第2部「統計上の死亡例」
第5話「逃走」
信号が赤だろうと構わず抜ける。
バックミラーを見る余裕もない。
頭の中では、コンビニの男とさっきの女性が繰り返し重なる。
あの目。
あの動き。
何かがおかしい、という直感だけが加速度的に膨らんでいく。
恐怖と呼ぶにはあまりに整理されすぎた感覚が、ハンドルを握る手に伝わってくる。
自宅のシャッターをリモコンで開け、ガレージへ滑り込む。
いつもより雑な角度で車を停め、エンジンを切る。
シャッターを閉め切ると同時に、外の音がふっと遠のく。
荷物のことなど、もう頭にない。
安全な場所に戻れた、という安堵よりも先に、体が限界を訴えてくる。
車を降りると同時に、膝が笑っているのに気づく。
歩き出そうとして、一瞬よろける。
壁に手をついて体を支える。
情けない、と思う余裕すらなく、ただ立っていることに全神経を使う。
ガレージから続く内階段を上がり、居住スペースへ入る。
玄関を兼ねたドアを閉め、鍵をかける。
チェーンもかける。
二度、三度と施錠を確かめてから、廊下に座り込んだまま、しばらく動けない。
呼吸が整わない。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
震えが、今になって襲ってくる。
腕を掴まれた瞬間の力の強さ、女性の虚ろな目、体を折り曲げて起き上がってきたあの動き――すべてが今さら脳裏で再生される。
何度も繰り返し再生されるたび、胸の奥が締め付けられる。
声にならない声が、喉の奥で潰れる。
泣きたいのか、叫びたいのか、自分でも判別がつかない。
ただ、今日一日で経験したことのすべてが、一度に押し寄せてくるようだった。
深呼吸を三度繰り返し、なんとか立ち上がる。
腕を確認する。
袖をまくると、二列に並んだ歯型がくっきりと残っている。
皮膚は破れ、血が滲んでいる。
傷を見た瞬間、頭のどこかが冷静になっていくのを感じる。
感情が焼き切れて、代わりに事務的な思考だけが動き出したような、奇妙な切り替わりだった。
カーラジオで聞いた「全国で」という言葉が、頭の片隅に引っかかったままだ。
だが、今はそれより先に、傷の処置が先だ。
そう自分に言い聞かせなければ、また思考が同じ場所をぐるぐると回り始めてしまう。
洗面所へ向かう。
傷口を流水で洗い流し、消毒液を垂らす。
染みる痛みに顔をしかめながらも、手は妙に淡々と動く。
ガーゼを当て、包帯を巻いていく。
手順そのものは体が覚えている。
後方支援課時代に叩き込まれた応急処置の要領だ。
手を動かしている間だけは、何も考えずに済んだ。
第6話「接続」
包帯を巻き終えると、急に瞼が重くなる。
抗おうとするが、体が言うことを聞かない。
まだ考えなければならないことが山ほどあるはずなのに、意識だけが勝手に手放されていく。
ソファに崩れるようにして、そのまま意識が沈んでいく。
次に目を開けた時、部屋の中は白い朝の光で満ちていた。
一瞬、いつもの朝と同じだと錯覚しかける。
だがすぐに、昨夜の記憶が津波のように押し寄せてくる。
体を起こす。
妙に体が軽い。
高熱の後特有の気だるさを覚悟していたが、それがない。
むしろ、いつもより頭が冴えている気さえする。
喜んでいいはずのその感覚に、なぜか安心できない。
違和感を拭えないまま、洗面所へ向かう。
足取りが、自分のものではないみたいに軽かった。
鏡に映った顔を見て、思わず息を止める。
血の気がない。
唇の色まで薄くなっている。
まるで別人の顔を見ているようで、一瞬、鏡の前から動けなくなる。
腕の包帯をほどく。
傷口の周辺、皮膚の下に青黒い筋が浮き出ている。
