第21話 公爵の逃亡
カイルが退室し、扉が静かに閉まる。
一人になった途端、アルセンは背もたれに身を預け、長い息を吐いた。
そのまま、力なくうなだれる。
「なんだか、最近はどうも面倒ごとばかりだな」
アルセンは、ぽつりと呟いた。
宰相というのは、とかく忙しく、面倒ごとの絶えない立場だ。父から早くに公爵位を継ぎ、ただひたすらに仕事をこなし、役割を果たしているうちに――気づけば、宰相の座にまで収まってしまっていた。
そして同じく、リード公爵という立場もまた、面倒が多い。
その地位と、恵まれた容姿。それを目当てに、令嬢たちが次々と群がってくる。だが、そのどれもが見ているのは肩書きばかりで、アルセンという一人の男の中身になど、誰ひとり興味を持ちはしなかった。
アルセンは、ふと机の上に目をやった。
山と積まれた書類。その隅で、日に日に高くなっていく見合い用の姿絵。暇を持て余した狸親父どもの相手に、いくら手を尽くしても尻尾の掴めない事件。
その全部に、うんざりしていた。
「はぁ……ここにこれ以上いると、頭がおかしくなりそうだ」
アルセンは立ち上がり、ローブを手に取ると、執務室をこっそり抜け出した。
もう日も傾きかけた頃だ。今ごろ無人の執務室で、カイルが頭を抱えて叫んでいるかもしれない。
そんなことは、今は関係ない。これ以上ストレスを溜め込めば、近いうちに誰かを殺しかねない。物理ではなく、口で。
フードを目深に被り、衛兵の目をかいくぐるようにして王宮を出る。
「久しぶりに街に来たな。……いつぶりだ」
雑踏のざわめきと、どこかから漂う焼き菓子の匂い。記憶を辿りかけて、ふっと口元が緩んだ。
そういえば、まともに街へ出たのは、あの不思議な女と会った時のことだ。ユリスのクソ野郎のせいで最悪な気分にさせられたが、彼女のおかげで、あの日は妙に面白かった。
「……そういえば、どこの令嬢か調べるのを忘れていたな」
また会うことがあれば、今度こそ名前くらいは聞いてみよう。そんなことを思いながら、軒を連ねる店先を眺め、ゆっくりと通りを歩いていく。
しばらく行ったところで、アルセンは一軒のカフェのテラス席に腰を下ろした。日の当たる席で、運ばれてきたものに口をつけ、ようやく人心地つく。
なかなかどうして、ケーキもコーヒーも悪くない。確か、近ごろ街で評判のカフェだとカイルが言っていた気がする。事実、店内もテラス席もどこも埋まるほどの盛況ぶりだったが、向こうがこちらの顔を知っていたらしく、店員はすぐに心得た様子で日当たりのいい特等席へと通してくれた。
こういうときばかりは、公爵の身分も悪くないと思う。普段は煩わしいばかりの肩書きが、たまにはこうして役に立つ。
カップを置くと、張りつめていた肩からまた少し力が抜けた。
「久しぶりだな、こんなにゆったりした時間は」
まどろむような昼下がりの陽気の中、アルセンは久方ぶりの一人の時間を満喫していた。
「……ん?」
今、見覚えのある人影が、通りを横切った気がした。
にや、と口角が上がる。
考えるより先に、アルセンの足はもうその人物を追って駆け出していた。




