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元自衛官、ゾンビに噛まれる。相棒AIは「おめでとう、統計上の死亡例だ」と言った  作者: makubes
2章「彷徨」

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第1話「統計上の生存例」

 目が覚める。

 天井の木目を、しばらくぼんやりと眺めている。

 見慣れた自室の天井だ。

 それだけのことが、やけにありがたく思える。

 生きている。

 その実感が、じわりと胸に広がっていく。

 体を起こそうとして、腕に力が入りすぎて驚く。

 重い、と思った次の瞬間には、違うと分かる。

 軽い。

 昨日まで纏わりついていた鉛のような怠さが、綺麗に抜けている。

 左腕を持ち上げ、目の高さまで持ってくる。

 血管の筋が薄い。

 昨夜、鏡の中で見た青黒い色は、今はもうほとんど分からない。

 思わず声が漏れる。


「……効いたのか」


 安堵に近いものが、腹の底からこみ上げてくる。

 だが、それと入れ替わるように来るはずのものが、来ない。

 昏睡から目覚めて、生きているかどうかも定かでない体で、世界は既に壊れかけている。

 本来ならもっと怖くていいはずだ。

 震えるほど、何度も確かめたくなるほど。

 なのに、その手の恐怖だけが、驚くほど早く引いていく。

 まるで最初から、そんな感情を長く抱えていられない体になったかのように。

 その事実に薄く戸惑いながらも、蓮はすぐにそれを訓練のおかげだと思い直す。

 現場での動揺の少なさは、後方支援課時代に散々叩き込まれたものだ。

 今もその名残が働いているだけだと、深くは考えない。


「起きたか」


 リストバンドの画面が明滅し、キーロンの声が骨を伝って響く。

 その素っ気ない一言に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。


「バイタル、確認する。心拍六十二、体温三十六度二分。数値上は安定している」


 淡々とした報告が続く。


「感染から、二十九時間四十七分経過。昏睡状態は十四時間十二分」

「感染の進行は、止まっている。今のところは、治ったと見ていい」


 言い切らない。

 いつものことだ。

 それでも、その一言に、思わず息が漏れる。

 助かった、という言葉が喉の奥まで出かかって、飲み込む。


「今のところは、ってどういう意味だ」

「言葉の通りだ。統計的に楽観できる状態というだけで、確定した未来ではない」

「相変わらず優しくないな、お前」

「優しさは生存率を上げない」


 軽口のつもりだったが、返ってきたのは変わらぬ調子だった。

 それが妙におかしくて、蓮は小さく笑う。

 こんな時でも笑えるのかと、自分でも少し意外に思う。


 ベッドから足を下ろし、床を踏む感触を確かめる。

 窓の外を見る。

 昨日と同じ景色がそこにある。

 遠くに黒煙が何本も立ち上り、風に流されている。

 街の輪郭が、記憶にあるものと少しずつ違って見える。

 好転はしていない。

 自分の体だけが、世界から取り残されたように治っている。

 その落差に、胸の奥が鈍く痛む。

 助かったことを、素直に喜んでいいのかも分からない。


 立ち上がり、階段を降りる。

 ガレージへの扉を開けると、締め切ったままのシャッターの向こうから、街の物音がくぐもって聞こえてくる。

 ジムニーの荷台には、昨日買い込んだ荷物がそのまま積んである。

 水のペットボトル、缶詰の箱、電池のパック、バールと金属バット。

 あの時はまさかここまでのことになるとは思っていなかった、と苦い気持ちが胸をよぎる。

 一つずつ両手に抱え、屋内階段を使って居住区へ運び上げる。

 何往復かする間に、体が驚くほど軽く動くことに気づく。

 疲れが来ない。

 妙な心地だ、と思いながらも、今はその感触をありがたく受け取っておく。


 部屋の隅に荷物を並べていく。

 水は二十リットルほど。

 缶詰は種類を分けて積む。

 蛇口をひねってみると、まだ水が出る。

 勢いは昨日より心なしか弱い気がするが、今のうちに溜めておくべきだと判断する。

 浴槽いっぱいに水を張り、空いたポリタンクにも詰められるだけ詰めておく。

 止まってからでは遅い。

 電池はサイズごとにまとめる。

 ふと、その中の数本が、以前買っておいたUSB充電器に使える規格だったことを思い出す。

 リストバンドとイヤピースの充電器と、型が合う。

 我ながら、よく買っておいたものだと苦笑する。

 念のため、と別の箱に分けておく。


 クローゼットの奥から、キャンプ道具一式を引っ張り出す。

 学生時代から使っているコンロ、寝袋、携帯浄水器、ランタン。

 予備自衛官になってからも、災害派遣を想定してそのまま手入れを続けていたものだ。

 まさかこんな形で役に立つとは、と思うと少し複雑な気分になる。

 埃を払い、動作を確認する。

 浄水器のフィルターはまだ新しい。

 ランタンの電池残量も確認し、使えるものと使えないものを仕分けていく。


「何を数えている」


 キーロンが訊いてくる。


「在庫だ。何日分あるか」

「水は成人一人一日二リットルとして、十日分。食料は缶詰の熱量から逆算すると、七日から十日」

「聞いてない」

「聞かれる前に答えるのが効率的だ」


 律儀な奴だ、と蓮は思う。

 こんな状況でも変わらないその態度に、どこか救われている自分がいる。


 並べた物資を見渡す。

 数日は保つ。

 だが、それだけだ。

 長く続く保証はどこにもない。

 電気も水道も、いつまで持つか分からない。

 この量では、いずれ足りなくなる。

 焦りに似た不安が、静かに胸の内に居座る。


 思い立って、ガレージのシャッターの施錠を確かめる。

 車を出し入れする以上、完全に塞ぐわけにはいかない。

 せめて鍵だけは徹底しておこうと、蓮は施錠のレバーを何度も確かめる。

 帰ったら、玄関の方に細工をしておこう。

 下駄箱を寄せるだけでも、多少の時間稼ぎにはなるはずだ。


 立ち上がり、玄関の鍵を確かめる。

 バールを腰に差し、金属バットを手に取る。

 外に出て、周辺を確認してくる必要がある。


「出るのか」

「近場だけ見てくる。何があるか、知っておきたい」

「了解。ドローンを先行させる」


 二階の玄関を開けると、外の空気が流れ込んでくる。

 焦げた匂いが、かすかに混じっている。

 一瞬、足がすくみそうになる。

 だがその感覚もすぐに引いていき、代わりに冷静な計算だけが頭を占めていく。

 蓮はその匂いを一度だけ深く吸い込み、外へ足を踏み出した。


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