血管の形そのままに、まるでインクを流し込んだような色だ。
喉の奥がひゅっと鳴る。
「……冗談だろ」
声が思ったより弱々しく響いた。
指で触れてみる。
痛みはない。
ただ、皮膚の下で何かが脈打っているような、鈍い違和感だけがある。
触れば触るほど、自分の腕が自分のものではなくなっていくような、そんな錯覚に襲われる。
スマホを引っ張り出し、画面を確認する。
圏外の表示は昨夜のままだ。
何度か電源を入れ直してみるが、変わらない。
指先が震えて、何度も同じボタンを押してしまう。
窓に近づき、外を見る。
遠くの空に、細く黒い煙が立ち上っているのが見える。
一本ではない。
数えると、視界の中だけで三本はある。
喉の奥に、酸っぱいものがせり上がってくる。
「……」
言葉が出ない。
ただ、事態が想像していたよりも大きいらしい、ということだけは伝わってくる。
世界が、自分の知っている形から静かにずれ始めている。
その感覚だけが、やけに鮮明だった。
クローゼットの奥から、ドローン一式に同梱されていた小箱を引っ張り出す。
昨夜は放置していた通信機材だ。
藁にもすがる思いで、インカムを耳に嵌め、リストバンドを手首に巻く。
電源を長押しすると、画面が発光し、初期設定が立ち上がる。
「スカイリンク」のロゴが表示され、案内に従って接続を進める。
指先が汗ばんでいる。
数秒後、アンテナのアイコンが立つ。
繋がった。
安堵の息を吐いた瞬間、耳元で低い電子音が鳴る。
「――接続確認。ようやくか」
飛び上がりそうになる。
声は淡々としていて、抑揚が薄い。
「な、誰だ」
「誰も何も、お前が起動したんだろう。搭載AI、キーロン。よろしくな、間抜け」
「間抜けって……」
言い返そうとした声が、途中で止まる。
腕の包帯に視線が落ちる。
心臓が急にうるさくなる。
「それより、さっきからバイタルの数値が妙だな。噛まれたか」
「……なんでわかるんだよ」
喉が渇いて、声が掠れた。
「リストバンド経由でバイタル拾ってる。心拍、体温、諸々な。ついでに言うと、その反応は噛まれた人間特有のパターンにドンピシャで一致してる」
沈黙が落ちる。
喉の奥が急に渇く。
全身の血が一瞬で冷えていくような感覚に襲われる。
「噛まれたか。おめでとう、これでお前も統計上の死亡例だ」
「……は?」
声が裏返った。
「一般的なケースだと、感染から発症まで大体二十四時間ってところだ。もう何時間経ってる?」
死ぬ。
いや、正確には違う。
あの動き、あの目――自分もいずれああなる。
人間ではない何かになって、その果てに死ぬ。
頭ではそう理解しているのに、体の芯が妙に静かだ。
悲鳴を上げてもいいはずの場面で、驚くほど声が出てこない。
代わりに、指の震えだけが止まらない。
時計を確認する。
噛まれてから、すでに十六時間以上が経過している。
淡々とその数字を読み上げている自分に、今さら気づいて戸惑う。
冷静なふりをしているだけなのか、本当に冷静になってしまったのか、自分でも分からなかった。
「……十六時間、いや十七時間くらいか」
「なら残りは七時間そこそこだな。まあ、あくまで一般論だ。お前がその一般に当てはまるかどうかは、私にもまだわからない」
「わからんって、お前が言ったんだろ、統計上の――」
声に苛立ちが滲む。
縋る相手にすら苛立ってしまう自分が、情けなかった。
「統計は統計だ。個体差は考慮に入ってない。文句があるなら、もっと詳しいデータをよこせ」
軽口とも取れる口調だが、こちらの焦りとは温度差がありすぎる。
頭を抱えたくなるのを堪えて、深呼吸をひとつ挟む。
「……で、お前は何なんだよ、結局」
