第15話「残花」
目の前の彼女、宮本院長は才女であった。
瘦せた体、眼鏡の奥の目には隈が濃い。
若い頃はさぞ綺麗だっただろうと思わせる輪郭に、疲労と覇気がせめぎ合っている。
インフラが崩壊してから一年近く、この規模の病院を潰さず保ち続けている。
その一点だけで、宮本という人間の手腕は疑いようがなかった。
搬入を終え、事務員に院長室に呼ばれる。
彼女は疲れた目をこちらに向け、話し始める。
「いきなりだけど、あなたにしか頼めないことがあるの」
宮本はそう切り出す。
「他の人には、まだ言えないことだけど」
避難民を受け入れてから、病院としての機能は限界に達している。
入院患者と避難民を合わせると、常時三十人近くを診ている状態だった。
鎮痛剤も抗生剤も、在庫は残り僅かだという。
表向きは持ちこたえているように見せているだけで、実際は薄氷の上に立っているようなものだと、宮本は言う。
言葉を選びながら、それでも一つ一つを丁寧に置いていくような話し方だった。
「薬が尽きれば、誰に使うか選ぶことになる」
声のわずかな震えが、それが強がりではないことを示していた。
それだけは、避けたかった。
島の反対側に、まだ誰も手をつけていない大きな病院がある。
規模はここより大きく、薬品の在庫も期待できるという話だった。
「危ないことを頼んでいるのは分かってる」
「それでも、お願いできない?」
宮本の視線はまっすぐだった。
院長としての貫禄の下に、隠しきれない疲労が滲んでいた。
蓮はしばらく黙っていたが、やがて短く頷く。
短い返事に、宮本の肩から力が抜けるのが分かる。
デスクの端に置かれたカレンダーには、今日の日付に丸がつけてあった。
何かの目印なのか、それとも単なる癖なのか、蓮には分からなかった。
軽トラのエンジンをかけると、キーロンが位置情報を読み上げる。
「目的地まで、道なり四十二キロ」
「遠いな」
「距離だけならな。信号も対向車もない、四十分もかからない」
窓を開けると、去年の冬とは違う匂いの風が入ってくる。
枯れ草の匂いではなく、土と若葉の匂いだった。
道端の桜はもう散りかけていて、花びらが風に流されながらアスファルトに張り付いている。
「桜、綺麗だな」
「情緒だな。燃費には貢献しない」
「お前は花を見ても何とも思わないのか」
「反射率の数値は取れる。それ以上は質問の意味が分からない」
「次の交差点を右だ」
言われるまま右折すると、しばらく視界が開けた田畑の間を抜ける道になる。
宮本から渡された地図には、赤いマーカーで目的地が丸く囲まれている。
施設名と、簡単な建物概要だけが書かれていた。
それ以上の情報は、まだ何もなかった。
目的地が近づくにつれ、見覚えのある景色が増えていく。
最初は気のせいだと思った。
似たような病院はいくらでもある。
だが、緩やかなカーブを曲がった先に建物が見えた瞬間、確信に変わる。
三階建ての本館、正面玄関の庇の形、駐車場の位置。
全部、覚えのある配置だった。
「構造一致率、九十四パーセント」
キーロンが淡々と告げる。
「衛星画像の建物輪郭と、お前の過去の位置ログを照合した結果だ」
「過去の位置ログ」
「発生直後、お前がここに立ち寄っている記録が残っている」
感情の起伏を示さない声だった。
それがかえって、蓮の中の何かを静かに揺らす。
ハンドルを握る手に、無意識に力が入る。
駐車場の入り口には、救急車が数台、ドアを開けたまま乗り捨てられていた。
タイヤは劣化してひび割れ、荷室の扉には引っかき傷のようなものが幾筋も残っている。
搬送しようとして、搬送できなかった車だった。
あの日、ここで血液パックを漁った。
あの時の自分と、今の自分の間に流れた時間の長さが、急に実感を伴って迫ってくる。
「停めるぞ」
