第10話「朝凪」
空はまだ紺色を残していた。
漁港のすぐ脇、堤防に立ち、サビキ仕掛けを海へ投げ入れる。
波の音だけが辺りを満たしている。
傍らに置いたクーラーボックスには、あらかじめ海水を汲んで入れてある。
仕掛けを落としながら、あの日のやり取りを思い出す。
「棚はこのあたりだ。潮の流れを見て、少し沖に投げるといい」
老人は皺だらけの手で、仕掛けの結び方を一つずつ示してくれた。
「撒き餌はケチるな。魚が寄らなきゃ意味がない」
言われた通りに、コマセを海に撒く。
最初の一投で、竿先がぶるりと震えた。
仕掛けを引き上げると、鈴なりに掛かったアジが跳ねる。
一匹どころではない。
針のほとんどに、それぞれ食いついていた。
「個体数、想定を上回る」
「釣り人の減少による漁獲圧の低下、それに伴う密度増加と見て矛盾はない」
「擦れてないってことか」
「その通り」
「今後もこの調子なら、漁業資源の観点では悪くない兆候だ。人類にとっては別の話だが」
軽口に付き合いながら、次の仕掛けを打つ。
釣り上げるたび、老人に教わった通りにドライバーを脳天へ突き入れ、素早く締める。
「暴れさせるな、身が傷む」
あの時の声を思い出しながら、手早く一匹ずつ仕留めていく。
締めるたびに、クーラーボックスへ放り込んでいく。
海水に浸けておけば、乾いて傷むよりはましだ。
三投目を過ぎたあたりで、クーラーボックスの中身がすでに底を見せなくなっていた。
「収納容量、限界に到達」
キーロンの声に、蓋を閉めながら苦笑する。
「入りきらないな、これは」
仕掛けを一旦置き、目と鼻の先の漁港へ足を運ぶ。
備え付けの発泡スチロールをいくつか失敬し、抱えて堤防へ戻った。
空いた発泡スチロールに海水を汲み入れ、締めた端から放り込んでいく。
仕掛けを打つたび、竿先はまだ震え続けていた。
冷やす手立てが海水だけでは長くは持たない。
家には寄らず、軽トラをそのまま港南学校へ向けた。
校庭に着くと、すでに賑やかな声が飛んでいた。
朝倉先生が子供たちを座らせ、何かを言い聞かせている最中だった。
その輪の中から、一人の子供が真っ先に駆け出してくる。
「蓮! それ魚!」
悠人だった。
積み下ろす箱を覗き込む前から、もう跳ねるような足取りになっている。
「お菓子の代わりだ」
クーラーボックスを地面に下ろすと、悠人はすぐさま蓋に手を掛けていた。
発泡スチロールも次々と運ばれ、校庭の隅に並んでいく。
「えー、お菓子がいい」
周りの子供たちから、口々に文句が飛ぶ。
「魚とかいらない」
「お前らな」
悠人が箱の中を覗き込みながら、得意げに言い返した。
「これ絶対うまいって」
人だかりの奥から、老人がゆっくりと歩いてくる。
包丁を一本、腰に提げていた。
「貸してみろ」
箱を覗き、満足そうに頷く。
「悪くない」
老人が魚を手に取ると、鱗とゼイゴを落とす手つきに迷いがない。
腹側、背側、背側、腹側と刃を入れ、手早く三枚におろしていく。
あっという間に、身が薄く並んでいく。
子供たちが、その手元を食い入るように見ていた。
「すごい、はやい」
悠人が声を上げる。
校舎の方から、炊きあがったご飯の匂いが漂ってきていた。
朝倉先生が大きな鍋を運んでくる。
「ちょうど炊けたところなんです」
刺身を皿に盛り、ご飯と一緒に子供たちへ配っていく。
薄く透き通った身が、陽の光を受けて艶やかに光っていた。
悠人が真っ先に手を伸ばし、一切れ口に運ぶ。
「うまっ」
叫ぶように言うと、隣の子供にも勧め始めた。
「な、うまいだろ!」
まるで自分が釣ったような得意げな顔をしている。
誰からともなく、輪になって食べ始める。
子供たちは皿を抱えたまま、夢中で箸を動かしていた。
小さい子は箸がうまく使えず、指で摘んで口へ運んでいる。
醤油を垂らしすぎた子が顔をしかめ、隣の子に笑われていた。
「もちもちしてる」
「甘い!」
「ご飯と交互に食べるとやばい」
感想を口々に叫びながら、あっという間に皿を空にしていく。
あちこちから、おかわりの声が上がる。
朝倉先生が笑いながら、順番に刺身を足していく。
「喧嘩しないでくださいね、ちゃんと皆さんの分ありますから」
骨と皮だけになった魚の残骸が、まな板の脇に積み上がっていく。
老人はその様子を眺めながら、手酌のように一切れをつまみ、満足げに頷いていた。