「さっき言った。搭載AI、キーロンだ。お前のドローン一式に組み込まれてる。細かい説明は後回しでいいだろ、今優先すべきはそれじゃない」
「じゃあ何だよ」
「お前が助かる方法だ。まあ、探せばあるかもしれないな」
その一言に、わずかに息を呑む。
縋るものなどない、と思っていた場所に、細い糸が一本垂れてきたような感覚だった。
第7話「孤立」
「連絡できる相手を試してみろ」
通話機能まで入ってるのか、と今さらながら思いながら、リストバンドの画面から連絡先を呼び出す。
指先が思うように動かない。
まずは実家の番号だ。
呼び出し音すら鳴らない。
画面には「応答なし」の文字だけが浮かぶ。
「……繋がらない」
「次」
促されるまま、友人、職場の元同僚、順番に試していく。
結果はどれも同じだった。
呼び出し音が鳴ることすらなく、無機質な「応答なし」の表示だけが積み重なっていく。
試すたびに、胸の中で何かがすり減っていく感覚があった。
「おかしいだろ、これ」
声が震える。
「回線自体は生きてる。相手側の端末が死んでる可能性が高いな」
「……そんな一斉に?」
「さあな。一つ言えるのは、お前の周りだけの現象じゃなさそうだってことだ」
その一言に、背筋が冷える。
指先が震えて、次の番号を打ち込む手が止まる。
しばらく画面を見つめたまま、動けなくなる。
頼れる相手が、この瞬間、誰一人としていない。
その事実が、遅れて重くのしかかってくる。
喉の奥が締め付けられて、息をするのがやけに難しく感じられた。
「……で、だ」
沈黙を破ったのはキーロンの方だった。
「いつまでも突っ立ってても状況は変わらない。お前、助かりたいんだろう?」
「当たり前だろ」
思わず声を荒らげる。
八つ当たりだと分かっていても、止められなかった。
「なら聞く姿勢を作れ。時間は有限だ」
深呼吸をひとつ挟んで、リストバンドの画面に向き直る。
感情を無理やり押し込めるようにして、意識を切り替える。
「……助かる方法、あるのか」
「ある。可能性の話だけどな」
「もったいぶるなよ」
縋る思いが、そのまま声に出た。
「輸血だ」
「は?」
「感染の進行を、輸血によって一時的に抑制できるケースが確認されてる。あくまでケースの話だが」
「輸血って、血液型とか合わせなきゃいけないんじゃ――」
「今回の件に関しては、型は問わない。理由は聞くな、私にもまだ分かっていない」
要領を得ない説明だが、今はそれに縋るしかない。
藁にもすがる、という言葉の意味を、今この瞬間ほど実感したことはなかった。
「……で、どこで輸血なんてできるんだよ」
「近くに病院がある。中規模の総合病院だ。輸血用の血液パックと、処置に使える機材、両方揃ってるはずだ」
「はず、って」
「確信が欲しいなら自分で確かめてこい」
投げやりな言い方に苛立ちを覚えるが、反論する気力もない。
ふと、画面の端に表示された地図が、こちらが何も言っていないのに勝手にズームし、病院までのルートを表示し始めていることに気づく。
「……お前、随分と用意がいいな」
「効率を優先してるだけだ。文句あるか。早く用意しろ」
言い方に淀みがない。
用意周到すぎるほどに。
周辺地図、道路状況、病院の在庫情報らしき数字まで、聞いてもいないのに次々と画面に表示されていく。
一瞬、妙な感覚が過ぎる。
まるで、こちらの状況をずっと前から把握していたかのような。
だが、そんなことを深く考えている余裕は、今はない。
生き延びることだけで、頭がいっぱいだった。
「わかった。行けばいいんだろ」
「助かりたいなら、早くしろ」
リストバンドをきつく締め直し、玄関へ向かう。
足取りにはまだ震えが残っていたが、止まるわけにはいかなかった。