短くそれだけ言って、軽トラを駐車場の隅に寄せる。
正面玄関のガラス扉は、当時のまま割れて開いていた。
ただし、あの日群がっていた人影はどこにもない。
電気の通っていない院内は、窓から差し込む光だけが頼りの薄暗さだった。
埃と枯れ葉が吹き溜まり、受付カウンターの上には小動物の骨らしきものが転がっている。
「反応、ゼロ」
キーロンが院内の熱源探知結果を告げる。
「生体反応も個体反応も検出しない。ただし奥は電波が届いていない」
ロビーを抜け、当時と同じ通用口から中へ進む。
通路の奥は光が届かず、懐中電灯の輪だけが先を照らす。
棚という棚が倒れ、床には割れた薬瓶の破片が散らばっていた。
誰かが先に漁った跡だった。
空き缶や使用済みの包帯が、隅に無造作に積まれている。
「他のスカベンジャー(回収屋)が入った形跡がある」
「随分前だな。埃が積もっている」
案内標識に従い、階段へ向かう。
非常階段は窓が小さく、一段ごとに闇が濃くなる。
三階、中央検査室。
行き先はもう、地図を見なくても分かっている。
中央検査室のドアは、蝶番が錆びて半開きのままだった。
中に入ると、記憶にある配置とほとんど変わっていない。
冷蔵庫の脇には、当時使った点滴スタンドがまだ立っていた。
支柱の根元に、乾いて黒ずんだ血の跡が残っている。
振り出しに戻ってきたような感覚がある。
あの日、ここに座り込んでパックを数えた時の感触が、不意に蘇る。
足りるのか足りないのか、指で数えながら何度も同じ数を数え直した。
震える手でパックを掻き集め、リュックに詰め込んで走り去った夜のことだった。
持ち帰った先の自宅で、自分の腕に自分で管を通した。
効いているのか、と何度も聞いた。
答えは返ってこなかった。
同じ部屋に、同じ足で立っている。
それでも、あの夜の自分とはもう別人のようだ。
冷蔵庫の扉を開けると、庫内灯はつかなかった。
並んだパックは、どれも変色し萎んでいた。
「保存不能。全数、使用不可判定」
キーロンが淡々と告げる。
「電源が落ちて一年放置されたパックに期待する方がどうかしている」
「分かってた」
「分かっていて開けたのか。効率評価、最低ランクだ」
蓮は空になった手を、しばらく冷蔵庫の縁に置いたままにしている。
院内の奥、旧病棟へ続く連絡通路に踏み込んだ瞬間、キーロンの声が硬くなる。
「反応、多数。八、いや十一」
「多いな」
「密集度も異常だ。通常個体なら、こんな距離感で固まらない」
通路の先、薄闇の中に人影がいくつも重なって見える。
白衣、作業着、私服――格好はばらばらだった。
先にここへ物資を漁りに来て、そのまま戻れなかった連中の成れの果てだと、蓮にはすぐに分かった。
「群れ化個体、確認。学習行動による同調反応だ。指揮系統は存在しない」
「関係ない、来るなら来い」
腰から大型バールを引き抜く。
全長一メートル半、六角の鋼鉄棒の片側には平たいこじ開け刃、反対側には爪状に湾曲した鉤がついている。
持ってみると、まさに鉄塊そのものだった。
長さと重さのバランスは、自衛隊時代に叩き込まれた木刀の感覚に近かった。
正眼に構えると、体が勝手に当時の型を思い出す。
先頭の一体が距離を詰めてくる。
振りかぶらず、下段から掬い上げるように薙ぐ。
こじ開け刃の先端が顎を捉え、頭部ごと弾き飛ばす。
返す動作で横薙ぎ、二体目の側頭部を叩き潰す。
三体目、四体目が左右から挟むように迫るのを、突きで牽制してから踏み込み、鉤の側で首を刈るように振り抜く。
型そのままに、力を抜くところと込めるところを切り替えていく。
強化された筋力は、長柄の重さすら軽く感じさせる。
「反応、六体撃破。残り五」
「数えなくていい」
「そのバール、悪くない選定だったな。頭部破壊効率、金属バット比で一・四倍」
