第1話「統計上の生存例」
目が覚める。
天井の木目を、しばらくぼんやりと眺めている。
見慣れた自室の天井だ。
それだけのことが、やけにありがたく思える。
生きている。
その実感が、じわりと胸に広がっていく。
体を起こそうとして、腕に力が入りすぎて驚く。
重い、と思った次の瞬間には、違うと分かる。
軽い。
昨日まで纏わりついていた鉛のような怠さが、綺麗に抜けている。
左腕を持ち上げ、目の高さまで持ってくる。
血管の筋が薄い。
昨夜、鏡の中で見た青黒い色は、今はもうほとんど分からない。
思わず声が漏れる。
「……効いたのか」
安堵に近いものが、腹の底からこみ上げてくる。
だが、それと入れ替わるように来るはずのものが、来ない。
昏睡から目覚めて、生きているかどうかも定かでない体で、世界は既に壊れかけている。
本来ならもっと怖くていいはずだ。
震えるほど、何度も確かめたくなるほど。
なのに、その手の恐怖だけが、驚くほど早く引いていく。
まるで最初から、そんな感情を長く抱えていられない体になったかのように。
その事実に薄く戸惑いながらも、蓮はすぐにそれを訓練のおかげだと思い直す。
現場での動揺の少なさは、後方支援課時代に散々叩き込まれたものだ。
今もその名残が働いているだけだと、深くは考えない。
「起きたか」
リストバンドの画面が明滅し、キーロンの声が骨を伝って響く。
その素っ気ない一言に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。
「バイタル、確認する。心拍六十二、体温三十六度二分。数値上は安定している」
淡々とした報告が続く。
「感染から、二十九時間四十七分経過。昏睡状態は十四時間十二分」
「感染の進行は、止まっている。今のところは、治ったと見ていい」
言い切らない。
いつものことだ。
それでも、その一言に、思わず息が漏れる。
助かった、という言葉が喉の奥まで出かかって、飲み込む。
「今のところは、ってどういう意味だ」
「言葉の通りだ。統計的に楽観できる状態というだけで、確定した未来ではない」
「相変わらず優しくないな、お前」
「優しさは生存率を上げない」
軽口のつもりだったが、返ってきたのは変わらぬ調子だった。
それが妙におかしくて、蓮は小さく笑う。
こんな時でも笑えるのかと、自分でも少し意外に思う。
ベッドから足を下ろし、床を踏む感触を確かめる。
窓の外を見る。
昨日と同じ景色がそこにある。
遠くに黒煙が何本も立ち上り、風に流されている。
街の輪郭が、記憶にあるものと少しずつ違って見える。
好転はしていない。
自分の体だけが、世界から取り残されたように治っている。
その落差に、胸の奥が鈍く痛む。
助かったことを、素直に喜んでいいのかも分からない。
立ち上がり、階段を降りる。
ガレージへの扉を開けると、締め切ったままのシャッターの向こうから、街の物音がくぐもって聞こえてくる。
ジムニーの荷台には、昨日買い込んだ荷物がそのまま積んである。
水のペットボトル、缶詰の箱、電池のパック、バールと金属バット。
あの時はまさかここまでのことになるとは思っていなかった、と苦い気持ちが胸をよぎる。
一つずつ両手に抱え、屋内階段を使って居住区へ運び上げる。
何往復かする間に、体が驚くほど軽く動くことに気づく。
疲れが来ない。
妙な心地だ、と思いながらも、今はその感触をありがたく受け取っておく。
部屋の隅に荷物を並べていく。
水は二十リットルほど。
缶詰は種類を分けて積む。
蛇口をひねってみると、まだ水が出る。
勢いは昨日より心なしか弱い気がするが、今のうちに溜めておくべきだと判断する。
浴槽いっぱいに水を張り、空いたポリタンクにも詰められるだけ詰めておく。
止まってからでは遅い。
電池はサイズごとにまとめる。
ふと、その中の数本が、以前買っておいたUSB充電器に使える規格だったことを思い出す。
リストバンドとイヤピースの充電器と、型が合う。
我ながら、よく買っておいたものだと苦笑する。
念のため、と別の箱に分けておく。
クローゼットの奥から、キャンプ道具一式を引っ張り出す。
学生時代から使っているコンロ、寝袋、携帯浄水器、ランタン。
予備自衛官になってからも、災害派遣を想定してそのまま手入れを続けていたものだ。
まさかこんな形で役に立つとは、と思うと少し複雑な気分になる。
埃を払い、動作を確認する。
浄水器のフィルターはまだ新しい。
ランタンの電池残量も確認し、使えるものと使えないものを仕分けていく。
「何を数えている」
キーロンが訊いてくる。
「在庫だ。何日分あるか」
「水は成人一人一日二リットルとして、十日分。食料は缶詰の熱量から逆算すると、七日から十日」
「聞いてない」
「聞かれる前に答えるのが効率的だ」
律儀な奴だ、と蓮は思う。
こんな状況でも変わらないその態度に、どこか救われている自分がいる。
並べた物資を見渡す。
数日は保つ。
だが、それだけだ。
長く続く保証はどこにもない。
電気も水道も、いつまで持つか分からない。
この量では、いずれ足りなくなる。
焦りに似た不安が、静かに胸の内に居座る。
思い立って、ガレージのシャッターの施錠を確かめる。
車を出し入れする以上、完全に塞ぐわけにはいかない。
せめて鍵だけは徹底しておこうと、蓮は施錠のレバーを何度も確かめる。
帰ったら、玄関の方に細工をしておこう。
下駄箱を寄せるだけでも、多少の時間稼ぎにはなるはずだ。
立ち上がり、玄関の鍵を確かめる。
バールを腰に差し、金属バットを手に取る。
外に出て、周辺を確認してくる必要がある。
「出るのか」
「近場だけ見てくる。何があるか、知っておきたい」
「了解。ドローンを先行させる」
二階の玄関を開けると、外の空気が流れ込んでくる。
焦げた匂いが、かすかに混じっている。
一瞬、足がすくみそうになる。
だがその感覚もすぐに引いていき、代わりに冷静な計算だけが頭を占めていく。
蓮はその匂いを一度だけ深く吸い込み、外へ足を踏み出した。




