序章「日常の終わり」
第1話「日常」
自動ドアが開く音と同時に、店内の空気が入れ替わる。
冷房の効きすぎた空気が肌にまとわりつき、深夜二時のコンビニには他に客がいない。
蛍光灯の白い光が妙に眩しく感じられるのは、ここ数日ろくに外に出ていなかったせいだろう。
目の奥が少しだけ痛む。
レジ横の唐揚げケースを覗きながら、今日の献立を頭の中で組み立てる。
カップ麺、おにぎり、缶コーヒー、視線を上げた拍子に、雑誌コーナーの陰に立つ男の姿が目に入った。
背を向けたまま、動かない。立ち読みにしては雑誌に触れる素振りすらなく、店内の音にも反応しない。
妙な男だな、と思う程度で、それ以上は気に留めなかった。
世の中には変な人間なんていくらでもいる。
動線は変えず、奥の冷蔵棚へ向かう。位置関係だけ、意識の端で覚えておく。癖のようなものだ。
缶コーヒーを二本、カゴに放り込んだ瞬間、背後の空気が動いた。振り向くより先に、腕を掴まれる。
「うわっ」
驚きより先に、握力の強さに息を呑む。振り払おうとした手首が、思うように動かない。
見れば、さっきの男だ。何かを小さく呟き続けている。
声にはならない。目が合っても、そこに人の気配がない。
ぞっとする感覚が背筋を這い上がる。
「ちょ、放せって!」
声が思ったより大きく出た。呼びかけが届いた様子はなく、腕を掴む力がさらに増す。
痛みと苛立ちがない交ぜになって、頭の奥で警報が鳴る。
考えるより先に体が動いた――カゴを盾に体をひねり、相手の重心を崩す方向へ突き飛ばす。
染みついた動きだった。男は陳列棚に背中からぶつかり、缶詰の山を巻き込んで崩れ落ちる。
「……なんだよ、酔っ払いか」
声に出してみると、少しだけ落ち着く。
距離を取りながら、店の出入り口の位置を無意識に確認している自分に気づく。
癖が抜けていない。心臓はまだ早鐘を打っていて、それが妙に情けなく感じられた。
店員が奥から飛び出し、男に駆け寄っていく。
「大丈夫ですか、お客さん」
男は呻き声とも唸りともつかない音を漏らすだけで、答えにならない。
関わりたくない。会計を済ませ、逃げるように店を出る。
手が小刻みに震えているのに、レジでは気づかなかった。
外の空気は冷たく、頬に張り付く。深く息を吸うと、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
歩きながら振り返ると、店内で店員がまだ男に声をかけているのが見えた。
救急車を呼ぶのだろう。薬物か何かだろうと結論づけて、それ以上は考えないことにする。
考えたくない、というのが本音に近い。
自宅までの道すがら、妙な感覚に気づく。震えているわけではない。むしろ静かすぎる。
心拍はまだ上がったままなのに、手先の感覚だけが遠い。
腕を掴まれた瞬間の力の強さを思い出すと、胸の奥がざわつく。
訓練で叩き込まれた「反応の速さ」と、今の自分の中身が噛み合っていない気がした。
あの頃の自分ならもっと冷静に対処できたはずだ、という苦い思いが湧いては消える。
自宅の玄関に着き、鍵をかける。二重に確認してから、ようやく肩の力が抜けた。
靴を脱ぎながら、ここ数日の不調を思い出す。
ワクチンを打ってから三日、高熱と倦怠感で寝込んでいた。
ようやく動けるようになったのが昨日だ。本調子とは言い難い。
今日出かけたこと自体、間違いだったかもしれない。
カップ麺に湯を注ぎ、三分待つ間におにぎりの封を切る。
手持ち無沙汰に画面をなぞりながら、さっきの一件を頭の中で反芻する。
あの目。あの力。あの、人を人と思っていないような無反応さ。
考えるほど、居心地の悪さが増していく。
ソファに座り、スマホをぼんやり眺めながら箸を進める。
通知欄はいつも通りで、気になる話題はない。それが逆に、なんだか拍子抜けだった。
今夜はもう休もう。そう自分に言い聞かせて、照明を落とす。
窓の外、遠くでサイレンが鳴っている気がしたが、気のせいだと思い直し、目を閉じた。
それでも、なかなか寝付けなかった。
第2話「懐疑」
目が覚めると、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。
頭の芯がまだ重い。二度寝の誘惑に一瞬流されかけて、枕元のスマホに手を伸ばす。
画面を点けた瞬間、息が止まりかけた。通知欄が異様に膨れ上がっている。
見慣れない数の赤いバッジが、画面いっぱいに並んでいる。
「原因不明の集団パニック、都内各地で」「暴行事件多発、警察が注意呼びかけ」
見出しをタップする指が、心なしか速くなる。だが中身は驚くほど薄かった。
目撃証言、ぼやけた映像、要領を得ない断片ばかり。読めば読むほど、輪郭がぼやけていく感覚がある。
「……デマだろ」
声に出してみても、自分を納得させる説得力には欠けていた。
