす。
銃口がこちらを捉える前に踏み込み、突き出された腕を掴んで引き倒し、地面に頭を打ちつける。
悲鳴と、後退する足音が入り混じる。
最後に残るのは、あの女だった。
「あなた……生きていたの」
声が震える。
「お願い、私の子供を、助けて」
両手を合わせ、縋るように詰め寄ってくる。
最後の最後まで、崩さない。
命乞いの言葉が続く途中で、手刀が走る。
右肩から左脇腹へ、袈裟懸けに。
上半身が、二つに分かれて崩れ落ちる。
静まり返った拠点で、自分の腕を見下ろす。
噛み跡は、まだ生々しく残っている。
「またか」
声に出してみたが、誰も答えない。
「感染反応、継続中」
キーロンだけが、いつも通りの声でそう告げた。




