第2話「コンビニ」
世界がどう変わったのか、まだ何も分かっていない。
ドローンを発進させる。
リストバンド型のディスプレイに周辺三百メートルの反応が点で表示される。
「反応八件。いずれも移動なし」
キーロンの声が耳の奥で鳴る。
昨日までなら、この数字だけで安堵していたかもしれない。
動いていないというだけでは判断がつかない。
死んでいるのか、まだ息をしているだけなのか、この距離では分からない。
ドローンを更に遠くへ飛ばし、映像を拾わせる。
屋根の上、電線の陰、庭先。
画面の中で世界は静止しているように見えるが、静止しているだけの世界などどこにもないことを、もう知っている。
半径圏内に目立った危険は見当たらない。
付近の安全は確保できたと判断してから、次の行動に移る。
この辺りは元々店が少ない。
収穫は見込めないと判断し、ジムニーに乗り込む。
ガレージのシャッターが上がる音に続けてエンジンをかけ、畑の間を抜けて幹線道路に合流する。
数日前まで軽トラが行き交っていた道に、今はまるで車がいない。
潮の匂いが強い。
窓を少し開けると、生ぐさいものの混じった風が入ってくる。
路肩には乗り捨てられた車が点々と放置されている。
ドアが開けっぱなしのもの、追突したまま止まっているもの。
中を覗く気にはならない。
誰も回収に来ない。
もう誰もそういう仕事をしていない。
信号だけが律儀に色を変え続けている光景に、少しの間だけ目を奪われる。
しばらく走ると見慣れたコンビニの看板が見えてくる。
駐車場に反応はほとんどない。
車を停め、バールを提げたまま自動ドアをくぐる。
センサーは反応しない、電気は生きているはずなのに。
店内に入っても同じで、棚は倒れ、荒らされた形跡だけが残っている。
水も食料もほぼ空、残っているのはカップ麺が数個と雑誌程度。
いなり寿司の空きパックが床に散らばっているが、中身はどこにもない。
誰かが根こそぎ持ち去った後の店内は、静かすぎて逆に落ち着かない。
「回収率が高すぎる。統計的に不自然」
キーロンが言う。
「争った跡もない。誰かが先に、静かに持ち去った可能性がある」
「組織的にってことか」
「断定はしない。可能性の一つとして記録する」
レジのドロワーが引き出されたまま空になっている。
硬貨だけが小銭入れに残り、紙幣だけがきれいに抜き取られている。
誰が、というところまでは考えない。
今となっては紙切れでしかないそれを、あの時は必死で掴んだのだろう、という思考が一瞬よぎるだけで、すぐに興味を失う。
奥のバックヤードも軽く覗くだけに留める。
制服のまま座り込んでいたらしい跡が、床に染みついている。
積まれた段ボールの陰から出てきた一体をバールで沈める。
元は店員だったのか客だったのか、着ているものだけでは判別がつかない。
手応えはほとんどなく、嫌悪も後ろめたさも湧いてこない。
その違和感は言葉になる前に沈んでいく。
収穫なし、と判断してすぐに車へ戻る。
「もっと大きい店にする」
「判断が早い」
キーロンの声に、わずかに含みがある。
「対象確認から離脱まで九十二秒。躊躇の間隔が短くなっている」
「効率がいいだけだ」
「そうか」
それ以上は続かない。
エンジン音の中に、キーロンの言葉だけが妙にはっきり残る。
だが深く考える理由が見当たらない。
幹線道路をしばらく走ると、看板だけがやけに明るいスーパーの建物が見えてくる。
大きな駐車場を挟んで、店の入口は思ったより遠い。
スーパーまでは十分もかからない。
駐車場に入った瞬間、キーロンの声が変わる。
「反応十一。密集」
見渡すと、乗り捨てられた車の間からゆっくりと立ち上がる影がいくつも見える。
発生初期、ここに人が集まっていたのだろうと察しがつく。
バールを握り直す。
数を捌く動きに切り替える。
一体、また一体、狙いを外さず倒していく。
振り下ろす。
崩れる。
次へ。
背後に回り込もうとした一体には振り向きざまに合わせる。
手応えの軽さは、もう驚くほどのことでもなくなっている。
息が上がる前に片がつく。
崩れていく体の大半は老人か中年で、若い顔は一つもない。
元々この島に若い人間が少なかったという、平時ならただの数字でしかなかった事実が、倒れている顔ぶれとして生々しく迫ってくる。
統計として知っていたものが、今は足元に転がっている。
最後の一体を沈めたところで、自動ドアが開く。
外の喧騒が嘘のように消える。
棚は倒れていない。
商品もほとんど手つかずのまま整然と並んでいる。
発生から何日も経っているとは思えない、そのままの光景。
誰にも荒らされていない不自然な静けさだが、深く考えないことにする。
カートを引っ張り出す。
車輪が乾いた音を立てて転がる。
欲しいものを全て詰め込んでいく。
生活のために本当に必要なものと、そうでないものの境目が、途中からもう曖昧になっている。
誰にも見咎められない、というだけでこんなに軽くなるものかと思う。
果物コーナーでリンゴを一つ掴む。
そのままかじりながらカートを押して回る。
甘さも酸味も、ろくに感じないまま口だけが動いている。
半自動ドアの外にゾンビの群れが転がっている店内で、リンゴをかじりながらカートを押している自分を、少し離れたところから見ている誰かがいたら、さぞ間抜けに映るだろう。
緊張の欠片もない、間の抜けた仕草だと自分でも分かっている。
酒コーナーの棚を眺めていると、値札の桁が明らかに違う一本が目に入る。
普段なら手に取ることもない値段だ。
抜き取ってカートに入れる。
隣の一本、また隣の一本。
銘柄も年数も、正直よく分からない。
気づけば十本近くが並んでいる。
かつて誰かが大事に棚に並べたであろうそれを、今は好き放題にかき集めている。
菓子コーナーでは板チョコの棚をまるごと両手で抱え込む。
高級チョコの包装が積み重なってカートから溢れる。
「今日だけは、いいだろ」
独り言のつもりで零す。
返事はない。
キーロンは在庫リストの更新と経過時間の報告を淡々と続けるだけで、軽口にも茶化しにも反応を返さない。
「賞味期限、平均で四百二十日残存」
「聞いてない」
「記録として発言している」
数字だけを並べる声は、こちらの気分などまるで関知していないかのように平坦だ。
その温度差にすら、今は気づかない。
カート二台分を積み終え、ジムニーのラゲッジに押し込む。
タイヤが沈むほどの重さになったラゲッジを見て、満ち足りた息を吐く。
リンゴの芯を放り投げ、運転席に手をかけた、そのとき。
近くで、女の悲鳴が聞こえた。
若い声だ。
恐怖でひしゃげてはいるが、叫びというより、助けを呼んでいる響きに近い。




