第35話 月女神の雫
跳躍したリリアの脚が吸い寄せられるように壁へと着地する。
眼下には地面を埋め尽くす炎の群れが蠢いていた。
小さな体が重力を思い出すよりも早く、脚を踏み出し駆ける。
ほとんど垂直に近い壁を、ぐるぐると回る。
「すごいな。魔道具技師よりも、曲芸師の方が向いてるんじゃないか?!」
自身の生み出した炎の蛇が届かなくなってもなお、男は笑っていた。
器用に壁走りで蛇をかわすリリアの行動など、男にとっては大した問題ではないとばかりに手を振りかざす。
「クリメイションイーグル」
細長い蛇とは明らかに異なる物体が、新たに男の腕の炎から生み出された。
生み出されたそれは男の周囲で、二度と三度と羽ばたくと、鋭いクチバシをリリアへと向ける。
「地面に降りてこないってんなら、撃ち落とすだけだよな!」
男はまるで、指揮者にでもなったかのように腕を大きく振る。
生み出された数体の鳥型炎が、走るリリア目掛けて飛翔する。
横まで炎の鳥を確認したリリアは、踏み出す脚にさらに力を込める。
加速したリリアのすぐ背中を、かすり抜けた炎の鳥が石壁へと激突していく。
「速えなあ、おい! そんなにとばして魔力は大丈夫かよ?!」
男の言葉にチラリと脚のペンダントを見る。
ほんのりと光を帯びるペンダントには、最初ほどの輝きはない。
炸裂して弾ける背後の壁へ気を配りながら、男の周囲を注意深く観察する。
男の足元には、最初はどの蛇の密度は無く。
全体に広がる蛇の群れも、密度が薄れている気がした。
「ちっ、逃げてばっかじゃつまんねえぞ! せっかく少し熱くなってきたんだからよ、あんま冷めたことしてんじゃねえよ!」
苛立つ男の言葉に呼応するかのように、リリアを追撃する炎の勢いが増す。
「もっともっとアゲていこうぜ!!」
右手を高く上げた男が叫ぶ。
「クリメイションフライ!」
その炎は、今までの炎とは明らかに違っていた。
遠目には一つの炎に見えるほど密集した“それ”らはは、みるみる体積を膨れ上がらせ空間を満たしていく。
球体のように膨れたそれを男が手を振り下ろし放つ。
「燃えろ銀脚!」
上下左右に散開しながら膨れ向かってくるそれは、速度自体は決して速いものではなかったが、ゆっくりと確実にリリアとの距離を縮めてくる。
「ーーーーーーッ、振り切れない!」
視界を覆い尽くすほどの細かいそれらの群れを前に、リリアは壁を削るように静止すると、体を屈め脚に力を貯めた。
視線は巨大な群れの端。
中央よりも僅かに密度が薄くなった場所へ狙いを定め微調整をかける。
リリアの体が重力に負けて落下を始める直前、目一杯深く呼吸を吸い込み止める。
両脚のバネを一気に解放したリリアが、全身に蒼雷を纏って飛ぶ。
両目の目蓋を強く閉じ、両腕を前にクロスする。
髪の焦げた臭いが鼻をつく。
露出した肌がジリジリと焼けて、痛みが突き刺さる。
無限にも思える時間を滞空したリリアの頬を、冷たい風がフワリと撫でる。
「ぷはっ!」
新鮮な空気が肺へと流れ込んでくる。
目蓋を開けた青い瞳に真っ先に飛び込んできたのは石の壁だった。
「くっーーーーーー!」
体が壁へと叩きつけられる前に、無理矢理折り込んだ上半身を捩り、両脚ので壁の表面を捉える。
吸収しきれなかった衝撃が、脚から腰を伝い、リリアの脳髄を揺らす。
ガリガリと滑り落ちていく体を必死に支えながら、迫る地面へと降り立つ。
「まさか炎の群れの中を突っ込んでくるとはな。面白いじゃねえか」
カラカラと笑う男が楽しそうに歩みを進める。
「ただーーーーーー」
男を避けるように蛇の群れが消えていく。
「もう魔力が残ってねえみたいだな・・・・・・」
力無く地面に座り込むリリアの姿に、男が落胆の表情を浮かべる。
「はあ、はあ、はあ」
息も絶え絶えなリリアが、すっかり重くなった脚を手で支えるように前へ出す。
「なんだお前、その魔道具がねえと立つこともできねえのかよ」
リリアへとゆっくり近づいてくる男は、ますます落胆したように左手で頭を掻きむしる。
「ま、少しは楽しめたか?」
つまらなそうに歩く男の足音だけが広場に響く。
「・・・・・・貴方はどうして、こんなことをしているんですか?」
ボソリとリリアが呟く。
「どうして、ねえ。しいて言うなら好きだからだな」
「・・・・・・好きだから? 人を傷つけることが好きだって言うんですか?」
二人の間に遮るものは何も無く、熱気だけが重苦しく沈んでいる。
「別にアンタと問答するつもりもねえから好きに思ってくれて構わないけどよ。燃えるような命の削り合いが好きなんだよ」
男の言葉にリリアは小さく口を開く。
「そんな、互いに傷つけあうなんて間違ってます。魔法は皆んなを幸せにするためにあるはずです・・・・・・」
「俺は今最高に幸せだぜ。何せ魔法のおかげで、こんなにもヒリヒリした世界を生きられてるんだからな!」
男の右腕に炎が灯る。
睨むリリアを真っ直ぐ見据えながら、男は手を高く掲げた。
「灰は灰に、塵は塵にってな。少しだが退屈を紛らわしてくれた礼だ。最大火力で消し炭にしてやるよ」
大気が歪むほどの熱量が炎となって空間を支配していく。
まだ届く前の空気でさえ、肺をジリジリと焦がしている。
男は微かに目を細めると、掲げた右腕をゆっくりと振る。
「じゃあな銀脚。あの世でも会うことはねえだろうぜ」
迫る赤と熱を前にして、リリアは静かに、だがしっかりとした発音で、焼けつく喉に空気を流し音を通す。
「月女神の雫、起動」