別のアプリに切り替えると、こちらは打って変わって騒がしい。
「噛まれたら人が変わる」「もう感染してる奴がいる」
出所不明の動画が拡散数だけを伸ばしている。
どれも画質が粗く、肝心の瞬間はいつも画面の外だ。
指が止まらず、次々とスクロールしてしまう自分に気づく。
見たくないのに、見るのをやめられない。
昨夜のコンビニの一件が、頭の奥から這い上がってくる。あの目。あの力。
あの、人を人と思っていないような無反応さ。結びつけたくない。
結びつけたら最後、何かが決定的に変わってしまう気がする。
「……ただの酔っ払いだった。それでいい」
声に出して言い聞かせる。自分でも白々しいと分かっている言い方だった。
気を紛らわせるように、クローゼットの奥から例のケースを引っ張り出す。
送り主不明のまま届いたドローン一式。
届いた当初は不気味にすら思ったが、今はもう見慣れた荷物だ。
同梱の専用機材には目もくれず、手っ取り早くスマホと繋いで済ませる。
深く考えるだけの余裕が、今はない。
起動スイッチを入れる。プロペラが低い音を立てて回り始める。
ベランダから飛ばし、上空の映像をスマホに表示させる。
高度を上げながら、目線だけで周辺の車列と人影を数える。
数える必要などないのに、体が勝手にやる。
指先が画面をなぞる動きは、思ったより落ち着いていた。
それが少しだけ意外だった。
街並みはいつも通りだった。行き交う車。歩道を歩く人影。異常らしい異常は見当たらない。
安堵とも失望ともつかない感情が、胸の奥でぐらつく。
「拍子抜けだな」
呟いた声が、思ったより硬い。旋回させながら、右腕の古傷が疼く。理由は思い出せない。
いや、思い出したくないだけかもしれない。手のひらで無意識に傷跡をなぞる。
配属先で受けた投与のことは、記憶が妙にぼやけている。
ナノマシンがどうとか、順応がどうとか――説明された気がするが、細部は霧の中だ。
数日後には熱が出た。それから先は長かった。
原因不明のまま検査と経過観察が続いた。
五年勤めた末、復帰の目処が立たないまま予備自衛官という扱いに落ち着いた。
記憶にはっきり残っているのは、そこまでだ。当時の悔しさが、今も胸の底に澱のように沈んでいる。
あの時の熱と、今回のワクチンの熱は違う。
無関係のはずだと自分に言い聞かせるが、言い聞かせている時点で、どこかで疑っている自分がいる。
その矛盾に気づいて、小さく舌打ちが漏れた。
ドローンを着陸させ、電源を落とす。過去を掘り返しても答えは出ない。
分かっているのに、掘り返す手を止められない。
「まあ、念のためってやつだな」
自分に言い聞かせるように呟く。冷蔵庫の中身は心許ない。水も缶詰も切れかけている。
買い出しを理由にすれば、外に出て気を紛らわせられる――そんな打算も、少しだけあった。
上着を羽織り、財布とスマホを掴む。玄関で靴を履きながら、窓の外を一瞥した。
空はよく晴れている。世界の終わりが始まっているようには、とても見えない。
それが、かえって不安を煽った。
鍵をかけ、ジムニーに乗り込んだ。
第3話「買い出し」
ホームセンターの駐車場は、いつもより空いていた。
ジムニーを端に停め、エンジンを切る。
軽自動車にしては無骨なフロントマスクが、フロントガラス越しに見える。
悪路も気にせず走れる、というのがこの車を選んだ理由だった。
今日ばかりは、その頑丈さが妙に頼もしく感じられた。
車を降りると、思ったより風が冷たい。上着の襟を軽く合わせながら、店内へ足を向ける。
普段の休日より人影がまばらだった。
レジには数人並んでいるだけで、通路もがらんとしている。
静けさが、なぜだか落ち着かない。
「まあ、平日の昼だしな」
独り言を漏らして、自分を納得させる。
カートを押しながら水のコーナーへ向かい、二リットルボトルのケースを二つ積む。
持ち上げた瞬間の重みが、いつもより現実味を帯びて肩に食い込んだ。
賞味期限を確認する癖が、意識するより先に指を動かしていた。
無駄になってもいい、と自分に言い聞かせつつ、頭のどこかで「無駄にはならない気がする」という不穏な予感がよぎる。
缶詰の棚では、ツナ、サバの味噌煮、コーンを手早く選ぶ。
銘柄より先に、カロリーと保存年数を目で追っている自分に気づく。
習慣というのは、抜けるものではないらしい。カゴが重くなるたび、胸の奥で何かがざわつく。
これは本当に「念のため」なのか、それとも――そこから先を考えるのが怖くて、思考を打ち切る。
電池コーナーで単三と単四をまとめ買いし、懐中電灯用の予備電球も確保する。
カセットコンロ用のガスボンベを見つけて、これも数本追加する。
カートの重さが増すたび、頭の中で在庫のリストが更新されていく。
同時に、こんなことをしている自分が滑稽にも思えてくる。
大袈裟だと笑われるかもしれない。それでも手は止まらなかった。
