第3部「境界」
第8話「病院」
ジムニーのエンジンをかける。
荷台に積んだままの買い出しの袋が視界の端に入るが、今それを気にしている場合ではない。
数時間前の自分がどれほど呑気だったか、その落差にふと目眩がしそうになる。
出発前に、ドローンを起動する。
リストバンドの操作パネルからコマンドを送ると、玄関先に置いていた機体がゆっくりと浮上し、上空へと消えていく。
頼れるものが機械しかない、という事実が、今さらのように重くのしかかる。
「先行させとく。何かあれば言う」
「頼む」
ハンドルを握る手に、じわりと汗がにじむ。
キーロンの示すルートに従って走り出す。
「次の交差点を右だ」
「わかってる」
声が硬い。
走り慣れた道のはずなのに、景色がどこかよそよそしい。
信号無視で突っ切った車が路肩に乗り上げたまま放置されている。
歩道にはコンビニ袋や靴が散らばり、持ち主の姿はない。
割れたショーウィンドウの前を通り過ぎるとき、ガラスの破片が街灯に反射して一瞬光る。
その光景ひとつひとつが、現実感を奪っていく。
「……昨日までと同じ街とは思えないな」
声に出してみて、ようやく実感が追いついてくる。
まだ二日と経っていないのに、もう何年も前のことのように感じられる。
「感傷は後にしろ。もうすぐ着く」
キーロンの声には相変わらず抑揚がない。
それが今はかえって落ち着く。
人間の声で慰められるより、この温度のない声の方が今は都合がいい。
そう思う自分に、少しだけ違和感を覚える。
病院の敷地が見えてくる。
正面玄関に近づくにつれ、異変の輪郭がはっきりしてくる。
人だかりのように見えたものは、統率の取れない群衆だった。
怒号、悲鳴、何かがぶつかる鈍い音。
救急車のサイレンが遠くで鳴り続けているが、誰も動かす気配がない。
胃の底が冷たくなる。
車を減速させる。
正面玄関の自動ドアは開けっ放しで、中から白衣の人影がよろめきながら出てくるのが見える。
歩き方がおかしい。
距離があっても、それだけは分かる。
喉の奥に苦いものがこみ上げる。
「正面は無理だな」
「同感だ」
「他に入り口は」
「搬入口がある。裏手だ。人が少ない可能性が高い」
「エンジン音、大丈夫なのか」
「音より動きに反応するタイプが多い。今のところの観測ではそうだ。油断はするなよ」
ハンドルを切り、建物の裏へ回り込む。
駐車場を突っ切り、フェンス沿いの細い道へ入っていく。
指先が細かく震えているのに、今さら気づく。
裏手に着くと、確かに正面ほどの騒ぎはない。
搬入口らしきシャッターは半分開いたままになっている。
中は暗く、何があるか見通せない。
その暗さが、想像力を余計に掻き立てる。
車を停め、エンジンを切る。
静寂が急に重くのしかかってくる。
エンジン音が消えた瞬間、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
「……行くしかないんだよな」
「他に選択肢があるとでも?」
言葉に詰まる。
分かっている。
分かっているからこそ、体が一瞬だけ動くことを拒む。
荷台に積んだままのバールを一本、引き抜き、手に握る。
重さが、いつもより気になる。
深呼吸をひとつ挟み、車を降りる。
搬入口のシャッターの隙間に体を滑り込ませ、院内の暗がりへ足を踏み入れる。
恐怖よりも、後戻りできないという感覚の方が、今は強かった。
第9話「確保」
院内は薄暗い。
非常灯の緑色の光だけが、廊下の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
自分の呼吸音が、やけに大きく響く気がした。
「ドローン、先行させる」
リストバンドの操作パネルに触れると、搬入口の天井付近で待機していた機体が音もなく動き出し、廊下の奥へと消えていく。
「映像、見えてるか」
「ああ。左に進路取れ。突き当たりにエレベーターホールがある」
キーロンの指示に従い、足音を殺しながら進む。
壁伝いに歩を進めるたび、非常灯の光が影を長く伸ばす。
自分の影が、やけに不気味な形に見えた。
どこか遠くで、何かが崩れ落ちるような音がする。
一度、二度。
規則性はない。
そのたび、心臓が小さく跳ねる。
「進行方向とは逆だ。優先度は低い」
感情の読み取れない声だが、判断の根拠にはなる。
それでも、歩みを止めるわけにはいかない。