残る個体が次々と間を置かずに突っ込んでくる。連携ではなく、ただ倣っているだけの動きだったが、数の圧力は本物だ。
息を整え直す間もなく、蓮はバールを構え直す。
二体がほぼ同時に踏み込んでくるのを片手で捌き、石突きで腹を突き上げてから鉤を叩き込む。
三体目は組み付こうとしてきたが、柄の中程で押し返し、崩れた体勢へ振り下ろす。
残り二体は距離を取って様子を窺うような、それまでの群れにはなかった動きを見せる。
「学習した。お前の攻撃パターンを避け始めている」
「本当に知恵がついてるのか、これ」
「限定的だが、否定はできない」
一体が回り込むと見せかけ、急に低く姿勢を落として真下から食らいつくように跳んでくる。
反射的に肩を引いた紙一重の距離で、歯が空を噛む。
「あぶねっ」
体勢を崩したところへ、間を置かず石突きを叩き込む。
「今のは予測できなかったな」
「攻撃パターンを避ける学習の裏返しだ。回避に成功する個体の動きが、次第に読みにくくなる」
「先に言え」
「言う前に終わっていた」
最後の一体は、仲間が全滅したのを見て後退ろうとする。
逃げる背中に追いつき、一撃で沈める。
通路には、崩れ落ちた十一体分の影が転がっている。
「反応、消失。全滅確認」
キーロンの声はいつも通り平坦だったが、蓮はしばらくその場に立ち尽くしたまま息を整えていた。
「今までと違うぞ」
「回避行動を学習する個体は、これまで確認していない」
奴らも、何か変わっているのか。
その考えを振り払うように、蓮はバールを担ぎ直す。
通路を抜けた先に、薬品庫の扉があった。
ドアノブは動くが、扉自体がびくともしない。
「施錠、確認。内部からの閂だ」
「中に人がいたってことか」
「可能性がある」
「つまり、中の誰かが最後に閉じこもったってことか」
「その人物がどうなったかは分からない。ただ、扉のおかげで中身は無事だった」
皮肉な話だった。
守ろうとした人間はもういないのに、守られたものだけが残っている。
扉の隙間にバールの平たい先端を差し込む。
体重を乗せて力を込めると、木製の閂がみしみしと軋む。
もう一段、さらに力を込める。
乾いた破断音とともに、扉が内側へ倒れ込むように開く。
懐中電灯を向けると、隅に白衣姿の職員が座り込んだまま事切れていた。
傍らには空の錠剤シートが幾つも散らばっている。
噛まれた形跡はどこにもなかった。
「反応、ゼロ。死後経過、推定十ヶ月以上」
この人が、扉に閂をかけた本人なのだろうと思う。
最後まで、ここを誰にも渡さなかった。
埃が舞い上がる中、棚という棚に薬品箱が整然と並んでいる。
「消毒液、抗生剤、鎮痛剤。数量、想定の三倍以上」
箱を次々とリュックに詰め込んでいく。
職員のそばに、蓮はそっと自分の防寒着を掛ける。
港南病院に戻ると、宮本が院長室からわざわざ玄関まで出てきていた。
搬入したリュックの中身を、笹川と遠藤が手早く確認していく。
「予想以上だわ」
医薬品の量を見て、宮本の表情が僅かに緩む。
次の瞬間、両腕が伸びてきて、蓮の体をきつく抱きしめる。
一瞬のことで、蓮は反応が遅れる。
宮本の背中は、思ったよりも小さかった。
「ありがとう」
声が微かに震えていた。
それは一瞬だけで、すぐに体を離すと、宮本はもういつもの院長の顔に戻る。
背筋を伸ばし、スタッフの方へ向き直り、指示を飛ばし始める。
その裏側を知っているのは、この場では蓮しかいなかった。
軽トラに戻り、エンジンをかける。
窓の外には、朝より一段と散った桜の花びらが、道端に積もっていた。
「あの冬から、随分経ったな」
「発生から三百八十七日経過。感傷には早いか遅いか、判断がつかない」
「お前が言うと台無しだな」
「正確なだけだ」
軽トラが走り出すと、散った桜の花びらが、バックミラーの向こうへ流れていった。