悠人がおかわりを終え、腹をさすりながら仰向けに寝転がる。
「もう動けない」
そう言いながらも、皿にはまだ何切れか残していた。
老人が近づいてきて、無言のまま肩を叩いた。
「よくやった」
それだけ言うと、また輪の方へ戻っていく。
骨ばった手のひらの感触が、しばらく肩に残っていた。
取引相手として顔を覚えられているだけだと思っていた自分が、今だけは輪の内側にいるように感じられた。
老人の隣で刺身を摘んでいた男が、皿を置いて腰を上げる。
日に焼けた顔、迷彩柄の上着。
見覚えがある。
バリケードの上、猟銃を担いで立っている姿を何度も見た。
避難してくるまでは猟師をしていたと聞いている。
「兄さん、大した稼ぎだな」
並んだ発泡スチロールを見て、感心したように言う。
「その調子なら、頼みごと聞いてくれんか」
銃砲店の名前を挙げる。
猟師だった頃、世話になっていた店だという。
確かめに行くには今の状況では分が悪すぎる、と男は続けた。
「あそこ、まだ手つかずかもしれん。中身、見てきてもらえんか」
断る理由もなく、場所を聞いて頷いた。
銃砲店は、住宅街の外れにあった。
近づく前から、無数の人影が店の周りを埋め尽くしているのが見える。
「店舗周辺に個体が密集している、目視で三十前後だ」
あの学校の一件ほどではないが、それに次ぐ密集だった。
シャッターには、無数の爪痕と打撲の跡が刻まれていた。
鉄格子の一部は歪んでいるが、破られてはいない。
中身の価値を考えれば、頷ける光景だった。
バールと金属バットを手に、うろつく個体を一体ずつ片付けていく。
数をこなすごとに、呼吸が整っていくのが自分でも分かる。
最後の一体、頭部に一撃を入れると、思ったより浅い力で頭蓋が陥没する。
手応えの軽さに、慣れたはずの戸惑いがまた顔を出す。
店内は薄暗い。
棚がいくつか倒れ、ガラスケースが割れている。
だが完全に荒らされてはいない。
レジ横に積まれた資材で、簡易のバリケードが組まれた跡がある。
その内側に、三体。
揃いの作業着に、店の刺繍が入っている。
最後まで、ここを守ろうとしていた者たちらしい。
一体は今も、工具を握ったままだった。
三体とも、順に静かに終わらせる。
奥の保管庫は、分厚い鋼鉄の扉で閉ざされていた。
バールをこじ入れて力を込めるが、扉はびくともしない。
「こじ開けは非効率だ」
「この手の店なら、工具置き場は右奥にあるのが定石だ。そちらを調べてみろ」
言われた方向に目をやると、壁に立てかけられたスレッジハンマーがあった。
両手で持ち上げ、振りかぶる。
扉に叩きつけると、鈍い音とともに大きく歪む。
二撃、三撃と続けるうち、蝶番が耐えきれず外れる。
扉ごと、内側へ倒れ込んだ。
自分の腕の中で起きていることが、まだ実感を伴わない。
倒れた扉の奥、猟銃と空気銃が整然と並んでいた。
弾薬の箱も、棚一面に積み上げられている。
軽トラの荷台に、一つずつ運び込む。
最後に、スレッジハンマーも荷台へ放り込んだ。
「出発するか」
キーロンの声に、我に返る。
「ああ」
学校に戻り、荷物を降ろす。
銃と弾薬の量に、居合わせた大人たちが息を呑む。
その中に、見覚えのない男が一人いた。
姿勢の良さと、荷物を検分するような目つきが、他の大人たちとは違う。
「元、県警の者です」
男はそう名乗り、猟銃を一丁手に取って点検する。
「これだけ集められるなら」
男は静かに言った。
「警察署の保管庫も、当たってもらえませんか」
拳銃と、署員用の実包程度のはずだ、と男は続けた。
量としては銃砲店ほどではないが、種類が違う。
「誰かに先を越される前に、確保しておきたい」
発生から日数が経っている以上、いつ奪われてもおかしくない、と男は付け加えた。
「案内も兼ねて、俺も行きます」
男は真剣な顔でそう申し出た。
「いや、一人でいい」
短く答えると、男は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は食い下がらなかった。
答えは、今すぐ出さなかった。
荷台に積まれたスレッジハンマーに、目をやっただけだった。
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