ポケットでスマホが短く振動した。画面には見慣れない見出しが並んでいる。
「原因不明の――」
心臓が跳ねる。最後まで読まず、画面を消してポケットに戻す。今は読みたくない。
読んだら、この買い出しの意味が変わってしまう気がした。
今は買い出しに集中する。それだけを自分に言い聞かせる。
工具コーナーで、壁に掛かったバールに目が留まる。
手に取ると、ずしりとした重みが手のひらに伝わる。
妙な緊張が走った。破壊にも、こじ開けにも使える道具だ。
何かに使う場面を具体的に想像したわけではないのに、手放す気にはなれなかった。
ためらいなくカゴに入れる。
スポーツ用品のコーナーでは、金属バットを一本選ぶ。
木製よりも壊れにくい、という単純な判断だった。
握った感触を確かめながら、自分がひどく実用的なことをしている気になって、少しだけ苦笑いが漏れる。
会計を済ませ、カートを押してジムニーまで戻る。荷物を荷台に積み込みながら、駐車場を見渡す。
数台の車が停まっているだけで、人影はほとんどない。
この静けさが、昨夜からずっと胸に居座っている違和感と重なって、無性に落ち着かなくなる。
「思ったより静かなもんだな」
自分の声が、やけに大きく聞こえた。
荷物を積み終え、空になったカートを押してカートスタンドへ向かう。
数台分空いたスペースの端に、返却用のラックが見える。
あと少しで日常に戻れる――そんな根拠のない安堵が、一瞬だけ胸をよぎった。
第4話「接触」
カートスタンドまであと数歩というところで、横合いから人が現れる。避けきれず、肩がぶつかる。
「あ、すみません」
反射的に頭を下げる。相手は中年の女性だった。
買い物袋を提げたまま、その場に立ち尽くしている。
何か様子がおかしい、と気づくのに、コンマ数秒もかからなかった。
顔を上げた瞬間、違和感が全身を貫く。目に焦点がない。虚空の一点を見つめたまま、動かない。
呼吸すら止まっているように見える。呼びかけようとした矢先、女性の体がこちらに傾いた。
「ちょ――」
言い終わる前に、腕に鈍い痛みが走る。
噛まれた、と気づくまでに一拍かかる。
頭より先に、腕が悲鳴を上げていた。
「痛って!」
腕を引き抜くと、女性はよろけて後ろに倒れ込む。
買い物袋が地面に散らばり、缶詰が転がる音が響く。
その音がやけに大きく耳に残った。
倒れたはずの女性が、すぐに動き出す。
関節の使い方がおかしい。腕の振り方も、首の傾げ方も、人間の動きとしては何かが噛み合っていない。
ぎこちなく体を折り曲げながら起き上がり、こちらへ距離を詰めてくる。
喉の奥から込み上げる嫌悪と恐怖が、うまく分離できないまま胸を締め付ける。
頭の中で、昨夜の記憶が唐突に繋がる。コンビニの男。あの目。あの動き。全部、同じだ。
「……マジかよ、くそ」
声が掠れる。怒りにも似た感情が、恐怖の下から突き上げてくる。
腕を押さえながら後ずさる自分と、状況を分析しようとする自分が、頭の中でずれて重なる。
距離、動線、逃げ場――考えるまでもなく、体が勝手に計算を始めていた。
それでも、心臓は今にも喉から飛び出しそうなほど暴れている。
女性はなおも近づいてくる。すぐ横にあったカートに視線が落ちたのは、ほとんど反射だった。
両手でカートを掴み、力任せに押し出す。
車輪が甲高い音を立てて滑り、女性の体にまともにぶつかる。
よろけて体勢を崩した女性を見届ける余裕もなく、その隙にジムニーへ向かって走る。
腕の痛みは、意識のどこか遠いところに追いやられている。
むしろ痛みを感じないことの方が、じわりと不安を煽ってくる。
頭の片隅で、これはまずいという警告灯が点滅している。
ドアを開け、乗り込み、キーを回す手が思うように定まらない。
二度目でようやくエンジンがかかった。
安堵の息を吐く間もなく、サイドミラーに、両手を前に伸ばしたまま追ってくる女性の姿が映る。
その光景が、しばらく網膜に焼き付いて離れなかった。
ギアを入れ、アクセルを踏み込む。タイヤが軽く軋み、車体が前へ出る。
バックミラーの中で、駐車場の光景がみるみる遠ざかっていく。
振り切ったはずなのに、体の震えは収まらない。
信号を無視して交差点を抜ける。ハンドルを握る手のひらに、汗がにじんでいた。
指先の感覚だけが、やけに鮮明だった。腕の傷から、じわりと熱が広がっていく。
それは痛みというより、何か別のものが体の中を這い回っているような、不気味な感覚だった。
カーラジオが唐突に切り替わる。ノイズ混じりの機械音声が流れ出す。
「緊急放送。政府より発表します。原因不明の暴力行為が全国で――」
声が途切れ、そのままノイズだけが車内に響き続ける。頭が真っ白になりかけるのを、必死に抑え込む。
ハンドルを握る手に、無意識に力がこもった。
まだ何も終わっていない、いや、何かが今、始まったばかりなのだと、体の芯で理解していた。