止まったら、それきり動けなくなる気がした。
「保管場所はどこだ」
「中央検査室。三階だ。輸血用の血液パックは、通常そこの冷蔵設備にまとめて保管されてる」
「三階か……エレベーターは」
「使うな。動いてる保証がない。階段だ」
階段の入り口までは、思ったより静かに辿り着けた。
踊り場の窓から差し込む外光を頼りに、一段ずつ上っていく。
一段上がるごとに、鼓動が速くなっていく気がした。
踊り場を折り返したところで、ドローンが不意に高度を落とし、天井際の暗がりに張り付く。
「どうした」
「黙ってろ。二階の非常口、内側からドアを叩いてる音がする」
耳を澄ますと、確かに一定の間隔で、鈍い打撃音が響いているのが分かる。
誰か、あるいは何かが、閉じ込められているのか、閉じ込めようとしているのか。
判断はつかない。
想像するだけで、背筋が冷たくなる。
「進めるか」
「今のところは。ドローンは戻す、目立たせたくない」
二階の踊り場を過ぎたところで、ドローンの映像に動きが映り込む。
「止まれ」
声に反応して足を止める。
リストバンドの画面には、廊下の先で何かが動いている様子が映っている。
「……何だ、あれ」
声が震えるのを、自分でも聞いた。
「元患者だろうな。点滴スタンドを引きずってる」
画面の中の人影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
距離はまだある。
だが、廊下の構造上、避けて通る道はなさそうだ。
「戦うしかないか」
「他に案があるなら聞くが」
ない。
喉の奥がからからに渇いていた。
バールを両手で握り直し、階段を上がりきる。
人影――患者衣をまとった、かつては入院患者だったのだろう男が、こちらに気づいて動き出す。
歩みは遅いが、着実に距離を詰めてくる。
その姿を見た瞬間、恐怖と嫌悪と、それから説明のつかない哀れみのようなものが同時に押し寄せてきた。
間合いに入った瞬間、バールを振りかぶる。
その瞬間、違和感が来る。
振り下ろした一撃が、予想よりもずっと軽い。
まるで空を切るような手応えのなさで、バールの先端が相手の肩口を捉える。
鈍い音とともに、人影がよろけて床に倒れ込む。
手の中のバールを、思わず見つめる。
軽い。
さっきまで、確かにこの重さを持て余していたはずだ。
今は、まるで別の道具を握っているみたいだ。
喜んでいいのか、恐れるべきなのか、自分の中で答えが出ない。
声が出てこない。
「感傷に浸ってる暇はない。まだ息がある」
倒れた人影が、床の上でもがきながら、再びこちらへ手を伸ばそうとしている。
もう一撃、迷わず振り下ろす。
動きが止まる。
肩で息をしながら、バールを見下ろす。
手の震えが、恐怖からなのか、それとも別の何かからなのか、自分でも判断がつかない。
人を、いや、かつて人だったものを殴った感触が、手のひらに生々しく残っている。
「進むぞ」
キーロンの声に急かされ、我に返る。
違和感を頭の隅に押しやり、再び歩き出す。
三階に上がると、案内表示に「中央検査室」の文字を見つける。
ドアは半開きになっている。
中を覗くと、幸い人の気配はない。
冷蔵設備を開けると、整然と並んだ血液パックが目に入る。
棚の下段には、輸血用のチューブや器具一式が収められた箱もある。
「これで全部か」
「必要な分は揃ってる。持てるだけ持って戻れ」
パックと器具をリュックに詰め込んでいく。
手が微かに震えているが、作業自体は止まらない。
これで助かるかもしれない、という希望と、これしか手段がないという絶望が、同時に胸を締め付けてくる。
「病院で処置は――」
「するな。ここは長居する場所じゃない。持ち帰って、家でやる」
リュックの重さを背負い直し、来た道を引き返す。
階段を駆け下りながら、手のひらに残ったバールの軽さの感触が、頭から離れない。
自分の中で何かが変わり始めている、という予感だけが、確信に近い重さで残った。
第10話「境界」
自宅に戻り、リュックの中身をリビングの床に広げる。
血液パック、チューブ、針、その他見覚えのない器具がいくつか。
何から手を付ければいいのか、正直分からない。
こんな作業を自分がやることになるとは、昨日まで想像すらしていなかった。
スマホでもリストバンドの画面でも構わず、検索を試みる。
回線は問題なく繋がる。
「輸血 やり方」「静脈路確保 自己」――出てくる情報は医療従事者向けのものばかりで、素人にはハードルが高い内容だ。
それでも動画をいくつか流し見ながら、手順をなぞっていく。
画面越しの淡々とした説明員の声が、今は妙にありがたく感じられた。
「随分と付け焼き刃だな」
「うるさい。他に方法があるなら言えよ」
声に苛立ちが滲む。
余裕のなさが、そのまま口調に出ていた。
「ない。だから見てるんだろう」
言葉とは裏腹に、キーロンは要点を淡々と読み上げていく。
針の角度、血管の位置、固定の仕方。
感情の抜けた説明が、かえって落ち着きを与えてくれる。
腕の内側、青黒く血管が浮き出た箇所を消毒する。
針を近づける手が震える。
深呼吸をひとつ。
これから自分がしようとしていることの重大さが、今さらのように肩にのしかかる。
「躊躇うな。時間の無駄だ」
「わかってるよ」
一気に刺す。
だが、狙った角度が甘かったのか、血管を捉えきれない。
「外れてる。角度が浅い」
「言われなくても分かってるよ」
声を荒らげてしまう。
情けなさと焦りが、同時に喉を締め付ける。
位置を変えて、もう一度。
それも駄目だった。
三度目、四度目と繰り返すうちに、腕の内側はまともに見られない有様になっていく。
痛みよりも、うまくいかないことへの苛立ちの方が大きくなっていく。
「五回目だ。次で決めろ」
「うるさい」
奥歯を噛んで、針を刺し直す。
今度は、鈍い痛みと共に赤い色がチューブに流れ込み始めるのを確認する。
安堵と緊張が同時に押し寄せて、思わず息を吐いた。
血液パックをソファの背もたれより高い位置に吊るし直すと、赤い筋がゆっくりと腕へ向かって下りていくのが分かる。
うまくいっているのかどうかも判断できないまま、ソファに背を預ける。
天井を見上げる。
腕の付け根から、じわりと熱のようなものが広がっていくのが分かる。
血液が体に入っていく感覚なのか、それとも別の何かなのか、区別がつかない。
得体の知れない感覚に、体の奥が小さく震える。
「……効いてる、のか」
「データ上は、進行してる」
「進行って、良い方にか」
返事はない。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「おい」
答えが返ってくる前に、視界が急に霞む。
体の力が抜けていく。
何かを言おうとした声が、うまく音にならない。
このまま消えてしまうのだろうか、という漠然とした恐怖が最後によぎる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
目を開けると、部屋は薄暗い。
カーテンの隙間から差し込む光の色が、朝とも夕方ともつかない。
体を起こそうとして、体の節々が軋むのを感じる。
時計を探すが、見当たらない。
リストバンドの画面を見ると、日付の表示が昨日から大きく進んでいる。
「……何時間、寝てたんだよ」
声がかすれている。
答えるキーロンの声は、いつも通り抑揚がない。
「かなり長い間だ。詳細な数字を知りたいか」
「今はいい」
「一つだけ言っておく。例の締切――七時間のカウントは、とうに過ぎてる。それでもお前はまだそこにいる」
その一言をどう受け止めればいいのか、すぐには分からない。
安堵していいのか、それとも別の何かを恐れるべきなのか、感情の置き場が見つからない。
体を起こし、ソファから立ち上がる。
腕の包帯を見下ろす。
染みができているが、それ以上のことは分からない。
窓に近づき、カーテンに手をかける。
一瞬、開けるのを躊躇う。
開けた先に何があるのか、分かるのが怖い。
それでも、指先に力を込めてカーテンを引く。
外の景色に、思わず息を止める。
見慣れていたはずの街並みが、どこか違って見える。
あちこちから、細く黒い煙が立ち上っている。
数えきれないほどの数だ。
遠くでは何かが崩れる音が、鈍く響いている。
自分の体に何が起きたのか、輸血がうまくいったのかどうかさえ、まだ分からない。
分かるのは、もう昨日までの世界には戻れないということだけだ。
窓の外を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
込み上げてくるはずの感情すら、今はまだうまく形にならない。
(短編・完)




